ベテランスジ屋の事件簿
この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。
『1010M』
その数字は、健三の頭の中で、明滅する信号機のように点滅していた。
昭和四一年、一〇月。 国鉄高崎鉄道管理局、輸送課の執務室。 そこは、タバコの煙と、男たちの熱気、そしてインクの匂いでむせ返るような戦場だった。
「おい健三! 東京と長野の調整はどうなってる! 特急『あさま』のスジがまだ決まらんぞ!」
怒号が飛ぶ。 入局したての健三は、A0判の巨大なダイヤグラム(運行図表)に覆いかぶさり、脂汗を流していた。
「だ、ダメです! 東京局は『上野口の過密ダイヤにこれ以上割り込めない』の一点張りで……。長野局も『信越本線の単線区間での交換待ちが限界だ』と……!」
「泣き言を言うな! 今回の改正は、ただの変更じゃない。碓氷峠の複線化だぞ!?」
先輩職員が机を叩く。 そう、これは歴史的な転換点だった。 かつてアプト式という特殊なレールでしか越えられなかった難所・碓氷峠。 それがついに、新線による複線化を完了し、急行列車と特急列車が自由に行き来できる大動脈へと生まれ変わるのだ。 その象徴となるのが、165系急行型電車による急行列車群と、この改正でデビューする最新鋭の181系特急型電車による特急「あさま」である。
だが、そのダイヤを引くのは、針の穴を通すような難作業だった。 隣接する東京、長野、新潟。それぞれの管理局の利害と、物理的な線路容量の限界。 その狭間で、健三の引いた赤鉛筆の線は、行き場を失って彷徨っていた。
「……貸せ」
その時、背後から太い腕が伸びてきた。 定規と赤鉛筆をひったくったのは、当時、輸送課で「鬼」と恐れられていたスジ屋(ダイヤ作成者)――小野寺盛雄だった。
「小野寺さん……」
「視野が狭いんだよ、お前は。……ここを見ろ」
小野寺は、ダイヤグラム上の碓氷峠の区間、横川と軽井沢の間を指差した。
「複線化のメリットを最大限に活かすなら、交換(すれ違い)は駅じゃなくていい。……ここはもっと詰められるだろ」
「そうか」
「どうだ、これで東京口の発着枠も、長野側の単線交換もうまくハマる。……何より、新しい複線区間で、最新の特急と普通列車がすれ違う。この場所は、ちょうど新碓氷川橋梁あたりだ。これぞ『新時代の幕開け』って絵になるだろうが」
小野寺はニヤリと笑い、定規を当てて鮮やかな直線を引いた。 その一本の線が、全てのパズルを解き明かした。
『13時26分。新碓氷川橋梁上にて、1010Mと339M、交差』
あの時の、震えるような感動。 自分が引いたスジの上を、何千人もの命と、時代の希望が走るのだという重責と誇り。
(……確認しなきゃ)
老いた健三は、ベッドの上で目を見開いた。 意識は混濁している。今は昭和何年なのか、自分は何歳なのかも定かではない。 だが、あの「スジ」だけは、脳裏に焼き付いて離れない。
今日は、昭和四一年一〇月一日のダイヤ改正初日。 自分の引いたダイヤ通りに、列車が走るのか。 あの橋の上で、計算通りに「あさま」と普通列車がすれ違うのか。
それを見届けるまでは、死ねない。 それが、スジ屋としての「矜持」だった。
健三は震える手でメモ用紙を掴み、記憶の中の数字を書き殴ると、ふらつく足取りで家を出た。 目指すは、碓氷峠。 あの日、魂を込めて線を引いた、あの場所へ。
◇
「……訳が分からん。これは暗号か?」
秋雨前線が停滞し、冷たい雨が降りしきる午後。 高崎機関区横川派出所の乗務員事務室は、重苦しい空気に包まれていた。
群馬県警の制服警官と、顔面蒼白の女性が、一枚のメモを囲んでいる。 横川駅助役の山村徹も、額に脂汗を浮かべながら首をかしげていた。
「高崎1223発……横川1313着……。時刻のようですが、現在のダイヤとは全く合致しません」
山村が困惑した声を上げる。 事の発端は、一時間前。 認知症を患う七〇代の男性・健三が、家族の目を盗んで行方不明になったのだ。 彼は元国鉄の機関士だったという。 部屋に残されていたのは、震える筆跡で数字が羅列された、この謎のメモだけ。
『高1223 → 横1313/1318 → 1326(×1010M) → 熊1328 → 軽1335』
「お父さん、最近ずっと『撮りに行かなきゃ』ってうわ言のように言ってて……。この数字が手掛かりだと思うんです」
娘である女性が涙声で訴える。
「撮りに、ですか?」
あずさが反応した。
「ええ。父は若い頃、鉄道写真が趣味だったんです。特に、この碓氷峠が好きで……」
「写真……」
その言葉に、山村がハッとして壁の時計を見た。 針は、一三時二〇分を回ったところだ。
「メモにある『横川1313/1318』……。もしこれが、彼の中にある『過去の記憶』だとしたら、彼は今まさに、横川駅にいるはずだ」
山村は慌てて引き出しを開け、一枚の図面を取り出した。 現在の構内図ではない。黄ばんだ、古い横川駅の構内配線図だ。
「13時13分着、18分発。5分間の停車……。これは間違いなく、機関車の連結作業の時間です」
山村の指が、図面上の一点を指し示した。
「昔、EF63の連結作業を一般客が安全に見学・撮影できた場所はここだ。……裏手の、『旧・資材搬入路』の跡地」
現在は立ち入り禁止になっているが、フェンスの隙間からなら侵入できてしまう。
「神尾! 見てきてくれ! まだそこにいるかもしれない!」
「はいっ!」
あずさは合羽も着ずに、雨の中へと飛び出した。
◇
数分後。 事務室の無線機が、ザザッとノイズを立てた。
『……こちら神尾。現場に到着しました』
山村が身を乗り出してマイクを掴む。
「どうだ! いたか!?」
無線機から、雨音混じりの、悲痛な声が返ってきた。
『……いません!』
「いない!?」
『はい。ですが……足跡があります。新しい足跡が、泥の中に残っています!』
あずさの報告に、山村は唇を噛んだ。 読みは当たっていた。健三は確かにそこに来ていたのだ。 しかし、タッチの差ですれ違ってしまった。
『足跡は……搬入路を抜けて、さらに奥へ……旧線跡(アプトの道)の方へ続いています!』
「旧線跡だと……? あそこから先は、この雨じゃ危険だぞ」
山村は呆然と立ち尽くした。 連結作業を見終わった後、彼はどこへ向かったというのか。 メモの続きは『1326』。 現在時刻は、すでにその時間を過ぎようとしている。
「闇雲に追いかけても、山の中で見失うだけだ……。目的地が分からなければ」
警察官も首を振る。「やはり、山狩りの応援を要請するしか――」
「――貸してみろ」
その時、低い声が事務室の空気を割った。
それまで部屋の隅でパイプ椅子に座り、腕組みをして目を閉じていた男が立ち上がった。 高崎鉄道管理局の元・伝説的スジ屋(ダイヤ作成者)であり、現在は指導官として時折り横川に顔を出している、小野寺盛雄だ。
「小野寺さん?」
小野寺は無言でメモをひったくると、老眼鏡を取り出し、鋭い眼光で数字をなぞった。 そして、フッと鼻で笑った。懐かしむように。
「……相変わらず、几帳面な字を書きやがる。健三の奴」
「えっ? お知り合いですか?」
山村が驚く。
「俺が育てた部下だよ。……半世紀以上も前の話だがな」
小野寺は、警察官を睨みつけた。
「これは暗号でも、ボケた老人の落書きでもない。……極めて正確無比な『ダイヤ』だ。それも、あいつが血反吐を吐きながら完成させた、渾身のな」
「渾身の……ダイヤ?」
「山村、書庫へ行け。奥の棚だ」
小野寺は、よどみなく指示を飛ばした。
「『昭和四一年一〇月改正・信越本線列車運行図表』を持ってこい。A0サイズの、特大のやつだ」
◇
「……こ、これですか?」
山村が埃まみれになりながら抱えてきたのは、茶色く変色した巨大な紙の束だった。 小野寺は事務室の大きな机の上にあるものを全てどかせ、その紙をバサリと広げた。
そこには、縦軸に駅名(距離)、横軸に時間を示す目盛りが刻まれ、無数の線が幾何学模様のように走っていた。 鉄道の運行ダイヤグラム。 別名、「スジ」である。
「昭和四一年(一九六六年)一〇月。……新線の複線化工事が完了し、信越本線が本格的な大量輸送時代へと突入した、最初の大改正だ」
小野寺は、自身の鞄から使い込まれた定規と、芯の尖った赤鉛筆を取り出した。 その手つきは、職人が刀を抜くように洗練されていた。
「いいか、よく見ろ」
小野寺は、メモの数字と、図表上の線を交互に指差した。
「『高1223』。高崎一二時二三分発、長野行き急行列車、339Mだ。当時のダイヤ通りだ」
定規を当てると、一本の線が浮かび上がる。
「そして『横1313/1318』。横川駅到着は一三時一三分。出発は一八分。……この五分間は、EF63を連結するための停車時間だ」
「ぴったりだ……」
山村が息を呑む。 分単位の狂いもない。健三という老人の記憶の中に、半世紀前のダイヤが完璧に保存されていたのだ。
小野寺の指が、図表の上を滑る。 横川駅を出た線は、急勾配を示すように角度を上げ、軽井沢方面へと伸びていく。
「問題は、ここだ」
メモの真ん中にある、『1326(×1010M)』。
「一三時二六分。駅名がない。……だが、この『1010M』という数字を見て、ピンと来ないようならモグリだ」
「1010M……?」
あずさが首をかしげる。 小野寺は、遠くを見るような目をした。
「この改正でデビューしたばかりの、181系特急『あさま』の上り一番列車だ。俺たちスジ屋が、新線の複線化に合わせて、最優先で道を空けた花形列車だよ」
小野寺は、赤鉛筆で図上の一点を強く叩いた。
「この『×』は文字通りのバツ印じゃない。……交差だ」
彼が定規を当てたのは、下りの339Mの線と、上りの1010Mの線が交わるポイントだった。
「下りの普通列車と、上りの最新鋭特急がすれ違う瞬間。……それが、一三時二六分だ」
「場所を特定するぞ」
小野寺は、二つの線が交差するポイントから、横軸(距離軸)へ向かって水平に定規を当てた。
「横川駅から約二・五キロ地点。……熊ノ平よりもずっと手前だ」
「そこは……?」
「『新碓氷川橋梁』だ」
山村がハッとした。 コンクリート製の巨大なアーチ橋。複線化に際して新設された、雄大な橋だ。
「彼はここで、下りの急行列車と、上りの特急『あさま』が、橋の上ですれ違う瞬間を見ようとしているんだ」
警察官が口を挟む。
「しかし、先生。橋の上ですれ違うのを見るって……そんな場所に立てるんですか? 線路内立ち入りになってしまいます」
「違う」
小野寺は首を横に振った。
「彼は、線路の中にいるんじゃない。『外』から見ようとしている」
小野寺は、窓の外、雨に煙る碓氷峠の山並みを指差した。
「新碓氷川橋梁を、一番美しく見上げることができる場所はどこだ?」
「あっ!」
あずさが声を上げた。
「……『めがね橋』!」
「その通りだ」
小野寺が頷く。 明治時代に作られたレンガ造りのアーチ橋「めがね橋」は、昭和38年の新線切り替えで廃線となった旧線の一部だ。 そのめがね橋からは、谷を挟んで並行して走る新線の「新碓氷川橋梁」がよく見える。
「彼は、『めがね橋』の上に立って、新線を走る列車を撮影しようとしているんだ。……古いレンガ橋から、新しいコンクリート橋を行く特急列車をな」
メモの続きにある『熊1328』は熊ノ平の通過時刻、『軽1335』は軽井沢到着時刻。 すべては、この一点の「交差」を確認するための確認作業に過ぎない。
「だとしたら、まずいです!」
山村が青ざめた。
「現在のめがね橋は遊歩道として整備されていますが、この豪雨です。橋の上は吹きっさらしですし、遊歩道へのアクセス路も地盤が緩んでいる可能性があります!」
「時間はギリギリだ。……一三時二六分。彼の中の『あさま』が通過する前に、確保しろ!」
小野寺の怒号が飛んだ。
「神尾!」
「はいッ!」
「公用車を出せ! 旧道のめがね橋駐車場まで急げ! そこから橋の上へ駆け上がれ!」
「了解!」
あずさは帽子を掴み、土砂降りの外へと飛び出した。
◇
雨は激しさを増していた。 あずさは、息を切らして「アプトの道」への階段を駆け上がっていた。
(間に合って……!)
心臓が早鐘を打つ。 めがね橋の上は、遮るもののない高所だ。 雨と風が容赦なく叩きつける。
「ハァ、ハァ……!」
レンガ造りの橋の上に飛び出した。 視界が悪い。 雨に煙る谷の向こうに、新線のコンクリート橋が白く浮き上がって見える。
そして。
「……いた!」
橋の中央付近。 傘も差さずに欄干に寄りかかり、じっと新線の方角を見つめる、一人の老人の姿があった。 手には、フィルムの入っていない古い一眼レフカメラが握られている。
「お父さん!」
あずさの声は、風にかき消された。 老人は気づかない。 ファインダーを覗き、シャッターチャンスを待っている。
その時、老人の体がゆらりと傾いた。 雨で濡れたレンガに足を取られたのか、それとも寒さで意識が遠のいたのか。 欄干の向こう、数十メートルの谷底へ落ちそうになる。
「危ないッ!!」
あずさは叫び、地面を蹴った。 泥水が跳ねる。
老人の体が宙に浮きかけたその瞬間、あずさがその腰にタックルした。
ドサッ!
二人はもつれ合うようにして、橋の上の水たまりに転がり込んだ。
「っ……大丈夫ですか!?」
あずさは、ずぶ濡れになりながら老人の顔を覗き込んだ。 老人は、キョトンとしてあずさを見ていた。 そして、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……お嬢ちゃん、邪魔しちゃいかんよ」
老人は、震える指でカメラを構え直した。 レンズの先は、誰もいない新線の橋梁に向けられている。
「もうすぐ……すれ違うんだ。……急行列車と、特急『あさま』が」
彼には、見えているのだ。 五〇年前の、あの日の光景が。 オレンジと緑の165系急行形電車と、クリームと赤の181系特急形電車が、新しい橋の上で交差する、新時代の幕開けの瞬間が。
あずさは、胸が締め付けられるような思いがした。 この人は、ただボケて徘徊していたんじゃない。 青春時代の情熱を、もう一度確かめに来たんだ。
あずさは、濡れた制服の襟を正し、老人の肩を支えながら言った。
「……はい。定刻です」
あずさがそう言うと、老人は満足そうに幻のシャッターを切った。
カシャッ。
乾いた音が雨音に混じる。 腕時計を見る。 一三時二六分。 幻の列車は、今まさに、二人の前ですれ違っていったのだ。
◇
「……ご迷惑をおかけしました」
数時間後。 横川派出所の事務室で、健三さんは家族に付き添われ、深々と頭を下げた。 温かいお茶を飲み、少し落ち着いたようだ。
「いいえ、無事で何よりです」
山村助役がホッとした顔で言う。
部屋の隅では、小野寺が広げたままのダイヤグラムを、愛おしそうに丁寧に畳んでいた。
「……あんた」
小野寺が声をかけると、健三さんが顔を上げた。
「正確なスジだったよ。あんたの体内時計と、あの場所を選ぶセンスは、まだ現役だ」
ぶっきらぼうだが、温かい言葉だった。 それを聞いた健三さんは、小野寺の顔をじっと見つめた。 そして、ハッとしたように目を見開いた。
「……あなたは、まさか」
健三さんの背筋が伸びる。 長年、鉄道の現場にいた人間にしか分からない反応。 目の前にいるのが、かつて自分たちが走るレールの上に「時間」という命を吹き込んでいた、伝説のスジ屋であることに気づいたのだ。
「……指令長殿。……お世話になりました」
健三さんは、震える手で敬礼をした。 小野寺もまた、無言で、しかし力強く敬礼を返した。
二人の間には、言葉はいらなかった。 ダイヤグラムという「設計図」を通して、同じ時代、同じ鉄路を守ってきた者同士だけが共有できる、静かな敬意が流れていた。




