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甲種輸送大作戦

この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。

その日、高崎機関区横川派出所の乗務員事務室には、晩秋の柔らかな日差しと共に、耐え難いほどの退屈な空気が充満していた。


「……暇だ」


窓際でダンベルを上げ下げしていた黒石数馬先輩が、心の底からの呻き声を漏らした。


「筋肉が……刺激を求めて悲鳴を上げている。このままじゃ、上腕二頭筋が萎縮してただの棒になっちまう」


「うるせー、せっかくの昼寝が台無しだ」


ソファーで雑誌を顔に乗せて寝ていた杉浦北斗先輩が、不機嫌そうに寝返りを打つ。


私――神尾あずさは、自分のデスクで頬杖をつきながら、大きなあくびを噛み殺した。


ここ数日、貨物列車の運行が極端に少なく、臨時列車の予定もない。 平和と言えば聞こえはいいが、毎日何百トンもの鉄の塊と格闘している私たち「峠のシェルパ」にとっては、この静寂は毒にも等しい。


「あーあ。何か面白いこと起きないかなぁ」


私が独り言を呟くと、向かいの席で愛機ニコンF5の手入れをしていた宮城裕太先輩が、レンズを磨く手を止めて顔を上げた。


「贅沢言っちゃいけないよ、神尾ちゃん。平和こそ一番。……まあ、被写体がないのはカメラマンとしては死活問題だけどね」


「そうですよ! EF63が唸りを上げない横川なんて、ただの静かな山村じゃないですか!」


その時だった。 バァン! と勢いよくドアが開き、佐久間清区長が血相を変えて飛び込んできた。


「総員、注目! ビッグニュースだ!」


区長の手には、一枚のFAX用紙が握りしめられている。 その鼻息の荒さに、全員の視線が集まる。


「また変なイベントの話ですか? 今度は『筋肉祭り』とか」


黒石先輩が期待のこもった目で尋ねるが、区長は首を振った。


「違う! 今回は本業だ! それも、特大の獲物が来るぞ!」


区長はFAX用紙をホワイトボードに貼り付け、パンと叩いた。


「『甲種鉄道車両輸送こうしゅてつどうしゃりょうゆそう』だ!」


「甲種輸送……?」


私が首をかしげる。 それは、線路を使って、新型車両や譲渡車両を「貨物」として運ぶ輸送方式のことだ。


「何を運ぶんですか?」


北斗先輩が身を起こし、興味深そうに尋ねる。 区長はニヤリと笑い、勿体ぶってその名前を口にした。


「東京の小田急電鉄で活躍していた、あの伝説の特急車両……10000形『HiSE』だ!」


「なっ……!?」


宮城先輩が、椅子から転げ落ちそうになった。


「ロ、ロマンスカーですかッ!?」


「そうだ! 長野電鉄への譲渡が決まったらしい。自走できないため、ここ横川から軽井沢の間は、我らがEF63が後ろから押し上げることになった!」


事務室がどよめいた。 ロマンスカーといえば、私鉄の雄・小田急の看板列車だ。 真っ赤な車体に、流れるような流線型のフォルム。 そして何より、運転席を二階に上げて最前部を客席にした「展望席」が特徴の、まさにロマンの塊のような車両である。


「すげぇ……! あのハイデッカー車が、碓氷峠を登るのか!」


宮城先輩の目が、少年のようにキラキラと輝き出した。


「紅白の車体に、青いロクサン! これは歴史的な編成になるぞ! 最高の被写体だ!」


「浮かれるなよ、宮城」


北斗先輩が冷静に釘を刺す。


「相手は特殊な連接台車れんせつだいしゃだ。しかもアルミ車体で軽い。押す力の加減を間違えれば、座屈ざくつさせて脱線させるぞ」


「うっ……そ、それはそうだけど」


「期日は今週末の日曜日だ。沿線には、とんでもない数のギャラリーが集まるぞ。……気合い入れろよ」


北斗先輩の言葉に、私は武者震いをした。 憧れのロマンスカーを、私の手でエスコートする。 退屈な日常が一変、華やかな「ロマンス」の予感に、私の胸は高鳴った。



しかし、ロマンスの裏には、常に現実的な問題がつきまとうものだ。


「……困りましたね」


その日の夕方。 「おぎのや」本店のテーブル席で、看板娘の荻野優香さんが深くため息をついた。


「どうしたんですか、優香さん。ロマンスカーが来るんですよ? お客さんもいっぱい来ますよ!」


私が釡めしを頬張りながら励ますと、優香さんは困った顔で笑った。


「それが問題なのよ、あずさちゃん。……予想では、数千人規模の鉄道ファンが来るそうよ」


「数千人!?」


「ええ。しかも、みんな良い場所で写真を撮りたいから、早朝からめがね橋や丸山変電所のあたりに場所取りをするはずよ。……お店には来てくれないわ」


確かにそうだ。 撮り鉄の人たちは、一度場所を決めたら、列車が通過するまでテコでも動かない。 駅前のお店がいくら賑わっても、山の中にいる彼らは「昼食難民」になってしまう可能性がある。


「せっかく横川に来てくれるのに、お腹を空かせたまま帰すなんて……『おぎのや』の名折れだわ」


優香さんは、エプロンの裾をギュッと握りしめた。 そのプロ意識の高さに、私は言葉を失う。


「山の上に、お店ごと持っていけたらいいのになぁ……」


優香さんがポツリと呟いた、その時だった。


「……あるぞ。その方法が」


背後から、不敵な声が聞こえた。 振り返ると、そこには整備士の南波義人さんと、佐久間区長が立っていた。 二人の目は、悪巧みをする子供のように怪しく光っている。


「南波さん? 区長?」


「フフフ……。優香ちゃん、その悩み、我々『チーム横川』が解決しよう」


南波さんが、一枚の図面をテーブルに広げた。 そこに描かれていたのは、黒くて四角い、見覚えのある車両だった。


「ヨ3500形……?」


かつて貨物列車の最後尾に連結されていた車掌車だ。 以前、廃車寸前のものを南波さんが魔改造し、とあるイベントで活躍させた曰く付きの車両である。


「こいつを再び使う。名付けて『移動釡めし販売・カマド・エクスプレス』作戦だ!」


区長が高らかに宣言した。


「作戦概要はこうだ。ロマンスカーが到着する二時間前。線路の安全確認と沿線警備という名目で、先行列車を走らせる」


南波さんが補足する。


「編成は、先頭にEF62。真ん中に、店舗兼倉庫に改装したヨ3500。そして最後尾に、推進用のEF63重連だ」


「その列車を、撮影ポイントである丸山変電所やめがね橋付近で『徐行』あるいは『停車』させる」


「そこで、ヨ3500のデッキから、腹を空かせたファンどもに釡めしを直売するんだ!」


「な、なるほど……!」


私は手を叩いた。 これなら、山の中にいるファンにも温かいお弁当を届けられる。 まさに、ウィングサービスだ。


「よし、乗ったわ!」


優香さんが立ち上がり、拳を握りしめた。


「在庫のある限り、全部売り切ってみせます! ……南波さん、車両の準備をお願いできますか?」


「任せとけ! 特急で販売カウンターを設置してやる!」


盛り上がる大人たち。 しかし、その作戦には重大な犠牲が伴うことを、私はまだ知らなかった。



そして迎えた、運命の日曜日。 碓氷峠は、早朝から異様な熱気に包まれていた。 国道18号の旧道には、県外ナンバーの車が列をなし、線路沿いの撮影スポットには、まるで黒い花が咲いたように三脚とカメラの砲列が並んでいる。


午前一〇時。 横川駅のホームに、奇妙な編成の列車が入線していた。


先頭は、茶色い電気機関車EF62。 そして真ん中に、黒い車掌車ヨ3500。 最後尾に、青いEF63の重連。


「……なんで、僕が運転なんですか」


先頭のEF62の運転席で、宮城先輩が涙目で抗議していた。


「僕だって撮りたいんですよ! ロマンスカー! なんで一番いい時間に運転なんですかぁ!」


「諦めろ宮城。お前のその『安全運転テクニック』が必要なんだ」


無線機越しに、最後尾のEF63に乗る北斗先輩がなだめる。


「それに、特等席で見られるんだからいいだろ。……ほら、出発時刻だ」


「ちくしょー! ヤケクソだ! 行ってやりますよ!」


宮城先輩が汽笛を鳴らす。 列車は、ゆっくりと動き出した。


私は、真ん中のヨ3500に乗っていた。 狭い車内は、おぎのやから搬入された数百個の釡めしの箱で埋め尽くされている。 乗務員は、販売担当の優香さん、補助の私、そして――。


「オラオラァ! 道を開けろ! 弁当が通るぞ!」


荷物運び兼ボディガードとして、黒石先輩が仁王立ちしていた。 その太い腕には、「おぎのや」の法被はっぴがパツパツに張り付いている。


「第一ポイント、丸山変電所跡! 停車!」


列車がキキーッと音を立てて止まる。 窓の外を見ると、数百人のカメラマンたちが、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。 なにしろ、ロマンスカーが来ると思ったら、変な貨物列車が止まったのだから当然だ。


そこで、優香さんがデッキに飛び出した。


「みなさーん! おはようございます! お腹、空いてませんかー!?」


拡声器を通した、アイドルのような明るい声が谷間に響く。


「『峠の釡めし』の特別移動販売です! 出来たてホカホカですよー!」


一瞬の静寂。 そして。


「うおおおおおっ! 飯だぁぁぁ!」 「神だ! おぎのやの女神が降臨したぞ!」 「こっちは朝から絶食なんだ! ひとつくれぇ!」


寒空の下、空腹に耐えていたファンたちが、ゾンビ映画のように押し寄せてきた。


「はいはい、押さないで! 順番にお渡しします!」


優香さんは笑顔で、しかし手際よく釡めしを捌いていく。 私もお釣りの計算に追われる。


「おい、そこのフェンス越しの兄ちゃん! 届かねえだろ!」


黒石先輩が、線路から離れた場所にいるファンを見つけた。


「黒石デリバリー、行きますッ!」


先輩は釡めしの箱を小脇に抱えると、なんとフェンスを軽々と飛び越え、斜面を駆け上がっていった。


「ほらよ! 釣銭はいらねえな!」 「あ、ありがとうございます! マッチョさん!」


まさに戦場。 飛ぶように売れるとはこのことだ。 私たちは、丸山、めがね橋、熊ノ平と停車するたびに、釡めし爆弾を投下していった。


「完売……! すごい、全部売り切ったわ!」


軽井沢駅で折り返す頃には、ヨ3500の中は空っぽになっていた。 優香さんは額の汗を拭い、満足げに笑った。


「さあ、急いで戻りましょう! 次はいよいよ、本番よ!」



正午過ぎ。 私たちが横川駅に戻ってくると、入れ違いに主役が到着していた。


「……きれい」


側線に停車していたのは、小田急ロマンスカー10000形・HiSE。 ワインレッドとパールホワイトのツートンカラー。 低く構えた流線型のボディ。 連接車特有の、車両と車両の間に台車がある独特の構造。 それは、武骨な国鉄車両ばかり見てきた私にとって、別世界の「お姫様」のように見えた。


「見惚れてる場合か。連結するぞ」


北斗先輩の声に、我に返る。 私たちはEF63を操り、ロマンスカーの後部へと接近する。


「慎重にな。相手はアルミボディだ。強く当てたら凹むぞ」


「わかってます! ……やわやわ、やわやわ」


私は息を詰め、ノッチを刻む。 あと1メートル。50センチ。 ガチャン。 フェザータッチのような、衝撃のない連結。


「連結よし! ブレーキ試験、開始!」


準備は整った。 先頭には、高崎から応援に来たEF62が連結されている。 ロマンスカーを、EF62とEF63でサンドイッチにして、峠を越えるのだ。


「さあ、行くぞ。お姫様のエスコートだ」


北斗先輩が合図を送る。 私は緊張と誇らしさで、ハンドルを握りしめた。 あの美しい列車を、私のロクサンが押す。 沿線には、お腹を満たして元気になった数千人のファンが待っているはずだ。 最高のシャッターチャンスを提供しなきゃ。


「出発進行!」


重厚なブロアー音と共に、4両編成のロマンスカーが動き出した。 いざ、碓氷峠へ。



列車は順調に勾配を登っていく。 普段の貨物列車とは違い、客車(電車だが動力は使っていない)は軽い。 ロクサンは軽快な足取りで、カーブをクリアしていく。


「見えてきました! 丸山変電所です!」


私が声を上げる。 ここは、レンガ造りの廃墟と列車を絡めて撮れる、屈指の撮影スポットだ。 きっと、カメラの放列が私たちを待っているはず。


「……あれ?」


私は目をぱちくりさせた。 確かに、人はいる。 ものすごい数の人がいる。 でも、誰もカメラを構えていない。


「……なんだ、あいつら」


北斗先輩も怪訝な顔をする。 ファンたちは、線路脇に座り込み、あるいはレジャーシートを広げ、何かを一心不乱に口に運んでいた。


モグモグ、モグモグ。


ロマンスカーが目の前を通過しても、 「あ、来た来た(モグモグ)」 「うめぇ、この漬物ポリポリ」 「鶏肉最高ハフハフ」 と、チラリと見るだけで、箸を止める気配がない。


「ちょ、ちょっと! ロマンスカーですよ! 写真撮らなくていいんですか!?」


私は運転席の窓から叫びたくなった。 しかし、異変はそれだけではなかった。


「……なんか、臭わないか?」


北斗先輩が鼻をひくつかせた。 窓の隙間から、風に乗って漂ってくる匂い。 それは、森の清々しい香りでも、機械油の匂いでもなかった。


濃厚な醤油と、出汁だしの香り。 炊き込まれたごぼうと椎茸の、食欲をそそる芳醇な香り。


「これ……釜めしの匂いだ」


そう。 数千人のファンが一斉に、同じ場所で、温かい釜めしの蓋を開けたのだ。 谷底のような地形の碓氷峠に、数千個分の釜めしの湯気が充満し、逃げ場を失って滞留していた。


「うわっ、強烈だな……」


めがね橋に差し掛かると、匂いはさらに濃厚になった。 絶景のアーチ橋の上でも、下でも、みんな釜めしを食べている。 ロマンスカーの美しい車体が、茶色い醤油の香りの霧の中を突き進んでいく。


「シュールすぎる……」


私は脱力した。 憧れのロマンスカー輸送。 もっとこう、ドラマチックで、華麗なシーンを想像していたのに。 現実は、巨大な「野外大宴会場」の中を、給仕係のように通り過ぎていくだけだった。


「……平和だな」


北斗先輩が、呆れたように、でも少し笑って言った。


「誰も殺気立ってねえ。みんな笑顔で飯を食ってる。……ある意味、最高の安全対策かもしれん」


確かに、場所取りの喧嘩も、怒号も聞こえない。 みんな、幸せそうに釜めしを抱えている。 花より団子。 ロマンスより釜めし。


列車は、醤油の香りをまといながら、淡々と峠を登り続けた。



一三時三〇分。 列車は無事に軽井沢駅に到着した。 ロマンスカーを切り離し、長野側の機関車に引き渡す。


「……お疲れ様でした」


私は運転席で、ぐったりと肩を落とした。 緊張感から解放されたのと、車内に染み付いた美味しそうな匂いのせいで、お腹が空いてたまらない。


「せっかくのロマンスカーだったのに……なんか、全然ロマンチックじゃなかったですね」


私がぼやくと、窓を開けていた北斗先輩が苦笑いした。


「そうか? 俺は嫌いじゃないぜ、こういうの」


先輩は、ホームの向こう、満足げに腹をさすりながらロマンスカーを見送るファンたちを眺めた。


「ロマンス(恋)もいいが、人間、腹が減っては戦ができねえ。……食欲ってのは、生きる力そのものだ」


北斗先輩は、ポケットから何かを取り出した。 余っていたのか、それとも優香さんからこっそり貰っていたのか。 小さな容器に入った、釜めしの「杏子あんず」だ。


「ほら。お前も頑張ったご褒美だ」


先輩が、その杏子を私の口に放り込んだ。 甘酸っぱい味が、口いっぱいに広がる。


「んぐっ……! も、もう! 扱いが雑です!」


私が抗議すると、先輩はニカっと笑った。


「色気のない俺たちの職場には、甘いロマンスより、この甘酸っぱいくらいが丁度いいんだよ」


その笑顔を見たら、文句を言う気も失せてしまった。 確かに、私たちらしいかもしれない。 泥臭くて、食い気ばかりで、でも温かい。


「……そうですね。美味しかったです」


私は、口の中の杏子を転がしながら笑い返した。


その頃。 横川駅では、売上目標を大幅に達成した佐久間区長と優香さんが、手を取り合って喜んでいたという。 一方で、宮城先輩は「匂いでレンズが曇った!」と嘆き、黒石先輩は「筋肉へのカーボローディング(糖質補給)完了!」と満足げだったとか。


こうして、伝説の「ロマンスカー輸送作戦」は、香ばしい醤油の匂いと共に、人々の胃袋と記憶に深く刻まれたのだった。


碓氷峠の風には、まだほんのりと、釜めしの香りが残っているような気がした。

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