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鬼軍曹の恋の行き先

この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。

「――作戦開始時刻は、ヒトマルサンマル(10:30)。総員、第一種戦闘配置につけ!」


秋晴れの空が広がる、横川駅前。 いつもなら「峠の釜めし」の香ばしい匂いが漂う平和な広場に、場違いなほど物々しい号令が響き渡った。


声の主は、横川派出所の佐久間区長だ。


「了解。通信回線、オールグリーン。感度良好だ」


整備士の南波さんが、手元の機材を操作しながらニヤリと笑う。 その耳には、管制官が使うようなインカムヘッドセットが装着されている。


「追跡車両、エンジン始動。いつでも出せます」


運転席のハンドルを握るのは、私――神尾あずさ。 こちらもまた、張り詰めた緊張感の中にいた。


「おい……本当にやるのかよ、これ」


後部座席で腕を組んでいる杉浦北斗先輩が、呆れたようにため息をつく。


「仕方ないでしょう。これは『業務命令』なんですから」


私はバックミラー越しに、駅のロータリーに立つ一人の男を見つめた。


窮屈そうなダブルのスーツに身を包み、ガチガチに固まって直立不動の姿勢をとっている大男。 普段は油まみれのツナギを着て、「鬼軍曹」として恐れられている黒石数馬先輩だ。


今日、この場所で、黒石先輩の人生を賭けた一大プロジェクトが始まろうとしていた。


名付けて、『黒石数馬・お見合い特別輸送作戦』である。



事の発端は、数日前の朝礼だった。


「黒石、おまえに辞令だ」


佐久間区長がおもむろに取り出した一枚の写真。 そこには、深窓の令嬢といった風情の、着物の似合う美しい女性が写っていた。


「見合いだ。相手は高崎でも指折りの呉服屋の娘さんだ」


「は、はあぁぁぁッ!?」


黒石先輩の素っ頓狂な声が事務室に響いた。


「む、無理です! 俺みたいな現場一筋の人間と、そんなお嬢様が協調運転できるわけねぇ! 機械の規格が違いすぎます!」


「問答無用だ。先方の父親は、国鉄の大口荷主とも繋がりがある(らしい)。これは横川派出所の予算獲得……いや、地域貢献のための重要任務だ」


「そんな殺生な!」


「安心しろ。貴様が女性の前で借りてきた猫……いや、出力低下したバッテリーのようになるのは織り込み済みだ」


佐久間区長は不敵に笑い、私たちを指差した。


「当日は、我々『チーム横川』が総力を挙げてバックアップする」


こうして、黒石先輩の逃げ場は完全に封鎖されたのだった。



「……目標、現れました」


私の報告と同時に、ロータリーに一台の車が滑り込んできた。 鮮やかなブリティッシュ・グリーンのオープンカー。 年代物のMGだ。


「うわ、すっげぇクラシックカーだな。ありゃ手入れが大変だぞ」


無線越しに南波さんの興奮した声が聞こえる。


運転席から降りてきたのは、写真の女性――綾小路麗華あやのこうじ・れいかさんだった。 今日は着物ではなく、映画女優のようなスカーフを巻いた上品なワンピース姿だ。


「は、初めまして! く、黒石数馬でありますッ!」


黒石先輩が、点呼の時よりも大きな声で叫び、直角にお辞儀をした。 あまりの勢いに、周囲の観光客がギョッとして振り返る。


「……硬いな」


北斗先輩が呟く。


「黒石、聞こえるか? 声がデカすぎる。ノッチを絞れ。笑顔だ」


黒石先輩の耳には、南波さん特製の超小型イヤホンが装着されている。 そこへ、北斗先輩が遠隔指示を飛ばす手はずになっていた。


『りょ、了解……』


黒石先輩が引きつった笑みを浮かべる。 麗華さんは、そんな先輩を見て、ふわりと優雅に微笑んだ。


「初めまして、黒石様。お噂通りの、頼もしい方ですわね」


「は、はあ。恐縮です」


「今日は、私が運転いたしますわ。どうぞ、助手席へ」


麗華さんがスマートにエスコートし、黒石先輩がロボットのような動きで助手席に乗り込む。 オープンカーが軽快なエンジン音と共に発車した。


「よし、追跡開始! 遅れるなよ、神尾!」


「はいっ!」


私はアクセルを踏み込み、二人の乗るオープンカーの後を追った。



舞台は、碓氷峠の国道18号旧道へ。 カーブの連続する山道は、ドライブデートの定番コースだ。


だが、車内の空気は重かった。


「……」 「……」


会話がない。 黒石先輩は緊張のあまり、前方の道路を凝視したまま石像のように固まっている。


『黒石、沈黙が長い。何か喋れ』


北斗先輩の指令が飛ぶ。


『え、あ、その……な、何を喋れば……』


『褒めろ。相手の服でも、車でもいい』


『りょ、了解!』


黒石先輩がカッと目を見開き、麗華さんの方を向いた。


「あ、あの! あ、あなたの塗装表面、全般検査明けみたいで綺麗ですッ!」


車内(私たちのハイエース)に、全員の「あちゃー」という空気が流れた。 女性に向かって塗装表面とは。


しかし。


「あら、ユニークな表現ですこと。ウフフ」


麗華さんが楽しそうに笑った。


「私の着ている服のことですわよね? 全般検査だなんて、まるで機械みたい。黒石様は、本当にお仕事がお好きなのですね」


「は、はい! 鉄道とロクサンは、俺の命ですから!」


「まあ、素敵。一つのことに情熱を注げる男性は、輝いて見えますわ」


おおっ? 意外にも、好感触だ。


「さすが黒石。無骨さが逆に誠実に見えてるのかもな」


佐久間区長が感心したように言う。


車は順調にカーブを登っていく。 めがね橋を過ぎ、熊ノ平へ差し掛かったあたりだった。


プススン……。


突然、前を行くオープンカーのマフラーから黒煙が上がった。 車体がガクガクと揺れ、路肩に停車してしまう。


「あっ、止まっちゃいました!」


私がブレーキを踏むと同時に、黒石先輩たちが車から降りてくるのが見えた。


「ど、どうしましょう。エンジンが止まってしまって……」


麗華さんが狼狽えている。 携帯を取り出しているようだが、ここは山間部。電波状況は悪い。


「チャンスだ」


北斗先輩が身を乗り出した。


『黒石、出番だ。男を見せろ』


その指示を待つまでもなく、黒石先輩は動いていた。 窮屈なスーツの上着を脱ぎ捨て、真っ白なワイシャツの袖をまくり上げる。


「ボンネットを開けてください!」


「え? でも……」


「いいから! 早く!」


普段の業務で染みついた、有無を言わせぬ命令口調。 麗華さんが圧倒されてボンネットを開ける。


黒石先輩は、躊躇なくエンジンルームに顔を突っ込んだ。


「……プラグがかぶってるな。キャブレターの調整も甘い」


その目は、もはや「お見合い中の独身男性」ではない。 何百トンもの鉄塊を相手に格闘する、プロの機関士の目だ。


車載工具を取り出し、手際よくプラグを外し、清掃し、調整していく。 油で汚れることも厭わず、熱せられたエンジンの熱気にも顔色を変えない。


「……クランク回して!」


先輩の指示で、麗華さんがキーを回す。


キュルルル……ブォン!!


エンジンが息を吹き返した。 軽快なアイドリング音が、峠の静寂に響く。


「なおった……」


麗華さんが口元に手を当てて驚いている。


黒石先輩は、ハンカチで手の油を拭いながら、ニカっと笑った。


「へへっ、こいつらも機関車と同じで、正直なもんですよ。手入れしてやりゃ、ちゃんと応えてくれる」


その笑顔には、いつもの強面からは想像もつかない、少年のようなどこか愛おしい響きがあった。


「黒石様……」


麗華さんの頬が、ポッと朱に染まる。


「魔法使いのようですわ……素敵です」


「やったぜ黒石! 完全に落ちたぞ!」


南波さんがガッツポーズをする。 これは、いける。 私たち全員がそう確信した。



車は無事に軽井沢へ到着し、二人はお洒落なカフェのテラス席に座っていた。 私たちは少し離れた席から、聞き耳を立てている。


雰囲気は最高だ。 麗華さんは、尊敬の眼差しで黒石先輩を見つめている。


「黒石様は、機械とお話ができるのですね」


「い、いや、話せるってほどじゃありませんが……音とか、振動で、なんとなく機嫌が分かるというか」


黒石先輩も、だいぶリラックスしてきているようだ。


「……ねえ、黒石様」


麗華さんが、少し身を乗り出した。 その瞳が、真剣な光を帯びる。


「立ち入ったことをお伺いしてもよろしいですか?」


「は、はい。何でも聞いてください」


「黒石様は……その、大切に想っていらっしゃる『女性』はいなくて? 独身だと伺いましたが……」


来た。 核心を突く質問だ。


『黒石、勝負所だ!』


北斗先輩がインカムのマイクを握りしめる。


『余計なことは言うな。「今はいないが、これからは君を大切にしたい」と言え! いいか、復唱しろ!』


しかし。


ザザッ……ザザザッ!


「ああっ!?」


南波さんが悲鳴を上げた。


「どうした!」


「峠の地形のせいか、混線してやがる! 通信状態が不安定だ!」


黒石先輩の耳には、途切れ途切れのノイズ交じりの音声しか届いていなかった。


『……いない……大切にしたい……言え!』


(えっ? いないって言え? 大切な人はいないって……?)


黒石先輩の表情が強張る。 嘘をつくことが何より苦手な、不器用な男。 彼の脳裏に、ある「存在」が浮かんでいた。


毎日顔を合わせ、体を撫で、機嫌を取り、命を預けているパートナー。 EF63形電気機関車、24号機。


(俺には……ロクサンがいる……!)


極度の緊張と混乱の中で、先輩の思考回路がショートした。


「い、いや、実は……昔から想い入れている奴がいましてね」


黒石先輩は、とつとつと語り始めた。


「えっ?」


麗華さんの目が丸くなる。


「昔から……ご存知でいらっしゃいますの?」


「ええ、まあ。俺がガキの頃から知ってる、姐さん女房みたいな奴です」


黒石先輩は、自分より少し先に製造された24号機のことを思い浮かべて言った。


「(年上の幼馴染……!)」


麗華さんが息を呑むのが見えた。 しかし、スイッチの入った黒石先輩は止まらない。


「あいつは……とにかく気が強くて、頑固で、手がかかるんです」


「(……気がお強い方なのね)」


「足元はすぐにキーキー喚くし、ちょっと目を離すと、すぐにへそを曲げて動かなくなるし……」


黒石先輩は困ったように、けれどどこか愛おしそうに笑った。


「俺が油を差して、後ろから支えてやらねぇと、まともに前にも進めない。……本当に、不器用な奴なんですよ」


その言葉を、麗華さんはこう変換したようだった。 『気が強くてわがままだが、精神的に脆く、黒石様が支えてあげないと生きていけない女性……』


「……そんなに、手がかかるのに?」


麗華さんが問うと、黒石先輩は遠い目をして断言した。


「ええ。でも、あいつの手綱をさばけるのは、世界で俺たちだけだ。……俺は、あいつが引退するその日まで、絶対に離れるつもりはありません」


それは、機関士としての「職人の矜持」だった。 ロクサンと共に生き、ロクサンと共に散るという、誓い。


しかし、麗華さんには、それが「どんなに振り回されても、彼女を一生守り抜く」という、男の鋼の決意に聞こえたのだ。


「…………っ!」


麗華さんが、口元を押さえて立ち上がった。 その目には、大粒の涙が浮かんでいる。


「れ、麗華さん?」


黒石先輩が驚いて見上げる。


「……黒石様。わかりましたわ」


「え?(伝わったか?)」


「貴方のその……深く、一途な愛情。痛いほど伝わりました」


麗華さんは、ハンカチで目元を拭った。


「今日は、ここで失礼いたします。……これ以上、お時間をいただくのは申し訳ございませんわ」


「えっ、ちょ、ちょっと!?」


「送らないでくださいませ! ……貴方には、待っている方がいらっしゃるのでしょう?」


麗華さんはそう言い残すと、脱兎のごとくカフェを駆け出していった。 後に残されたのは、呆然とする黒石先輩と、飲みかけの紅茶だけ。


「……なんで?」


黒石先輩が、助けを求めるように私たちの席を見た。


北斗先輩が、深々と帽子を目深に被り、天を仰いだ。


「……バカ野郎」



数日後の、横川派出所。


事務室の机の上に、一通の手紙が置かれていた。 差出人は、綾小路麗華。


「振られたな、黒石」


佐久間区長が、手紙を読み終えて重苦しい溜息をついた。


「参ったな……。相手は管理局の大口荷主だぞ。せっかくの縁談をこんな『誤解』でふいにしたとあっちゃ、また輸送課長から小言を言われるのは俺なんだが」


区長は頭を抱え、面倒くさそうに天井を仰いだ。 どうやら、黒石先輩の失恋そのものより、その後の始末書や言い訳の方に頭を悩ませているらしい。


「悪かったですね……。俺だって、わざとじゃありませんよ」


黒石先輩が、バツが悪そうに唇を尖らせる。 その手には、麗華さんからの達筆な手紙が握りしめられていた。


『……貴方のように誠実な方が、そこまで想い続けていらっしゃる方ですもの。きっと、少し不器用なだけで、とても素敵な女性なのでしょうね』


「素敵な女性、か」


「……いい人だったな。俺みたいな油まみれの男の話を、あんなに真剣に聞いてくれて」


先輩は手紙の文字を指でなぞりながら、ぽつりと漏らした。


その声に、いつもの張りはない。 あれだけ「無理だ」と逃げ回っていたくせに、いざ会ってみれば、その優しさに満更でもなかったようだ。


せっかく芽生えかけた淡い恋心を、自らの「ごう」で摘み取ってしまった寂しさ。それが、いつになく小さく見える背中から漂っていた。


「ま、あながち間違いじゃねえな」


しんみりした空気を破るように、北斗先輩が口を開いた。 その視線は、窓の外に向けられている。


「手がかかって、気が強くて、お前がいないと動けない『古女房』。……お前の相手は、確かにそこにいる」


北斗先輩の視線の先には、秋の日差しを浴びて佇む、EF63形24号機の姿があった。


黒石先輩は、ハッとして窓の外を見た。 武骨で、巨大な、青い鉄の塊。 雨の日も風の日も、共に峠を越えてきた相棒。


先輩は、しばらくその姿を見つめていたが、やがてフッと自嘲気味に笑った。


「……違げぇねぇ」


先輩は、手紙を丁寧に畳んでポケットにしまうと、窓ガラス越しにロクサンへコツンと拳を合わせた。


「人間の嫁さんは逃げちまったが……俺には、コイツがいるか」


その言葉は、自分自身への慰めのようでもあり、同時に、鉄道員ぽっぽやとして生きていく覚悟のようにも聞こえた。


「へっ、上等だ。……色気より食い気、恋より峠だ! 働き者のあいつに、油でも差してきてやるよ!」


黒石先輩は、努めて明るく声を張り上げると、帽子を被り直して事務室を出て行った。 その足取りは、来た時よりも少しだけ力強く見えた。


「やれやれ……。さて、本局への言い訳を考えるとしますか」


佐久間区長が、うんざりした顔で受話器に手を伸ばす。


窓の外では、EF63が『ブオーン』と低いブロアー音を響かせている。 それはまるで、戻ってきた相棒を歓迎し、「あんたには私しかいないのよ」と笑っているかのように聞こえた。


鬼軍曹の恋は、あえなく運休。 しかし、碓氷峠の鉄路を守る彼らの日常は、今日も定時通り運行されているのである。

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