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山村助役の憂鬱

この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。

「――鉄道員ぽっぽやの朝は、列車ダイヤ(スジ)を引くことから始まる」


午前七時〇〇分。 高崎機関区横川派出所の乗務員事務室。


朝の冷たく澄んだ空気が満ちる静寂の中で、その男――山村徹は、愛用の赤鉛筆をカッターナイフで丁寧に削っていた。


シュッ、シュッ。


小気味よい音が響く。 芯の先を針のように鋭く尖らせるのが、彼の流儀だ。


山村は横川駅の助役であり、この派出所の運行管理を一手に担う「番人」である。 駅長兼区長の佐久間清は、現場の空気作りや対外的な政治力には長けているが、実務となるとからっきしだ。 だからこそ、山村が屋台骨を支えなければならない。


「よし」


削り終えた鉛筆を満足げに眺めると、山村は壁一面に貼られた巨大な「ダイヤグラム(運行図表)」に向き合った。


縦軸に駅名、横軸に時間。 その盤面を、無数の線が幾何学模様のように走っている。 これこそが鉄道の法律であり、絶対的な譜面だ。


「本日の臨時列車は……お座敷列車の回送が一本、工臨(工事用臨時列車)が一本か」


山村は定規を当て、赤鉛筆で慎重に線を引く。 彼の引く線一本で、数百トンの鉄の塊が動き、何百人もの人間が動く。 その責任の重さと、パズルを解くような知的な快感が、山村の密かな誇りだった。


「今日も、平和な一日になりますように」


山村は眼鏡の位置を直し、深く息を吐いた。 しかし、その願いが聞き届けられることは、この横川においては稀である。



「おーい、山ちゃん。お茶」


午前八時一五分。 朝礼の時間になっても、事務室は動物園のような騒がしさだった。


「区長。自分の湯呑みくらい自分で出してください」


山村は呆れ顔で、新聞を広げている佐久間に言った。 佐久間区長は、制帽を斜めに被り、ネクタイも緩んでいる。 とても一国の主とは思えない。


「固いこと言うなよ。……おっ、今日の巨人戦はナイターか」


「聞いてませんよ」


山村はため息をつき、視線を事務室の奥へ向けた。 そこでは、もっと頭の痛い連中が騒いでいる。


「だから言ってるだろ、南波! その『自動釜めし加熱装置(ターボ機能付き)』なんて、運転席に持ち込むな!」


機関士の杉浦北斗が、整備士の南波義人に詰め寄っている。


「分からず屋だな、北斗。冬場のロクサンは冷蔵庫並みに冷えるんだぞ? 釜めしをマッハで温められれば、士気も上がるだろ!」


「爆発するわ!」


「まあまあ、二人とも……」


新人の神尾あずさがオロオロと仲裁に入っているが、効果はない。 さらに、ソファーでは非番の黒石数馬が、昨日のパチンコ大敗のショックを引きずって死体のように転がっている。


「……うう、俺の確変が……」


カオスだ。 山村はこめかみを押さえた。 彼らは優秀だ。 ハンドルを握らせれば、日本一の難所である碓氷峠を、コップの水一滴こぼさずに登りきる腕を持っている。 だが、ハンドルから離れると、途端にこれだ。


「総員、着席!」


山村が定規で机をバチン! と叩いた。 乾いた音が響き、ようやく全員が静まり返る。


「本日の業務連絡を行う。……いいか、今日は絶対に問題を起こすなよ。絶対にだ」


山村は念を押すように全員を見回した。


「午後から、高崎鉄道管理局の監査が入るかもしれないという噂がある」


「監査ぁ?」


黒石が面倒くさそうに起き上がった。


「なんだよ、また書類チェックか? 埃でも叩きに来るのかよ」


「そうだ。特に最近、備品の損耗率が異常に高いと目を付けられている。……南波、心当たりがあるな?」


山村が睨むと、南波がサッと目を逸らした。


「い、いやぁ? 俺は常に、必要な開発を行っているだけで……」


「廃材でロボットを作るのは開発とは言わん。とにかく、今日は大人しくしていろ。佐久間区長もです」


「分かってるよ。私はこれから、高崎の本局へ……いや、重要な『会議』に出席してくるから、留守を頼むよ」


佐久間はそそくさと鞄を持って立ち上がった。 山村は知っている。 その「会議」の場所が、駅前の「おぎのや」本店の奥座敷であることを。 そして、議題が女将さんとの世間話であることを。


「……行ってらっしゃいませ」


山村は諦めの境地で送り出した。 区長がいない方が、かえって現場は回るかもしれない。 そう思ったのが、間違いだった。



午前一〇時三〇分。 事務室の黒電話が、ジリリリリと鳴った。


「はい、横川派出所」


『あー、こちら高崎輸送指令。……山村さんか?』


受話器の向こうから、切迫した声が聞こえてきた。


「はい、山村です。どうしました?」


『いや、それがな。……今、本局の監査室の連中がそっちに向かったそうだ』


「は?」


山村の背筋が凍りついた。 噂ではなかったのか。


『しかも、抜き打ちだ。一番厄介な、鎌田監査官が行ったぞ。「横川のたるんだ空気を引き締め直してやる」って息巻いてた』


鎌田。 その名前を聞いて、山村はめまいを覚えた。 「規律の鬼」「歩く六法全書」と恐れられる、管理局でもっとも融通の利かない男だ。 少しの書類不備でも始末書を要求し、些細な服装の乱れで減給処分を下すという伝説がある。


『到着まで、あと三〇分ってところか。……健闘を祈る』


ガチャン。 電話が切れた。


「……三〇分」


山村は受話器を握りしめたまま、呆然と呟いた。 あと三〇分で、あの鎌田が来る。 現状はどうだ?


山村は恐る恐る、窓の外を見た。


機関庫の前では、南波がブルーシートを広げ、何やら怪しげな機械パーツ(明らかに申請外の改造部品)を広げて解体ショーを始めている。 「ヒャッハー! 分解だぁ!」という奇声が聞こえる。


事務室のソファーでは、黒石がランニングシャツ一枚で熟睡し、盛大にいびきをかいている。


そして、最悪なのが――。


「……あれ?」


山村は、壁の運行予定表を見た。 今日の午前中は、貨物列車も旅客列車もない「空白の時間」のはずだ。 しかし、機関庫にあるはずのEF63形、24号機と25号機の姿がない。


「まさか」


山村は慌てて無線機のマイクを掴んだ。


「こちら当直! 北斗、神尾! 応答せよ!」


ザザッ……。 ノイズの向こうから、北斗の呑気な声が返ってきた。


『こちらロクサン。どうした山さん、血相変えて』


「今どこにいる!」


『ああ、天気がいいからな。神尾の腕慣らしに、ちょっと峠を登ってる』


「なっ……!?」


山村は絶句した。 訓練? 聞いていない。 申請書も出ていない。 これは、無断運転だ。


「馬鹿野郎! 誰が許可を出した!」


『区長だ。「いいぞ、行ってこい」って言ってたぜ?』


「あの昼行灯……ッ!」


山村はギリリと歯ぎしりをした。 区長が口頭で許可しても、書類に残っていなければ、監査上は「無許可運転」になる。 しかも、相手はあの鎌田だ。 「公用車の私的利用」「運行管理規定違反」で、全員クビが飛ぶかもしれない。


「戻れ! 今すぐ戻れ!」


『無理だ。今、熊ノ平だぞ? これから折り返しても、一時間はかかる』


「……終わった」


山村はガクリと膝をついた。 三〇分後に監査官が来る。 その時、機関庫にあるはずの機関車がなく、書類もない。 言い逃れようのない事実。


事務室の時計の針が、無情に進んでいく。 カチ、カチ、カチ……。


その音が、山村の心臓を刻むカウントダウンのように聞こえた。


いや。 まだだ。


山村は眼鏡を押し上げた。 その奥の瞳に、怪しい光が宿る。


「……私が、この派出所を守る」


山村は立ち上がった。 手には、削りたての赤鉛筆。 そして、引き出しから新しいダイヤグラムの用紙を取り出した。


「総員、第一種隠蔽配置につけ! 繰り返す、これは訓練ではない!」


山村の怒号が、事務室に響き渡った。



「いいか、南波! そのガラクタを今すぐ片付けろ!」


山村は機関庫へ走り、南波の首根っこを掴んだ。


「ガラクタとはなんだ! これは人類の夢……」


「監査が来る!」


その一言で、南波の顔色が変わった。 彼は音速の動きで怪しいパーツを箱に放り込み、棚の奥へと蹴り入れた。 そして、その上に「廃棄予定品」の札を貼る。


「よし! これで完璧だ!」


「次は黒石だ!」


山村は事務室に戻り、ソファーで寝ている黒石を叩き起こした。


「起きろ! 服を着ろ!」


「んぁ? ……鴨鍋……?」


「寝ぼけてる場合か! 監査官が来るんだ! 貴様、今の格好を見られたら降格処分だぞ!」


黒石は飛び起きた。 山村はロッカーから黒石の制服を引っ張り出し、無理やり着させた。 ボタンが掛け違っているが、直している時間はない。


「お前はそこで、運行マニュアルを読んでいるフリをしろ! 絶対に喋るな! 存在感を消せ!」


「お、おう……」


そして、最大の問題。 北斗たちの「無断運転」だ。


山村は机に戻り、赤鉛筆を握った。 額から冷や汗が滴り落ちる。


事実を変えることはできない。 ならば、「事実の解釈」を変えるしかない。


山村は、ダイヤグラムの上に定規を当てた。 現在時刻から逆算し、北斗たちが出発した時間、そして戻ってくる予定時間をプロットする。


「これは、遊びの訓練ではない」


山村は呟きながら、力強く線を引いた。


「これは……『臨時試運転』だ」


『試9901列車』。 山村は、架空の列車番号を書き込んだ。


理由は……そう、整備後の制動試験だ。 南波が先日、ブレーキ弁の分解整備をしたことにしよう。 その確認のために、急遽本線での試運転が必要になった。 区長の口頭決済済み。 書類は事後承認の途中。


「いける……!」


山村のペン先が走る。 整合性を取るために、前後の列車のスジも微調整するフリをする。 書類の山を捏造し、日誌に嘘の記述を書き加える。


これぞ、助役の奥義『帳尻合わせのダイヤグラム』。


「……間に合った」


山村が最後のハンコを押したその時、玄関の引き戸が開いた。


「高崎鉄道管理局、監査室の鎌田だ」


冷気と共に、銀縁眼鏡の神経質そうな男が入ってきた。 目が笑っていない。 まるで獲物を探す猛禽類のような目つきだ。


「ご苦労様です! 助役の山村です!」


山村は直立不動で敬礼した。 黒石も、慌ててマニュアルを逆さまに持ちながら敬礼する。


「ふむ……」


鎌田はゆっくりと事務室を見回した。 机の上は(今さっき片付けたので)整然としている。 黒石の制服は(ボタンがズレているが)着用されている。


「佐久間区長は?」


「はっ! 本局での重要会議……ええと、地域振興に関する折衝のため、外出しております!」


嘘ではない。おぎのやの女将との会話は、広義には地域振興だ。


「そうか。……では、帳簿を見せてもらおうか」


鎌田は山村のデスクに座り、運行日誌や点検記録をめくり始めた。 山村は、心臓が口から飛び出しそうなのをこらえて直立していた。


紙をめくる音だけが、部屋に響く。 一分が、一時間のように感じられる。


「……山村君」


「は、はい!」


「この、本日午前の『試9901列車』だが」


鎌田が、捏造したばかりの箇所を指差した。


「ああ、それですか」


山村は、努めて冷静な声を出し、汗ばむ手で眼鏡を直した。


「先日、24号機のブレーキ弁に微細なエア漏れの兆候が見られまして。整備士の南波による分解整備を行い、その最終確認のために、急遽設定した試運転です」


「ほう」


「安全こそが、我々の使命ですから。万が一にも、峠でブレーキ不全などあってはなりませんので」


山村は胸を張った。 嘘の中に、本音を混ぜる。 それが、相手を信じ込ませるコツだ。


「なるほど。……感心な心がけだ」


鎌田の表情が、わずかに緩んだ。


「最近は、効率ばかりを求めて、こうした地道な確認を怠る現場が多い。……横川は、基本ができているようだな」


「恐縮です!」


勝った。 山村が心の中でガッツポーズをした、その時だった。


『フォオオオオオ……!』


遠くから、EF63のブロアー音が聞こえてきた。 北斗たちが戻ってきたのだ。


「お、戻ってきたようだな。……確認させてもらおうか」


鎌田が立ち上がり、機関庫の方へと歩き出した。


(まずい!)


もし、北斗たちが降りてきて、「いい訓練でしたー!」なんて軽口を叩いたら、全てが水の泡だ。 山村は鎌田の後ろから、必死の形相でついていった。


機関庫に、青い巨体が入線してくる。 プシューッ、とブレーキが緩む音がして、列車が停止した。


運転席のドアが開き、北斗とあずさが降りてくる。 二人は、笑顔で談笑している。


(笑うな! 真面目な顔をしろ!)


山村は、鎌田の背後から、二人に向かって必死に目配せをした。 眉毛を吊り上げ、口を引き結び、「監査だ! 真面目にやれ!」というテレパシーを送る。


それに気づいたのは、勘の鋭い北斗だった。 彼は鎌田の背広姿と、山村の形相を見て、一瞬で状況を察したようだ。


「――報告!」


北斗はいきなり表情を引き締め、大声で叫んだ。


「第24号機、制動試験完了! ブレーキ弁の動作、異常なし! 空ノッチ試験、良好!」


隣にいたあずさが、ビクリとして北斗を見た。 北斗はあずさの背中をバシッと叩いた。


「あ、はい! ……ええと、各部油圧、正常値です! 油漏れありません!」


あずさも、反射的に叫んだ。


そこへ、南波が工具箱を持って駆け寄ってきた。 彼もまた、山村の視線を受けて演技プランを理解したようだ。


「整備班長、南波! 点検終了を確認! ……やはり、パッキンの微細な摩耗が原因でしたか。交換して正解でしたね」


南波は油まみれの手で、もっともらしい嘘をついた。


三人の迫真の演技。 まるで、戦場の最前線から帰還した兵士のような緊張感だ。


鎌田は、その様子をじっと見つめていた。 そして、ゆっくりと頷いた。


「……うむ。いいチームだ」


鎌田は山村の方を向いた。


「機関士と整備士の連携が取れている。……山村君、君の指導の賜物だな」


「は、はい! ありがとうございます!」


山村は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。



「いやあ、素晴らしい現場だった。これなら安心して任せられる」


一時間後。 鎌田は満足げな顔で、黒塗りの公用車に乗り込んだ。


「それでは、失礼する」


車が走り去っていく。 そのテールランプが見えなくなるまで、山村たちは直立不動で敬礼を続けた。


そして。


「…………行ったか?」


南波が小声で尋ねた。


「ああ。行った」


山村が答えた瞬間、全員がその場にへたり込んだ。


「し、死ぬかと思ったぁ……」


あずさが涙目で地面に突っ伏す。


「山さん、ナイスフォローだ。あんたがいなきゃ、俺たち全員懲戒免職だったぜ」


北斗が帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。


「まったくですよ……。寿命が三年縮みました」


山村は地面に座り込んだまま、深いため息をついた。 書類の捏造、演技指導、そして心労。 胃がキリキリと痛む。


そこへ、能天気な足音が近づいてきた。


「ただいまー。いやあ、会議が長引いてね」


佐久間区長だ。 顔をほんのり赤らめ、手にはおぎのやの紙袋(お土産の釜めし)をぶら下げている。


「おや? みんなどうしたんだ? 地面で日向ぼっこか?」


その間抜けな声を聞いた瞬間、山村の中で何かが切れた。


「区長ォォォォォッ!!」


「ひっ!? な、なんだ山村君!」


「今日という今日は、許しませんよ! その釜めしは没収です! そして、今日の私の残業代は、区長のポケットマネーから出してもらいます!」


「ええっ!? なんで!?」


「うるさい! 書類の整理が山ほどあるんです! 全部、貴方たちのせいでね!」


山村は立ち上がり、怒りの形相で事務室へと戻っていった。 その背中は、いつもの頼りない中間管理職ではなく、この派出所を支配する真の影の支配者のそれだった。


「……怒らせると、一番怖いのは山さんだな」


黒石がポツリと呟いた。 北斗と南波、そしてあずさは、無言で頷いた。



その夜。 誰もいなくなった事務室で、山村は一人、赤鉛筆を削り直していた。


机の上には、修正済みの完璧なダイヤグラムと、運行日誌。 そして、みんなで食べた釜めしの空き容器が積まれている。


「やれやれ……」


山村は、引き出しの奥から一枚の写真を取り出した。 それは、若かりし頃の自分と、現役バリバリだった頃のEF63、そして今は離れて暮らす家族が写った、色褪せた写真だった。


「まあ、彼らが元気に走れるなら、それでいいか」


山村は小さく微笑み、写真をしまった。


彼には、北斗のような天才的な運転技術はない。 南波のような発明の才能もない。 佐久間のような度胸もない。


けれど、彼には「スジ」がある。 彼らが脱線しないように、社会というレールの上を走り続けられるように、定規と赤鉛筆で線を引き続けること。 それが、山村徹という男の、地味で、誰にも賞賛されない、けれど誇り高い「戦い」なのだ。


「さて、帰るとするか」


山村は電気を消し、事務室を出た。 暗闇の中に、壁のダイヤグラムだけが、微かに白く浮かび上がっていた。


翌日。 南波から「謎の請求書(巨大スピーカー代・名目:聴覚検査用機材)」が回ってきて、山村の悲鳴が再び横川の谷に響くことになるのだが、それはまた別の話である。

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