あの夏の峠道
この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。
「ねえ、北斗様。あと何分で着くの?」
特急「あさま」の涼しいグリーン車の中、純白のワンピースを着た少女――西園寺志織が、退屈そうに足をぶらつかせた。 頭には大きなリボンのついた麦わら帽子。膝の上には、父親から買ってもらったばかりの鉄道図鑑が乗っている。
隣の席で時刻表を広げていた少年――杉浦北斗は、腕時計とページを見比べて答えた。
「あと十五分で横川駅だ。そこで機関車を連結するから、軽井沢に着くのは……あと五十分くらいかな」
「えーっ、まだそんなにかかるの? 特急なのに遅いのね」
志織は頬を膨らませた。 普段のパーティで見せるおすまし顔とは違う、年相応の子供っぽい表情。 北斗は、そんな彼女に苦笑しながら言った。
「仕方ないよ。ここから先は『碓氷峠』だからね。日本で一番急な坂道なんだ。普通の電車だけじゃ登れないから、力持ちの機関車に助けてもらうんだよ」
「ふうん……。力持ちの機関車?」
志織の目が、少しだけ輝いた。
◇
『まもなく、横川。横川です。後ろに機関車を連結するため、少々停車いたします』
車内アナウンスと共に、列車がホームに滑り込む。 窓の外からは、「峠の釜めし〜、釜めし〜」という売り子の元気な声が聞こえてきた。
「北斗様、見に行きましょう!」
志織が弾かれたように立ち上がった。 二人はデッキへと走り、開いたドアからホームの様子を覗き込んだ。
列車の後方から、二つの赤い影が近づいてくる。 群青色の巨体。EF63形電気機関車だ。 重々しいモーター音を響かせながら、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
「大きい……」
志織が息を呑む。 国鉄の最新鋭特急電車である「あさま」のスマートさに比べ、EF63は無骨で、ゴツゴツとしていて、まるで鉄の鎧をまとった騎士のようだった。
「見てて、志織ちゃん。ここからがすごいんだ」
北斗が手すりを握りしめて言った。
誘導員の旗が振られる。 あと一メートル。五十センチ。
ガチャンッ!!
軽い衝撃と共に、連結器が噛み合った。 その瞬間、床下から突き上げるような振動が伝わってくる。
「きゃっ」
志織がよろけ、北斗が支える。
「……すごい。繋がったわ」
志織は、怖がるどころか、頬を紅潮させていた。 彼女の父親は鉄道事業に関わっており、幼い頃から検修庫に連れられては、鉄の匂いと音に親しんでいたのだ。
「あれがロクサンだよ。二両で一組になって、この列車を後ろから押し上げるんだ」
「ふふっ、なんだか頼もしいわね。縁の下の力持ちって感じ」
志織は、連結されたばかりの機関車に向かって、小さく手を振った。 その横顔は、お嬢様としての完璧な笑顔ではなく、ただの鉄道好きな少女の、無邪気な笑顔だった。
◇
横川駅を発車した列車は、いよいよ峠道へと差し掛かる。 車内の空気感が変わった。 後ろからEF63の重低音が響き渡り、背中がシートに押し付けられるような圧力を感じる。
「見て、北斗様! オレンジジュースが!」
志織がテーブルの上のコップを指差した。 コップの中のジュースの水面が、大きく斜めに傾いている。 66.7パーミル。 角度にすれば数度だが、平衡感覚を狂わせるには十分な傾斜だ。
「すごい坂だろ? これを鉄の車輪だけで登ってるんだ」
「うん……すごい。体中がビリビリするわ」
志織は、窓の外を流れる緑の木々を見つめた。 トンネルに入るたびに、ブロアー(送風機)の轟音が反響し、耳をつんざく。 普通の子供なら泣き出すかもしれない騒音。 けれど、二人はそれを心地よい音楽のように聞いていた。
「ねえ、北斗様」
暗いトンネルの中で、志織が言った。
「私ね、大きくなったら運転士さんになりたいの」
「えっ、志織ちゃんが?」
「そうよ。お父様には『お嫁に行け』って言われるけど、私はこのレールの上がいいの」
志織は、真っ直ぐな瞳で北斗を見た。
「誰よりも速く、誰よりも正確に。たくさんのお客さんを乗せて、風のように走るの。……かっこいいと思わない?」
「うん。似合うと思うよ」
北斗は素直に頷いた。 気が強くて、華やかで、でも芯の強い志織なら、きっと素晴らしい運転士になるだろう。
「北斗様はどうするの? やっぱり、おじさまみたいに偉い人になるの?」
北斗の父は、運輸省の官僚だ。レールを敷く側の人間。 でも、北斗は首を横に振った。
「ううん。僕は……現場がいいな」
北斗は、背後で唸りを上げているEF63の方を振り返った。
「あいつみたいにさ。目立たなくてもいいから、困ってる列車を助けて、後ろから支えてあげるような……そんな機関士になりたいんだ」
「ふふっ。北斗様らしいわね」
志織がクスクスと笑った。
「じゃあ、私が速い電車を運転して、もし坂道で動けなくなったら、北斗様が助けに来てね」
「ああ、約束するよ」
二人は指切りをした。 小さな小指と小指が絡み合う。
その時、列車はトンネルを抜け、軽井沢の高原へと飛び出した。 眩しい夏の日差しが、二人を照らす。
「わあ、着いた!」
眼下に広がる軽井沢の町並み。 二人の未来は、このレールのようにどこまでも続いていて、決して交わらないことなどないと、信じて疑わなかった。
いつか、「新幹線」と「補助機関車(職人)」として、別の道を歩むことになるなんて、まだ誰も知らない。
「行こう、北斗様! 別荘に着いたら、鉄道ごっこしましょうね!」
「うん、負けないよ!」
手をつないでホームへ降り立つ二人。 その背中を、役目を終えたEF63が、優しく見送っていた。




