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軽井沢からの刺客

この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。

「――いたぞ。あそこだ」


秋晴れの空が広がる、信越本線・横川駅。 かつては多くの列車が行き交ったこの駅のホームに、二人の男が降り立った。


ピシッと糊の効いたスーツを着こなした、二〇代前半の若者たち。 彼らは、碓氷峠の向こう側、長野新幹線の停車駅でもある軽井沢駅の駅員、達也たつやじゅんである。


「間違いない。あれが『峠のシェルパ・エンジェルズ』の片割れ……神尾あずさだ」


達也が、変装のためにつけたサングラスの奥から鋭い視線を向けた先には、ホームの掃き掃除をしている小柄な女性――神尾あずさの姿があった。


「よし、接触するぞ」 「はい、先輩」


二人は、周囲を警戒しながらあずさに近づいた。


「あの、すみません」


達也が声をかけると、あずさがパッと顔を上げた。 彼らの視線に気づいたあずさは、すぐにその表情を輝かせた。


「(あ、ファンだ!)」


あずさの脳内で、瞬時に計算が走る。 最近、ネットで話題の『峠のシェルパ・エンジェルズ』。 泥だらけの機関士あずさと、可憐な看板娘(荻野優香)の異色ユニットとして、一部のマニア層に絶大な人気を誇っているのだ。 わざわざ遠くから聖地巡礼に来るファンも珍しくない。


「はい! 神尾あずさです! 握手ですか? サインですか?」


あずさは箒を置き、衣服の埃を払って、満面の「アイドルスマイル」で身構えた。 わざわざ軽井沢から来てくれたファンのために、神対応を見せなければ。


しかし。


「あ、いや。そういうのは結構です」


達也は、冷ややかな手つきで、あずさの差し出した手をやんわりと制した。


「えっ?」


「僕らが聞きたいのは、貴方じゃなくて……相方の、荻野優香さんのことなんです」


「……は?」


あずさの時が止まった。


後ろに控えていた純が、申し訳なさそうに、しかしハッキリと言葉を継いだ。


「すみません、神尾さん。僕ら、どっちかと言うと『エンジェルズ(優香)』派なんで」


「エンジェルズ派?」


「はい。『シェルパ(あずさ)』の泥臭い感じも、まあ悪くはないんですけど……やっぱりアイドルは、優香ちゃんみたいに可憐で、お弁当屋さんの看板娘っていう『癒やし』がないと」


「そうそう。神尾さんは、なんというか……『土木作業員』って感じで、萌え対象としては論外なんですよね」


達也がトドメを刺した。


ガーン。 あずさの頭上で、見えないタライが落下した音がした。


「ろ、論外……土木作業員……」


あずさが白くなって燃え尽きているのを尻目に、達也たちは本題を切り出した。


「で、優香ちゃん……いや、荻野優香さんは、今日はお店ですか?」


「……はい。おぎのや本店にいると思いますけど」


あずさが恨めしそうに答えると、二人は「よし!」と顔を見合わせてガッツポーズをした。


「行くぞ、純! 敵情視察の前に、まずは女神に挨拶だ!」 「はいっ!」


二人はあずさに一瞥もくれず、颯爽と改札の方へ歩き去っていった。


取り残されたあずさは、秋風に吹かれながら、箒を握りしめてプルプルと震えた。


「……なによ、あいつら! 失礼しちゃうわね!」


だが、あずさはまだ知らなかった。 彼らが単なるファンではなく、横川派出所のエース・杉浦北斗を狙う「刺客」であることを。



数十分後。 高崎機関区横川派出所の事務室。


「失礼します! 本日は、業務連絡および連携強化のための視察に参りました!」


達也と純は、入り口で直立不動の敬礼をした。 あくまで表向きは「業務」である。 しかし、その目は獲物を狙う狩人のようにギラついていた。


「おう、軽井沢の若いの、よく来たな」


出迎えたのは、区長の佐久間清だった。 のんびりとお茶を啜りながら、手招きをする。


「ま、固いことは抜きにして、ゆっくりしていけ。……おい、誰か案内してやれ」


「へいへい。俺が相手してやるよ」


奥のソファーから、巨漢の男がぬらりと立ち上がった。 黒石数馬だ。 丸太のような腕。 はち切れんばかりの胸板。 そして、新人を射殺すような鋭い眼光。


「ひっ……!」


達也と純が後ずさる。 軽井沢駅には、こんな熊のような駅員はいない。


「なんだァ? 見学か? 怪我しても知らねえぞ」


黒石が威嚇すると、二人は半泣きになりながらお互いにしがみついた。


「く、黒石さん。脅かさないでください」


その時、事務室の奥から、冷静な声が響いた。 書類の束を持った青年――杉浦北斗が現れた。


「ああ、軽井沢の方ですね。話は聞いてます。……どうぞ、こちらへ」


北斗は、汚れのない制服をピシッと着こなし、涼しい顔で二人に対応した。 整った顔立ち。 無駄のない所作。 そして、全身から漂う「できる男」のオーラ。


達也の目が、敵意で細められた。


(こいつか……! 優香ちゃんが想いを寄せているという男は!)


噂は聞いていた。 横川の「おぎのや」の看板娘が、幼馴染の機関士といい雰囲気らしい、と。 達也と純にとって、優香は高嶺の花であり、永遠のアイドルだ。 そんな女神を、こんな古臭い機関区の男に渡すわけにはいかない。


「(見た目は悪くないが……所詮は田舎の機関士だ。化けの皮を剥いでやる)」


達也は純に目配せをし、北斗の後ろについて機関庫へと向かった。



「ここは、EF63形の検修庫です。……足元が悪いので気をつけて」


北斗が淡々と説明しながら、薄暗い工場内を歩く。 油と鉄粉の匂い。 最新鋭の新幹線が発着する軽井沢駅とは、まるで違う世界だ。


「へぇ……。随分と、アナログな現場なんですね」


達也が、わざとらしく鼻をつまんで言った。


新幹線ウチの検修庫は、空調完備でチリ一つありませんよ。こんな環境で、精密機械のメンテナンスができるんですか?」


先制攻撃だ。 しかし、北斗は表情一つ変えずに答えた。


「ロクサンは精密機械じゃない。……生き物だ。油にまみれて、手で触れて、体温を感じなければ直せない箇所もある」


「はぁ? 生き物? ……非科学的ですね」


純が嘲笑うように言う。


「ところで杉浦さん。最新の自動列車制御装置の閉塞ロジックについては、どうお考えで? 横川のような古いシステムしか扱っていないと、ご存じないかもしれませんが」


北斗は手にしていたレンチを止めると、ゆっくりと振り返った。その表情は、純の予想した「困惑」ではなく、出来の悪い生徒を見る教師のような「憐憫」を含んでいた。


「……お前が言っているのは、アナログ時代の『地上主体』から、デジタルATCにおける『車上主体』への制御思想の転換のことか?」


「え?」


純が虚を突かれた顔をする間に、北斗は淡々と、しかし淀みなく言葉を続けた。


「確かに、初期のアナログATCは地上装置が速度制限を決定し、多段ブレーキ制御を行っていたため、乗り心地や運転時隔に課題があった。それに対し、現在のデジタルATC(DS-ATC)は、車上装置が停止位置までの最適な『一段ブレーキパターン』を計算する方式に進化した。これによって、スムーズな減速と高密度運行が可能になったわけだ」


北斗は、EF63の台車を軽く叩いた。


「だがな、もし『閉塞ロジック』の未来について議論したいなら、デジタルATCで満足していては浅いぞ」


「は、はい……?」


「現行のデジタルATCもまた、物理的な『軌道回路』という地上設備に依存している点では、旧来の固定閉塞方式の呪縛から逃れられていないからだ」


北斗は純の目を真っ直ぐに見据えた。


「真の革新は、その先にある。ATACSに代表される無線通信技術を用い、物理的な軌道回路を撤去して実現する『移動閉塞』だ。列車が自らの位置を把握し、無線で地上とやり取りすることで、列車間の距離を動的に極限まで詰める。……それこそが、2030年代に向けて鉄道が目指すべき『パラダイムシフト』だ」


「パ、パラダイムシフト……」


純は口をパクパクさせた。自分が披露しようとした知識など、北斗にとっては「過去の前提」に過ぎず、彼はすでにその先の技術的課題と理想像まで把握していたのだ。


「な、なんでそんなこと知ってるんですか……!?」


純が絶句する。 それは、軽井沢駅の現場でも、一部のベテランしか知らないようなマニアックな話題だった。


「鉄道は繋がっている。この峠の古いカマを動かすためにも、最新の理論と、それが抱えるインフラ維持の課題を知っておくのは基本だ。……出直してこい」


北斗は再び背を向け、作業に戻った。 その背中は、最新鋭の理論武装すらも寄せ付けない、圧倒的な現場の厚みを帯びていた。


「それに、俺たちの仕事は『補助』だ。相手の車両の特性を知り尽くしていなければ、背中を押すことはできない」


カチン、という金属音が響く。 その横顔には、付け焼き刃の知識では太刀打ちできない、圧倒的な「プロの凄み」があった。


達也と純は、ぐうの音も出ずに立ち尽くした。


「(くそっ……知識じゃ勝てないってことか……!)」



「おーい! 北斗さーん!」


昼休み。 機関庫の前に、明るい声が響いた。 達也と純が弾かれたように振り返る。


そこには、ワゴンを押した荻野優香の姿があった。 白いエプロンに、三角巾。 太陽のような笑顔。


「ゆ、優香ちゃん!」


達也たちが駆け寄ろうとするが、優香の視線は一直線に北斗に向けられていた。


「お疲れ様です! お昼、持ってきましたよー!」


その声の弾み具合。 そして、北斗を見る瞳の輝き。 誰が見ても一目瞭然だった。 彼女にとって、北斗が「特別」な存在であることは。


「悪いな、優香ちゃん」


北斗が、油で汚れた手を拭きながら近づく。


「今日は、特製釡めしです! 漬物多めにしておきましたよ」


「お、サンキュー。……分かってるな」


「ふふ、北斗さんの好みなら、なんだって分かりますよ」


優香は、甲斐甲斐しくお茶を注ぎ、北斗に手渡す。 北斗がそれを受け取る時、二人の指先が触れるか触れないかの距離で交差する。 言葉少なだが、そこには長年連れ添った夫婦のような「阿吽の呼吸」があった。


「(……入り込めない)」


達也は呆然とした。 1ミリの隙間もない。 自分たちがどれだけおぎのやに通い詰めても、どれだけ高いお土産を買っていっても、決して超えられない壁がそこにあった。


「あ、軽井沢の駅員さんたちも、どうぞ!」


優香が、ついでのように達也たちにもお茶を配る。 その笑顔は可愛いが、北斗に向けられたものとは「温度」が違っていた。


「……いただきます」


達也はお茶を啜った。 しょっぱい味がした。



「くそっ……! なんだよあいつ! 完璧超人かよ!」


午後。 横川駅のホームの端で、達也は悪態をついていた。 知識でも負け、優香ちゃんとの仲も見せつけられ、プライドはズタズタだ。


「先輩、もう帰りましょうよ……。惨めになるだけですよ」


純が弱音を吐く。 その手には、視察報告書という名のメモ書きが握られている。 中身は白紙だ。 北斗の粗なんて、一つも見つからなかったからだ。


その時だった。


ヒュオオオオオ……!


突如、碓氷峠の方角から、強烈な「からっ風」が吹き下ろした。


「うわっ!」


純の手から、報告書がすっぽ抜けた。 紙は風に舞い、ひらひらと線路の方へ飛んでいく。


「ああっ! 書類が!」


それは、線路内――下り本線のレールの真ん中に落ちた。


「まずい、あれが見つかったら、ただの粗探しに来たってバレちまう!」


達也は焦った。 報告書には、『杉浦北斗の弱点メモ』という恥ずかしいタイトルが書かれていたのだ。


「拾わなきゃ!」


達也は、確認もせずにホームから線路へ飛び降りようとした。


その瞬間。


「危ないッ!!」


誰かの強い腕が、達也の襟首を後ろからガシッと掴んだ。 強烈な力で、ホームの内側へと引き戻される。


「うわっ!?」


達也が尻餅をついた、その直後だった。


ゴオオオオオオオオッ!!


轟音と共に、列車が猛スピードで目の前を入線してきた。 突風が頬を打ち、車輪の金属音が鼓膜を震わせる。


もし、あと数秒遅れていたら。 達也の体は、鉄塊と衝撃の間に弾け飛んでいただろう。


「ハァ、ハァ……」


達也は腰を抜かし、震える足で立ち上がれなかった。 目の前には、減速していく列車の壁。 そして、自分を見下ろす男の姿があった。


杉浦北斗だ。


北斗は、いつもの冷静な表情をかなぐり捨て、鬼のような形相で達也の胸ぐらを掴み上げた。


「――死にてぇのか!!」


怒号が、ホームに響き渡った。


「す、すみません……書類が……」


「書類だと!?」


北斗は、達也を突き飛ばすように放した。


「紙切れ一枚と、自分の命と、どっちが重いんだ!」


その目は、嫉妬や個人的な感情など入り込む余地のない、命を預かるプロフェッショナルとしての、純粋な怒りに燃えていた。


「俺たちはな……お前らが安全だと思っているレールの裏で、毎日命懸けで泥啜ってんだよ! 半端な覚悟で線路に降りるな!」


北斗の言葉が、達也の心臓を貫いた。 新幹線の安全神話に守られ、システムに頼り切っていた自分。 線路という「戦場」の怖さを忘れ、恋の鞘当てごっこに興じていた自分。


その浅ましさを、この男は見抜いていたのだ。


「……申し訳、ありませんでした」


達也は、震える声で謝罪した。 純も、隣で深々と頭を下げていた。


列車が停車し、静寂が戻る。 北斗は、大きく息を吐くと、乱れた制服の襟を直した。


「……怪我はないか」


いつもの、ぶっきらぼうだが落ち着いた声に戻っていた。


「は、はい……」


「ならいい。……次からは気をつけろ」


北斗は、自販機で買った缶コーヒーを二人に放り投げた。


「飲んで落ち着け。……軽井沢は霧が多い。気をつけて帰れよ」


そう言い残すと、北斗は背中を向けて、業務に戻っていった。 その背中は、達也が今まで見たどの男よりも、大きく、そして頼もしく見えた。



夕方。 達也と純は、逃げるように横川駅を後にしようとしていた。


「あら、もう帰っちゃうんですか?」


駅前で、優香が声をかけてきた。 彼女は、店じまいの準備をしていたようだ。


「北斗さん、怖かったですか? あの人、仕事のことになると厳しいから」


優香が心配そうに尋ねる。 達也は、優香と、遠くの機関庫で働く北斗の姿を交互に見た。 そして、寂しげに、しかし憑き物が落ちたような清々しい顔で笑った。


「いえ……。最高にカッコいい、日本一の機関士さんでした」


「え?」


「優香ちゃんが惚れるのも、無理はないっすね」


「え、ちょ、な、なに言ってるんですか!?」


優香が顔を真っ赤にして慌てる。 達也は、深々と頭を下げた。


「お幸せに! ……僕らは、遠くから応援してますから!」


「ちょ、待って! 誤解です! ……いや、誤解じゃないけど! まだそんな関係じゃ……!」


優香の弁解を背に、二人は駅の改札へと走っていった。


数日後。 横川派出所の事務室に、軽井沢駅から一通の「業務連絡」が届いた。


『件名:杉浦北斗様へ』


中を開くと、達也と純の署名入りで、熱苦しい文章が綴られていた。


『先日は大変失礼いたしました! 貴方のプロ意識に感服しました! 今度、ぜひまた将来の鉄道技術についてお話を聞かせてください。師匠と呼ばせてください!』


「……なんだこれ」


北斗が、眉をひそめて手紙を睨んでいる。


「あいつら、何しに来たんだ? 俺に惚れたのか?」


「鈍感にも程がありますよ、先輩……」


横で見ていたあずさが、呆れ顔でツッコミを入れる。 その手には、優香さんからのお裾分けの「峠のあんず大福」が握られていた。


窓の外では、今日もEF63が重々しいブロアー音を響かせている。 恋のライバルは去ったが、北斗の周りには、まだまだ騒がしい日々が続きそうだった。

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