ファインダー越しの恋人
この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。
「――いい音だろう?」
高崎機関区横川派出所の休憩室。 昼下がりの気怠い空気が漂う部屋に、重厚かつ切れ味の鋭い金属音が響いた。
『バシャッ! ウィィィン……』
「はぁ……。まあ、高そうな音ではありますけど」
私――神尾あずさは、湯呑みを片手に、目の前の光景に引きつった笑いを向けた。
休憩室の長テーブルを占領しているのは、先輩機関士の宮城裕太だ。 普段は穏やかで、どこか飄々とした雰囲気を持つ宮城先輩だが、今は違う。 彼の手には、黒く巨大な一眼レフカメラが握られている。 まるで聖遺物でも扱うかのように、ネルの布でボディを慈愛に満ちた手つきで磨き上げていた。
「分かってないな、神尾ちゃん。これはただの機械音じゃない。ニコンF5のチタン幕シャッターが奏でる、勝利の凱歌なんだよ」
「凱歌、ですか」
「そう。毎秒8コマの連写速度。フィルムを巻き上げるモーターのトルク。そして、このマグネシウム合金のボディが掌に伝える剛性感……。たまらないね」
宮城先輩はうっとりとした表情でファインダーを覗き込み、何もない壁に向かって再びシャッターを切った。
『バシャシャシャシャッ!!』
機関銃のような連射音。 そこにいるのは、冷静沈着な機関士の宮城裕太ではない。 獲物を狙う狩人の目をした、「重度のカメラオタク」だった。
「先輩、また撮影旅行ですか?」
「ああ。明日から三連休だろ? 久しぶりに遠征に出る」
宮城先輩はカメラを丁寧に点検しながら答えた。 彼は非番になるたびに、愛機を抱えて日本全国の鉄道を撮り歩いている。 その腕前はプロ級で、鉄道雑誌に何度も写真が掲載されているほどだ。
「今度はどちらへ?」
「北の大地、北海道だ」
宮城先輩の目が、少年のように輝いた。
「狙いは石勝線。雪原を切り裂いて走る、最新鋭の振り子式気動車特急だ。……想像してみろよ、神尾ちゃん。一面の銀世界、ダイヤモンドダストが舞う中を、青いボディの列車が雪煙を上げて疾走してくる」
先輩は身振り手振りを交えて熱弁を振るう。
「背景は雄大な日高山脈。光線状態は斜光。雪の白と空の青、そして列車のメタリックブルー。……完璧だ。完璧な『絵』がそこにある」
「へぇー、綺麗そうですね」
「綺麗なんて言葉じゃ片付けられないよ。それは、近代技術と大自然が織りなす、一瞬の奇跡なんだ」
宮城先輩は、フィルムケース(もちろんデジタルではない)を愛おしそうに並べた。
「デジタル? ダメだダメだ。現像が上がるまでの『待ち時間』こそが、写真のスパイスなんだよ。それに、フィルムの粒子感には、デジタルにはない『湿度』がある」
「湿度、ですか」
「そう。空気の重さ、匂い、温度。そういったものを定着させるには、やはり銀塩フィルムに限る」
始まってしまった。 宮城先輩のカメラ講義は、一度スイッチが入ると止まらない。 私は助けを求めるように周囲を見回した。
事務室の奥では、佐久間区長がスポーツ新聞を読みながら昼寝をしている。 杉浦北斗先輩は、我関せずといった様子で技術マニュアルを読んでいる。 黒石数馬先輩に至っては、パチンコの必勝本に夢中だ。
誰も助けてくれない。
「いいか神尾ちゃん、シャッターを切るというのは、ただ記録を残すことじゃない。その瞬間の時間を、自分のものとして『狩る』行為なんだ」
「は、はい……」
「今回は最高傑作を撮ってくるよ。雑誌の表紙を飾れるレベルのやつをな」
宮城先輩は自信満々に宣言すると、愛機F5をボストンバッグにしまい込んだ。 その背中は、これから戦場へ向かう兵士のように勇ましかった。
◇
数日後。 北海道、某所。
宮城裕太は、膝まで埋まる雪の中に立っていた。 気温は氷点下一五度。 吐く息が瞬時に凍りつき、まつ毛に白い霜が降りるほどの極寒の世界だ。
しかし、宮城の体感温度は沸騰していた。
「……来た」
遠く、雪原の向こうから、列車のヘッドライトが見えた。 彼は手袋を外し、素手で氷のように冷たいカメラを握りしめる。 指先の感覚がなくなるが、そんなことはどうでもいい。 シャッターボタンの微妙な感触を確かめるためには、素手でなければならないのだ。
ゴオオオオオ……。
ディーゼルエンジンの重低音が近づいてくる。 最新鋭の特急列車。 カーブに差し掛かり、車体を大きく傾けながら、猛スピードで雪の壁を突き破ってくる。
「(光線、よし。構図、よし。ピント、置きピン一発)」
宮城は息を止めた。 ファインダーの中の世界が、スローモーションになる。
列車が、決めた位置に入ってくる。
「……今だ!」
宮城は人差し指に力を込めた。
『バシャシャシャシャシャシャッ!!!』
静寂な雪原に、F5の高速連写音が響き渡る。 ミラーが上下し、フィルムが巻き上げられる。 その一瞬一瞬、網膜に焼き付けられる映像は、まさに完璧だった。
舞い上がるパウダースノー。 輝く車体。 背景の青空。
列車が通り過ぎ、雪煙の中に消えていくまで、宮城はシャッターを切り続けた。
「……撮れた」
宮城はカメラを下ろし、大きく息を吐いた。 手応えは十分だった。 露出も、シャッタースピードも、構図も、すべて計算通り。 これ以上ない、完璧な鉄道風景写真だ。
「よし……!」
彼はガッツポーズをした。 はずだった。
しかし、胸の中に広がるはずの達成感が、なぜか薄かった。
「……?」
宮城は、去っていった列車の後ろ姿を見つめた。 スマートで、速くて、カッコいい列車。 雪景色の中に溶け込むような、美しい風景。
現像してみなければ分からないが、間違いなく傑作にはなっているはずだ。 コンテストに出せば入賞間違いなしだろう。
なのに。
「……綺麗だ。綺麗すぎる」
宮城は、ポツリと呟いた。 何かが足りない。 写真としては完璧なのに、何かが欠落しているような気がしてならなかった。
それは「熱」なのか、それとも「重み」なのか。 ファインダー越しに見た列車は、まるで精巧なプラモデルが走っているかのように、現実感が希薄だった。
「俺が撮りたかったのは、これだったのか……?」
宮城は、冷え切った手でカメラを抱え直した。 広大な北海道の大地で、彼はふと、遠く離れた群馬の山奥のことを思い出していた。
狭くて、急で、泥臭い、あの峠のことを。
◇
「あー、疲れた」
連休明け。 横川派出所の事務室に、宮城の気のない声が響いた。
「お疲れ様です、宮城先輩! 北海道、どうでした?」
出勤してきた私があいさつすると、宮城先輩は机に突っ伏したまま、力なく手を振った。
「ああ……寒かったよ。死ぬかと思った」
「写真は? 傑作が撮れたんじゃないんですか?」
「まあね。現像に出したから、明日には上がってくると思うけど」
宮城先輩の反応は鈍い。 出発前のあの熱気はどこへやら、まるで魂が抜けたような顔をしている。
「どうしたんですか? 何か失敗でも?」
「いや、失敗じゃないんだ。……ただ、なんていうか」
宮城先輩が体を起こし、窓の外を見た。 そこへ、整備士の南波さんがドカドカと入ってきた。 ツナギは油まみれ、顔には黒い煤がついている。
「おい、北斗! ロクサンの24号機、台車のバネがへたってやがる! 部品交換するから手伝え!」
「あ? なんで俺がやるんだよ。整備はそっちの仕事だろ」
北斗先輩が面倒くさそうに答える。
「人手が足りねえんだよ! 黒石はデカすぎて床下に入らねえし、神尾ちゃんは戦力外だ!」
「ひどい!」
「宮城! お前帰ってきたなら手伝え!」
「え、俺も?」
「当たり前だ! このカマは、お前らが乗るんだぞ! 自分の命預ける機械の面倒くらい見ろ!」
南波さんに怒鳴られ、宮城先輩は苦笑しながら立ち上がった。
「はいはい。分かりましたよ」
宮城先輩はロッカーからナッパ服(作業着)を取り出し、着替え始めた。 その表情が、少しだけ緩んだように見えた。
◇
機関庫の中は、独特の匂いに満ちていた。 機械油の酸化した匂い。 鉄粉の錆びた匂い。 そして、湿ったコンクリートの匂い。
北海道の、透明で澄み切った空気とは対極にある、むせ返るような「現場」の空気だ。
「うわっ、汚ねぇなぁ……」
宮城は、ジャッキアップされたEF63形24号機の床下を見上げて、思わず呟いた。
台車は真っ黒に汚れ、グリスがべっとりと付着している。 車輪は削れて銀色に光り、ブレーキパッドからは焦げた臭いが漂っている。 車体の塗装は所々剥げかけ、タッチアップの跡が痛々しい。
「文句言うな。こいつが毎日、泥だらけになって峠を登り降りしてる証拠だ」
南波がスパナを回しながら言った。
「分かってますよ」
宮城も工具を手に取り、ボルトを締め直す。 カキン、カキンという金属音が、薄暗い庫内に響く。
冷たい鉄の感触。 手にへばりつく油の粘り気。
「……ふふ」
宮城は、作業をしながら自然と笑みがこぼれてくるのを感じていた。
スマートじゃない。 美しくもない。 北海道で見たあの特急列車のような、洗練された機能美のかけらもない。
古くて、重くて、手がかかって、薄汚れた電気機関車。
けれど。
「……生きてるな、こいつ」
宮城は、巨大な連結器(ジャンパ栓)を撫でた。 ここには、熱がある。 何百トンもの列車を支え、歯を食いしばって坂を登る、執念のような熱量が染み付いている。
「宮城さーん! 休憩ですって! コーヒー淹れましたよ!」
入り口から、あずさが声をかけてきた。
「おう、サンキュー」
宮城は油で汚れた手をウエスで拭い、一息ついた。 その時、ふと自分のボストンバッグに目が止まった。 中には、愛機ニコンF5が入っている。
「……ちょっと待ってて」
宮城は、衝動的にカメラを取り出した。
「え? ここで撮るんですか?」
あずさが目を丸くする。 こんな薄暗い、油臭い整備工場で。 被写体は、分解整備中のバラバラになった機関車と、むさ苦しい男たちだ。
「ああ。……今、撮らなきゃいけない気がしたんだ」
宮城はファインダーを覗いた。
そこには、北海道のような「完璧な風景」はなかった。 背景はごちゃごちゃしているし、光線も悪い。 でも。
「……いい顔だ」
ファインダーの中には、真剣な眼差しで部品と向き合う南波の横顔があった。 その手は傷だらけで、爪の中まで真っ黒だ。 そして、その奥には、鈍く光るEF63の鋼鉄の肌。
傷の一つ一つが、この峠での戦いの歴史を物語っている。
「(これが……俺の撮りたかったものか)」
宮城は理解した。 自分が求めていたのは、表面的な美しさではない。 鉄と油と、人間が織りなす「ドラマ」だったのだ。 泥臭くて、不格好で、でも誰よりも力強く生きている、この場所の空気感。
「動くなよ、南波」
「あ? なんだいきなり」
南波が顔を上げた瞬間。
『バシャッ!!』
重厚なシャッター音が響いた。 連写ではない。 魂を込めた、一撃のレリーズ。
「おい! 勝手に撮るなよ! 肖像権の侵害だぞ!」
「いいじゃないですか。男前の整備士が撮れましたよ」
宮城はニヤリと笑った。 その顔は、北海道から帰ってきた時の抜け殻のような表情ではなく、いつもの――いや、それ以上に生き生きとした「鉄路の狩人」の顔に戻っていた。
◇
数日後。 現像から上がってきた写真が、事務室の長机に広げられていた。
「わぁ……っ! すごい!」
あずさが歓声を上げた。 そこにあるのは、北海道で撮影された写真の数々だ。 雪原を行く青い特急列車。 夕陽に染まる鉄橋。 まるで絵葉書のように美しく、完璧な構図の写真たち。
「さすが宮城先輩ですね! これ、ポスターにできますよ!」
「ああ、それはあげるよ。好きにしていい」
宮城は、コーヒーを啜りながらどうでもよさそうに言った。
「えっ、いいんですか? こんなに素敵なのに」
「俺の本命は、こっちだからな」
宮城は、別の封筒から一枚の写真を取り出した。 それは、モノクロフィルムで撮られた一枚だった。
「……これ」
あずさが息を呑む。
写っているのは、薄暗い機関庫の中で、EF63の台車を整備している風景だ。 油の匂いまで漂ってきそうな、荒い粒子の写真。 金属の質感、ボルトの錆、そして南波の真剣な眼差しと、その後ろで工具を渡そうとしている黒石の姿。
決して「綺麗」な写真ではない。 暗いし、ピントも浅い。 しかし、そこには圧倒的な「リアリティ」があった。 機関車の重みと、そこで働く人間たちの体温が、写真から溢れ出してくるようだ。
「……かっこいい」
あずさが、しみじみと呟いた。
「だろ?」
宮城は、その写真を愛おしそうにアルバムにしまった。
「北海道の景色も最高だったよ。でもな、やっぱり俺のホームはここなんだ」
彼は窓の外、機関庫の前に佇む青い機関車たちを見つめた。
「スマートじゃなくても、傷だらけでも、誰かの背中を支えて必死に生きている。……これ以上の被写体は、世界中探したってどこにもいないよ」
宮城の言葉に、あずさは深く頷いた。 撮り鉄としての彼が、なぜこの横川という場所にこだわり、機関士としてハンドルを握り続けているのか。 その理由が、少しだけ分かった気がした。
「ま、というわけで。俺の恋人はやっぱり、あの泥だらけのロクサンってことだな」
宮城がキザな台詞を決めた、その時だった。
「おい宮城! ちょっと来い!」
背後から、野太い怒声が飛んできた。 黒石先輩だ。 彼は、机の上に置かれたモノクロ写真を指差して、顔を真っ赤にしている。
「なんだよこの写真は! 俺の顔が写ってるじゃねえか!」
「ああ、いい味出てるでしょう? 現場の緊張感が伝わってきます」
「ふざけんな! これ、俺がクシャミする直前の『半目』の状態じゃねえか!!」
黒石先輩が指摘した通り、写真の隅に写り込んだ黒石は、口を半開きにして、白目を剥きかけた、何とも間抜けな表情で固定されていた。 シリアスな写真の中で、そこだけが強烈なコメディポイントになっている。
「……っぷ」
あずさが吹き出した。
「笑うな神尾! おい宮城、ネガを出せ! 今すぐ焼却処分だ!」
「嫌ですよ。これは『決定的瞬間』なんですから。芸術です」
「これが芸術であってたまるか! 肖像権の侵害で訴えるぞ!」
「焼き増しして、区長室に飾っておきましょうか」
「やめろォォォ!!」
黒石先輩が宮城先輩に掴みかかる。 宮城先輩は笑いながら、カメラを抱えて逃げ回る。 いつもの騒がしい日常が、事務室に戻ってきた。
あずさは、北海道の美しい写真と、手元のモノクロ写真を見比べた。 そして、やっぱりモノクロ写真の方を、そっと自分の手帳に挟んだ。
ファインダー越しに見える世界。 それは、撮影者の愛そのものだ。 不器用で、泥臭くて、でも温かい。 そんな「恋人」たちに囲まれて、今日も横川の一日は過ぎていく。
「さあ、仕事仕事! 午後の運用が始まりますよ!」
あずさの声に、男たちは動き出した。 宮城裕太は、カメラをロッカーにしまい、制帽を被った。 その目はもう、狩人の目ではない。 数千人の命を預かる、誇り高き機関士の目に戻っていた。




