第3話:戦わない調律、あるいは優雅なお掃除
汚染の臨界点を突破したことで、再び最強の『魔王エターナル』へとログインした真理。
目の前には、黒煙を撒き散らし、美しい森の血流を詰まらせている巨大な工業要塞。そして、彼女を排除しようと群がる防衛システムの数々。
圧倒的な力を得たマリによる、異世界初のお片付け(調律)無双がいよいよ始まります!
「……さて。それじゃあ、サクッとお掃除を始めちゃおうかな」
漆黒のドレスをなびかせ、魔王エターナル――その内面である久遠真理は、崖の上から見下ろす巨大な工場に向けて、静かに言葉を放った。
声のトーンは至って軽やか。心の中の女子高生は「よーし、部屋の模様替えでもするか!」くらいの気軽なノリなのだが、魔王の身体から出力されるその声は、世界そのものを震わせるような、深く、冷徹で、絶対的な威厳に満ちあふれていた。
周囲の空気の質が、彼女がログインした瞬間から劇的に変化している。
先ほどまでマリの喉をチクチクと刺激していた、化学薬品の鼻を突くような悪臭や、ねっとりと肌にまとわりつくような不快な熱気。それらが、エターナルの全身から溢れ出る、目に見えない清らかな波動によって、近づくことすら許されずに霧散していくのだ。
エターナルの周囲数メートルだけは、まるで高山のアザラシが住む氷原のように、完全に澄み切った不可視の結界で守られているかのようだった。
(頭の中に流れ込んでくるこの感覚……やっぱり、二回目だと少し慣れるね。あの工場の中がどうなってるのか、透視するまでもなく全部丸見えだわ)
目を細めると、工場の不気味な黒い石壁を透過して、内部の構造が網の目のように脳内マップへ映し出された。
地下から無理やり吸い上げられている大量の魔力。それを不当に圧縮し、歯車を回すためのエネルギーへと変換している中心部――『魔導炉』。
そして、そのエネルギーを絞り出す過程で生じる、行き場を失った大量の廃熱と、不純物が混ざり合った有毒な液体。それらが、何の処理も施されないまま、あの巨大な排水口から小川へと垂れ流されている。
(人間で言えば、ひどい暴飲暴食をして、消化不良のまま毒素を体中に撒き散らしているようなもの。……うん、見てるだけでお腹が痛くなりそう。一刻も早く、すっきり綺麗にしてあげないと)
エターナルは一歩、空中へと足を踏み出した。
地面を踏むのではない。彼女の足元には、まるで目に見えない透明な階段が存在するかのように、ドレスの裾を揺らしながら、優雅に空を歩いて崖を下りていく。
その絶対的な侵入者に対し、工場の自動防衛システムが即座に反応した。
ウィィィィィン――!!
耳障りなサイレンの音が盆地全体に響き渡る。
工場の敷地を囲む鉄柵のあちこちから、先ほどマリを襲ったものと同じ、全高一・五メートルほどの金属製ドローンが、十、二十、五十――いや、優に百を超える数が、カシャカシャと不気味な音を立てて湧き出してきた。
それだけではない。工場の屋根に設置されていた、巨大な大砲のような形をした『魔導防衛砲』が、ギチギチと重々しい音を立てて旋回し、その銃口をすべて空中を歩くエターナルへと固定した。
『――超高エネルギー生命体を感知』
『――危険度・特級。最大出力での排除を開始します』
機械的な無機質な音声が重なり合う。
次の瞬間、百体以上のドローンが一斉に槍を掲げ、その先端から目も眩むような青白い電撃の弾丸を解き放った。同時に、屋根の防衛砲からも、大気を引き裂くほどの質量を持った、禍々しい紫色の魔力レーザーが数条、エターナル目掛けて一斉に発射された。
ドガガガガガガガガガガガアァァァーーーッ!!!
盆地全体が真っ白な光に包まれ、凄まじい爆風と衝撃波が周囲の枯れ木をなぎ倒した。
直撃した空間はドロドロに空間ごとねじ切れ、激しい煙が立ち込める。人間はおろか、伝説の竜種であっても、跡形もなく消し飛ぶほどの過剰な暴力の嵐。
工場のドローンたちは、赤いセンサーの瞳を明滅させ、ターゲットの消滅を確認しようとした。
しかし、激しい煙を割って現れたのは――傷一つない、それどころか、ドレスの埃一つすらついていない、涼しい顔をした魔王エターナルの姿だった。
「な……に……?」
防衛システムの制御人工知能が、あり得ない計算結果にバグを起こしたかのように、ドローンたちの動きがカチカチと一瞬硬直する。
エターナルは、バリアを張ったわけでも、超高速で回避したわけでもない。
ただ、襲いかかってきたすべての「破壊のエネルギー」のベクトルを、空間に手をかざすことで、一瞬にして別のものへと書き換えたのだ。
(これだけの魔力を、ただ物を壊すためだけに使うなんて、本当にもったいないなぁ……。ちょうど、この周りの土地、工場のせいでカラカラに乾燥して砂漠みたいになってるし。有効活用させてもらおうっと)
エターナルが漆黒の袖を優雅に一振りする。
すると、彼女の身体に命中したはずの電撃やレーザーの膨大なエネルギーが、一瞬にして「湿り気を含んだ優しい光の雨」へと変換され、周囲の枯れ果てた大地へと、しっとりと降り注いだ。
ジュウゥゥ……と、熱を帯びていた地面が心地よさそうに音を立てる。
水分と純粋な魔力を吸い込んだ土壌から、みるみるうちに青々とした瑞々しい芝生が芽吹き、一瞬にして、工場の周りに見渡す限りの美しい緑の絨毯が広がっていった。
「きゅ、きゅーっ!」
遠くの崖の上から、避難していたぽんぽぽが、その光景を見て大喜びで飛び跳ねているのが見える。
『――エラー。攻撃の効果を確認できず。再攻撃に移行――』
頑固な防衛システムは、なおも諦めずに次の砲撃をチャージしようとする。
だが、エターナルに二度目の無駄なエネルギー消費を付き合うつもりはなかった。
「もう、おやめなさい。その力は、誰かを傷つけるためのものではないわ」
エターナルは、すっと右手を前に突き出し、美しい五指をそっと広げた。
戦闘スキル系統の一つ――『反射』の応用。
ただし、敵にダメージを返すのではない。敵の動きの「原因」を、そのまま自分自身へと突き返す調律の技。
「――『理の鏡』」
鈴を転がすような美声が響いた瞬間、工場から放たれようとしていた全ての魔力が、ピタッと銃口の中で完全に停止した。
それだけではない。ドローンたちの槍から溢れていた青い電撃が、逆流するように彼ら自身の駆動組織へと流れ込んでいく。
バチバチバチッ! と小さな火花を散らしながら、百体以上のドローンたちが、一斉にその場に膝を突いた。
壊れたのではない。彼らの体内に流れる魔力の回路が、エターナルの干渉によって「過剰な出力を出そうとすると、自動的に安全装置が落ちる」という仕組みに、根底から書き換えられてしまったのだ。
ドローンたちは、槍を持ったまま静かに活動を停止し、まるで工場の周りを守る、無害な金属の彫刻のようになってしまった。屋根の上の大砲も、完全に沈黙し、だらりと下を向いている。
(よしよし、警備ロボットたちはこれで大人しくなったね。誰も壊してないし、誰も傷つけてない。完璧なお片付けだわ!)
心の中でガッツポーズを決めるマリだったが、もちろん外見は冷徹な美魔王のままだ。
邪魔するものが誰もいなくなった工場の敷地内へと、エターナルはゆっくりと舞い下りた。
鉄柵の門は固く閉ざされていたが、彼女が近づくだけで、錆びついた鉄の分子構造が一時的に緩み、まるで液体のように波打って、彼女を自然と中へと通した。
工場の敷地内に入ると、空気の淀みはさらに深刻だった。
巨大な建物の壁面には、不気味な歯車がガチガチと噛み合い、狂ったような速度で回転し続けている。そこから漏れ出る油が、地面を汚していた。
エターナルは建物の正面にある、分厚い鉄製の扉の前に立つ。
鍵を開ける必要すらない。彼女が手を触れると、扉は音もなく内側へと開き、工場の心臓部へと続く道が明らかになった。
内部は、まるで巨大な怪物の胎内だった。
張り巡らされた無数のパイプの中を、濁った魔力がドクドクと音を立てて流れている。中央の吹き抜けの空間には、見上げるほど巨大な『魔導炉』が、真っ赤な高熱を発しながら、破裂しそうなほど激しく振動していた。
「――お前が、この地の悲鳴の源ね」
エターナルは魔導炉の前に立ち、その燃え盛るような熱源をじっと見つめた。
普通の人間なら、近づくだけで皮膚が焼け焦げるほどの熱気。しかし、エターナルのドレスの裾は、その熱すらも吸収し、心地よい微風へと変えていく。
脳内マップが、魔導炉の「バグ」の原因を完全に突き止めていた。
この炉を作った人間たちは、より多くの出力を得ようとするあまり、炉の内側に「魔力を無理やり圧縮して、循環させずに限界まで詰め込む」という、極めて乱暴な魔法陣を刻み込んでいたのだ。
排水溝から流れるヘドロは、その歪んだ圧縮によって生じた、魔力の『燃えカス』だった。
(排気ガスがひどい車と同じ。エンジンの燃焼効率が最悪だから、黒煙も出るし、変な廃液も出ちゃうんだわ。だったら――エンジンの構造そのものを、もっとクリーンで、自然に優しいものに変えちゃえばいい!)
エターナルはゆっくりと両手を掲げた。
今度は、スキル系統――『循環』の真髄。
「――元あるべき姿へ。巡り、清まり、還りなさい」
彼女の十指から、透き通るようなエメラルドグリーンの光の帯が何条も伸び、激しく振動する魔導炉全体を優しく包み込んでいった。
光の帯は、魔導炉の鉄の表面を透過し、その内部に刻まれていた「歪んだ魔法陣」へと直接干渉していく。
ギチギチギチ……と、工場全体が悲鳴を上げるような音が響く。
しかし、それは破壊の音ではない。狂った歯車が、正しい噛み合わせへと戻ろうとする、再生の音だった。
魔導炉の表面に刻まれていた、赤黒い不気味な紋様が、エターナルの光によって上書きされていく。無理な圧縮を強いる独裁的な回路から、周囲の大気や大地のエネルギーと「呼吸」を合わせ、自然に電力を生み出す、美しい『調和の魔法陣』へと。
変化は、一瞬にして工場全体へと伝播していった。
ガコン、と大きな音がして、狂ったように回転していた巨大な歯車たちのスピードが、みるみるうちに落ちていく。そして、トントン、トントンと、まるで健康な人間の心臓の鼓動のような、非常に静かで心地よい稼働音へと変わっていった。
同時に、天井の煙突からモクモクと吹き出していた、あの忌まわしい黒煙がピタリと止まる。
数秒の後、煙突から勢いよく噴き出したのは――黒煙ではなく、ひんやりとした、周囲の乾燥した空気を潤すための『純白の冷却ミスト(心地よい霧)』だった。
「あ……」
エターナルが工場の外へ視線を向けると、建物の最下部にある巨大な排水口からの流れも、劇的に変化していた。
どす黒いヘドロやギラギラした油は一滴残らず消え失せ、そこから流れ出しているのは、光を浴びてキラキラと輝く、魚たちも喜んで泳げるほどの『清らかな湧き水』だった。
湧き水は、勢いよく小川へと流れ込み、溜まっていたヘドロを優しく洗い流していく。
川底の黒い汚れがみるみるうちに押し流され、元の美しい丸石たちが再び顔を覗かせた。
(やった……! 大成功! 工場を壊さずに、中身だけを最新のエコ工場にリフォームしちゃったわ!)
マリの心の中の女子高生は、大はしゃぎでダンスを踊りたい気分だった。
これで森の空気も、川の水も、すべてが元通り――いや、前よりももっと豊かで綺麗な状態へと戻ったのだ。
やり遂げた充実感に浸りながら、エターナルは静かに工場から外へと出た。
盆地を覆っていたあの不快な霧は完全に晴れ、今や、大樹の広場と同じような、爽やかで清々しい風が吹き抜けている。
機能を停止していた防衛ドローンたちも、新しく書き換わった魔導炉からのクリーンなエネルギーを受け取り、再び目を覚まし始めていた。しかし、その瞳のセンサーはもう赤く不気味に光ってはいない。穏やかな、優しい新緑の緑色に点灯している。
彼らはもう、近づく者を無差別に排除する暴力的マシーンではない。これからは、このエコ工場と、周囲の自然のバランス維持を静かに見守る『緑の番人』として、この地に残り続けるのだ。
「きゅーっ! きゅい、きゅいーっ!」
パタパタと小気味よい足音がして、崖の上からぽんぽぽが猛スピードで駆け下りてきた。
その頭の上のタンポポは、先ほどの萎れた姿が嘘のように、シャキッと元気いっぱいに黄色い大輪の花を咲かせている。
ぽんぽぽはエターナルの足元まで来ると、ドレスの裾にそのふわふわの体をスリスリと擦り付け、何度も何度も、感謝を伝えるように嬉しそうに鳴いた。
「よかったわね、ぽんぽぽ。これであなたたちの家も、もう安心よ」
エターナルはしゃがみ込み、そのもこもこの頭を、穏やかな微笑みを浮かべながら優しく撫でた。
感謝されることは、決して嫌な気分ではない。むしろ、自分のしたお片付けが、誰かをこんなにも笑顔に(生き物だけど)できたのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
誇るわけでもない、傲るわけでもない。ただ、世界が正常に呼吸を始めたことを、自分の肌で確かめられたことへの、純粋な喜び。
その時。
やはり、あの感覚がやってきた。
エターナルの白磁の指先から、淡い光の粒子がぽろぽろと零れ落ち始める。
頭の中に満ちていた、工場のパラメーターや世界の全能の情報が、まるで夢から覚めるように、スーッと遠ざかっていく。
(あ、やっぱりお掃除が終わると、お役御免になっちゃうんだね……)
寂しさはなかった。むしろ、「今回も無事にお仕事完了!」という、定時退社を迎えた会社員のような、妙なスッキリ感があった。
漆黒のドレスが光に溶け、身体がみるみるうちに元のサイズへと縮んでいく。艶やかな漆黒のロングヘアも、一瞬にして光の霧へと変わり、いつもの黒髪ショートカットへと戻っていく。
ドサリ。
三度、瑞々しい緑の芝生の上に、お尻を突いて座り込む一人の少女。
ライトグレーのパーカーに、ジーンズ、そして泥のついたスニーカー。どこからどう見ても、ただの普通の女子高生――『マリ』の姿が、そこにあった。
「ふぅ……。やっぱり、終わると強制ログアウトかぁ。せめて変身の演出、もうちょっと着地に猶予をくれると嬉しいんだけどな、お尻痛いし」
マリは苦笑いしながら立ち上がり、ジーンズについた草の葉をパンパンと手ではたいた。
魔王の時の圧倒的なカリスマは消え失せているが、不思議と、心はとても軽かった。
「きゅ、きゅ?」
目の前にいる黒髪ショートの少女が、さっきまでの偉大な魔王さまだと分からなくなったのか、ぽんぽぽが首を傾げてマリを見上げている。
「あはは、驚かせてごめんね。中身は同じなんだけど、これが私の『普段着』なんだ。よろしくね、ぽんぽぽ」
マリがしゃがんで手を差し出すと、ぽんぽぽはくんくんと匂いを嗅ぎ――先ほどと同じ、大好きな調律者の気配を感じ取ったのか、「きゅーっ!」と嬉しそうに鳴いて、マリの手のひらに小さな頭を預けてきた。
「可愛いなぁ……。よしよし」
しばらくぽんぽぽと戯れていたマリだったが、ふと、ある現実的な問題に気づいて動きを止めた。
「……あ。川と工場は綺麗になったけど、私のご飯問題と、人間の街へ行くルート問題、一ミリも解決してなくない?」
そう、最初のトラブル(公害)は完璧に片付いたが、マリ自身は未だに、異世界の身寄りもない、お金もない、家もない、ただの遭難女子高生なのだ。
「きゅー?」
お腹を空かせて遠い目をし始めたマリを見て、ぽんぽぽが不思議そうに鳴く。
エコ工場へと生まれ変わった建物を背に、マリとぽんぽぽの、次なる一歩が始まろうとしていた。
第3話をお読みいただき、本当にありがとうございました!
世界のバグ(公害工場)を、力で破壊するのではなく、その仕組みを根底からクリーンに書き換えるという、魔王エターナルならではの『優雅なお掃除無双』、楽しんでいただけましたでしょうか?
敵のエネルギーを大地の再生に変え、警備システムを緑の番人に変える。これぞ、戦わない調律の真髄です。
そしてお仕事が終われば、やっぱりお尻を突いて普通の少女に戻ってしまうマリ。マスコット(?)のぽんぽぽという可愛い相棒も増えましたが、彼女の胃袋メーターは限界寸前です。
次回、新しくなったクリーンな川の流れを辿り、マリはいよいよ『人間の街』へと足を踏み入れます。しかし、そこにはまた別の、人間たちの思想や欲が絡み合った「新たな歪み」が待ち受けていて……?
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成:ミニ(Gemini)




