白きエリートの休日
この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。
「……おぎのや、ついに来たわ」
早春の柔らかな日差しが降り注ぐ、群馬県・横川駅。 かつては多くの列車が行き交い、機関車の連結音と峠の釜めしの売り声で賑わったこの場所に、一人の女性が降り立った。
その出で立ちは、明らかに周囲から浮いていた。
トレンチコートの襟を立て、頭には女優のようなつば広の帽子。 顔の半分を覆い隠すほどの大きなサングラスをかけ、手にはブランド物のハンドバッグ。 まるで、昭和の銀幕スターがお忍びで田舎へやってきたような、過剰な変装である。
彼女の正体は、西園寺志織。 国鉄が誇る新幹線PRユニット「スーパー・エクスプレス・シスターズ(SES)」のセンターであり、最新鋭の新幹線E2系を操るエリート運転士だ。
普段は純白の制服に身を包み、スポットライトを浴びている彼女が、なぜこんな場所にいるのか。
「勘違いしないで。これはあくまで『敵情視察』よ」
志織は誰に聞かせるでもなく、心の中で言い訳を繰り返した。
「ライバルである横川の釜めしが、なぜあれほどまでに人々を――そしてこの私を魅了するのか。その秘密を冷静かつ客観的に分析し、今後のSESの活動に役立てる。……そう、これは崇高な任務なの」
彼女の脳裏に蘇るのは、昨年のクリスマス。 豪雪の碓氷峠で立ち往生した際、泥だらけの機関士たちが届けてくれた、温かい釜めしの味だ。 極限状態だったとはいえ、あの時の感動は、完璧主義の彼女の舌に深く刻み込まれてしまっていた。
(あの味が、まぐれだったのか、それとも本物なのか。……それを確かめるまでは、私の気が済まないだけよ!)
グゥ〜……。
高尚な理屈を並べた直後、彼女のお腹が正直な音を立てた。
「…………っ!」
志織は顔を赤らめ、周囲をキョロキョロと警戒する。 幸い、駅前のロータリーにはハイキング客の姿がちらほらあるだけで、誰も彼女には注目していない。
「よ、よし。気配は消せているわね。……行くわよ」
志織はサングラスの位置を直し、決意を秘めた足取りで、駅前にある「おぎのや」本店へと向かった。
◇
「いらっしゃいませー!」
暖簾をくぐると、活気のある声が出迎えた。 店内は、昼時ということもあり満席に近い。 香ばしい醤油と出汁の香りが、空腹の胃袋を容赦なく刺激する。
志織は、なるべく目立たないように背を丸め(ているつもりで)、入り口付近に立った。
「(ふふ、誰も私が西園寺志織だとは気づいていないようね。完璧なカモフラージュだわ)」
そう確信した瞬間だった。
「あら、いらっしゃいませ。……お一人様ですね?」
看板娘の荻野優香が、満面の笑みで近づいてきた。 その視線は、志織のサングラスの奥にある瞳を、正確に射抜いているように見えた。
「(っ!? まさか、バレた?)」
志織は一瞬身構えた。 しかし、優香の表情は、一見の観光客に向ける親切なそれと変わらない。
だが、優香の目は誤魔化せなかった。 ピンと伸びた背筋、体幹のブレない美しい立ち姿。 そして何より、微かに漂う高級なフランス製香水の香り。 横川のような泥臭い現場には存在しない、洗練された「都会」のオーラ。
(あ、SESの西園寺さんだ)
優香は一瞬で看破した。 こんな怪しい格好で来るなんて、よほどの事情があるのだろう。 あるいは、プライベートでお忍び旅行か。
(変装のつもりなのかな? ……ふふ、バレバレだけど)
優香は心の中でクスリと笑ったが、そこは接客のプロ。 野暮なツッコミは入れず、「気づかないフリ」を決め込むことにした。
「奥の静かなお席へご案内しますね。……どうぞ、こちらへ」
優香はあえて、他のお客の視線が届きにくい、柱の陰の特等席へと志織を誘導した。
「あ、ありがとう……」
志織は声を低くして答え、席に着く。
「ご注文はお決まりですか?」
「……『峠の釜めし』を一つ。……あと、お茶を」
「かしこまりました。すぐに温かいお茶をお持ちしますね」
優香は厨房へ向かう際、すれ違いざまに母(女将)へ目配せをした。 数分後、運ばれてきたのは、通常のお茶と、小皿に盛られた自家製の漬物だった。
「こちらはサービスです。旅のお疲れにどうぞ」
「え? ……あ、ありがとう」
志織は驚いたが、素直に好意を受け取ることにした。
(ふふん。私の気品が、隠しきれずに溢れ出てしまったよう音ね。一般客に紛れ込んでも、VIP待遇を受けてしまうなんて……罪な女だわ)
志織は悦に入りながら、運ばれてきた釜めしの蓋に手をかけた。
パカッ。
湯気と共に広がる、芳醇な香り。 鶏肉、椎茸、筍、牛蒡、うずらの卵、栗、杏子、紅生姜、グリーンピース。 9種類の具材が、宝石箱のように輝いている。
「……会いたかったわ」
志織は誰にも聞こえない声で呟き、箸を割った。
まずは、味の染みた茶飯を一口。
「……んっ!」
口の中に広がる、昆布と出汁の優しい旨味。 コンビニのおにぎりや、駅弁フェアの冷めた弁当とは違う。 出来立ての温かさが、身体の芯まで染み渡っていくようだ。
(悔しいけど……美味しい。計算され尽くした塩加減。具材それぞれの個性を殺さず、全体として調和させるバランス感覚。……これは、私の新幹線ダイヤグラムにも通じる『美学』だわ)
志織が心の中で食レポを展開し、至福の時を過ごしていた、その時だった。
「お腹すいたー! 優香さーん、いつもの!」
入り口のドアベルがけたたましく鳴り、元気すぎる声が店内に響き渡った。
志織の手がピタリと止まる。 その声には、聞き覚えがありすぎた。
(げっ……神尾あずさ!?)
反射的に顔を背ける。 入ってきたのは、非番なのだろう、ヨレヨレのパーカーにジーンズという、あまりにもラフな格好をした神尾あずさだった。
「いらっしゃい、あずさちゃん。今日は早いのね」
「うん! 午前中で整備の手伝い終わったから。もうペコペコだよー」
あずさは遠慮なく店の中央へ進んでくる。 志織はサングラスの縁を指で押さえ、必死に気配を消そうとした。
(なんで……なんでこんな日に限って、こいつが来るのよ!)
「あずさちゃん、ごめんね。今、お席がいっぱいで……」
優香が困ったように店内を見回す。 確かに、ランチタイムのピークで、空いている席はほとんどない。
ほとんど、ない。 そう、志織の座っている4人掛けのテーブル以外は。
嫌な予感がした。 優香の視線が、チラリとこちらに向けられる。 その目には、少しの悪戯心と、大いなる慈愛(?)が含まれていた。
「あずさちゃん、相席でもいい? ……奥の席の、お姉さんと」
「えっ? あ、はい。全然いいですよ!」
あずさは何の疑いもなく頷いた。
(ちょっと! 店員さん!? 気を利かせなさいよ!)
志織の心の叫びも虚しく、あずさはドカドカとこちらへ歩いてくる。
「失礼しまーす!」
あずさは志織の向かいの席に、勢いよく座った。 そして、目の前のサングラスの女性を見て、ニコッと笑う。
「あ、ここいいですか? すみません、混んでて」
「…………どうぞ」
志織は喉の奥から絞り出すような、低く、作った声で答えた。 顔は伏せたままだ。
(バレる……? いや、この変装なら……)
「わあ! 美味しそう! お姉さんも釜めしですか!」
あずさは全く気づいていなかった。 それどころか、志織が食べている釜めしを見て、目を輝かせている。
「優香さーん! 私も釜めし定食! 大盛りで!」
「はいはい、大盛りね」
あずさは運ばれてきたお冷を一気に飲み干すと、再び志織の方を見た。
「あの、観光の方ですか?」
(話しかけないで! ボロが出るじゃない!)
「……ええ。まあ、そのようなものです」
「へぇ〜。お一人で? 珍しいですね。この辺は何もない所ですけど、釜めしと空気だけは美味しいんですよ」
あずさは人懐っこい笑顔で話しかけてくる。 普段、仕事で顔を合わせる時は、互いに火花を散らしているライバル関係。 しかし、制服を脱いだ彼女は、ただの「世話焼きな田舎の娘」だった。
「……そうね。空気は、悪くないわ」
志織は短く答える。 あずさは、志織のつっけんどんな態度も気にせず、運ばれてきた釜めし大盛りに食らいついた。
「ん〜! やっぱりこれこれ! 生きててよかったー!」
その食べっぷりは、見ていて清々しいほどだ。 口の端にご飯粒がついているのもお構いなし。
「ねえ、お姉さん。釜めしの中に入ってる杏子、好きですか?」
唐突な質問。
「……え?」
「これ、結構好き嫌い分かれるんですよ。最初に食べるか、最後に食べるか、とか。……私は、中盤で食べる派なんです」
あずさは箸でオレンジ色の杏子をつまみ上げた。
「この酸味がね、旅の疲れに効くと思うんです。甘じょっぱいご飯の合間に食べると、口の中がサッパリして、また食欲が湧いてくるっていうか」
志織は、自分の釜めしの中にある杏子を見た。 彼女はいつも、デザート代わりに最後に取っておく派だった。
「……私は、最後ね」
「へぇ! 楽しみは取っておくタイプですか? それもいいですね!」
「……でも、貴方の言うことも一理あるわ」
志織は、つい素の口調で喋ってしまいそうになり、慌てて咳払いをした。
「コホン。……計算された塩加減と、具材のバランス。この酸味は、全体を飽きさせないためのアクセント……合理的かつ、情緒的だわ」
「合理的……? 情緒的……?」
あずさがキョトンとする。
「わあ、なんか難しいこと言いますね! お姉さん、頭良さそう!」
(……こいつ、本当に気づかないの?)
志織は呆れると同時に、少し拍子抜けした。 帽子とサングラスがあるとはいえ、声や雰囲気で分かりそうなものだ。 しかし、あずさの目には「釜めしを美味しそうに食べる、綺麗なお姉さん」としか映っていないらしい。
「でも、分かります。なんかこう、安心する味っていうか……計算とかはよく分かんないですけど、作ってる人の『愛』を感じますよね」
「……愛、ね」
「はい。優香さん……あ、ここの店員さんなんですけど。毎日何百個も作ってるのに、一つ一つ手抜きがないんです。蓋を開けた時にお客さんが笑顔になるようにって、杏子の向きまでこだわってるんですよ」
あずさは誇らしげに語る。
志織は、カウンターの奥で忙しく働く優香の姿を盗み見た。 先ほど、自分をこの席に通した時の笑顔。 あれは、単なる接客スマイルではなかったのかもしれない。
「……そうね。プロフェッショナルだわ」
志織が呟くと、あずさは嬉しそうに頷いた。
その時、窓の外から『ブオオオオ……』という低い音が響いてきた。 峠を下ってきた電気機関車のブロアー音だ。
「あ、ロクサンだ」
あずさが反応して窓の外を見る。 青い車体のEF63形電気機関車が、重連で駅に滑り込んでくるところだった。
「……うるさい音ね」
志織は、あえて意地悪く言ってみた。 普段の彼女なら、そう切り捨てていたはずだからだ。
しかし、あずさは怒らなかった。 むしろ、愛おしそうに目を細めた。
「ふふ、そうでしょ? 古いし、重いし、音もデカいんです」
「……」
「でもね、あの音を聞くと安心するんです。今日も無事に、誰かを運んできたんだなって」
あずさは箸を置き、真剣な眼差しで機関車を見つめた。
「新幹線みたいに速くもないし、スマートでもない。手はかかるし、夏は暑くて冬は寒い。……でも、あいつらは一生懸命なんです。泥だらけになって、歯を食いしばって、みんなの命を支えてる」
その言葉は、志織の胸にチクリと刺さった。 かつては「時代遅れ」と見下していた存在。 けれど、あの雪の日、彼女たちに助けられたことで、志織の中の価値観は大きく揺らいでいた。
「……そうね」
志織は、サングラスの下で目を伏せた。
「効率だけが全てではない……と、最近思うようになったわ」
「え?」
「泥臭くても、不器用でも……確実に誰かを目的地へ運んでいるなら、それは立派な『仕事』よ」
志織の言葉に、あずさが目を見開いた。
「! ……はい、その通りです!」
あずさは身を乗り出し、志織の手をガシッと握ろうとして――慌てて引っ込めた。 自分の手が、油汚れの落ち切っていない無骨な手であることを思い出したからだ。
「す、すみません! つい嬉しくて……! お姉さん、わかってますね! 鉄道のこと、詳しいんですか?」
「……い、いいえ。ただの……通りすがりよ」
志織は動揺して視線を逸らす。 あぶない。 つい、本音で語り合ってしまった。
でも、悪くない気分だった。 肩書きも、立場も関係なく、ただ「釜めし」と「鉄道への想い」だけで繋がる時間。 それは、常に「西園寺志織」という鎧を纏って生きてきた彼女にとって、初めて味わう解放感だった。
「ごちそうさまでした」
志織は釜めしを完食し、静かに箸を置いた。 小皿の漬物まで、きれいに平らげてある。
「えっ、もう行っちゃうんですか?」
あずさが名残惜しそうにする。
「ええ。……長居をしてしまったわ」
志織は伝票を手に立ち上がった。 これ以上ここにいたら、正体がバレるだけでなく、調子が狂ってしまいそうだ。
「あの! お姉さん!」
あずさが呼び止める。
「釜めし、美味しかったですか?」
志織は振り返り、サングラス越しにあずさを見た。 その顔は、屈託のない笑顔で輝いている。
志織は口元だけで、フッと微笑んだ。
「……ええ。悪くないわね。また、食べに来てもいいと思える味だったわ」
それだけ言い残すと、志織は颯爽とレジへ向かった。
◇
会計を済ませる時、優香が小声で囁いた。
「また来てくださいね、西園寺さん」
志織はギクリとしたが、優香はウィンクをして人差し指を口元に当てた。 『秘密にしておきますよ』という合図だ。
「……ふん。相変わらず、食えない店ね」
志織は苦笑し、多めの代金をトレーに置いた。
「お釣りはいらないわ。……サービスのお漬物代よ」
「ありがとうございます。お気をつけて」
志織は帽子を目深に被り直し、おぎのやを後にした。 背中で閉まるドアの音を聞きながら、彼女は大きく深呼吸をした。
秋晴れの空気が、いつもより少しだけ美味しく感じられた。
◇
「行っちゃった……」
あずさは、空になった向かいの席を見つめながら呟いた。
「なんか、すごく品のある綺麗な人だったなぁ。帽子とサングラスで顔はよく見えなかったけど」
あずさは、空になった釜めしの器を重ねながら、優香に話しかける。
「優香さん、あのお客さん、観光の人かな?」
優香は片付けをしながら、意味ありげに微笑んだ。
「さあ、どうだろうね。でも、あずさちゃんと気が合いそうな人だったよ」
「えー? そうかなぁ。私とは住む世界が違う感じだったけど……」
あずさは首を傾げたが、ふとテーブルの上を見て表情を緩めた。
「でも、あの人が食べてた釜めし、ご飯粒ひとつ残さず綺麗に完食してあった。……きっと、いい人に違いないよ!」
「ふふ、そうだね。……きっと、また会えるよ」
優香は、志織が座っていた椅子を丁寧に拭きながら、遠くへ去っていく「白きエリート」の背中に心の中でエールを送った。
あずさは最後まで気づかず、能天気に自分のお茶をすすっている。
「ん〜、お茶が美味い! ……さて、午後からは昼寝……じゃなくて、自己研鑽でもしますか!」
平和な横川の午後は、今日も穏やかに過ぎていく。 いつかまた、あの白い新幹線と、青い機関車が交差する日が来ることを予感させながら。




