仁義なき雪かき大作戦
この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。
朝、目が覚めると、世界が死んでいた。
いや、正確には「白く塗りつぶされていた」と言うべきか。
高崎機関区横川派出所の宿直室。 古びた木枠の窓ガラス越しに差し込んでくるはずの朝日はなく、代わりに薄青い、冷え冷えとした光だけが部屋を満たしている。
不自然なほどの静寂。 車の走行音も、鳥のさえずりも、そしていつものEF63のブロアー音さえもしない。
「……嫌な予感」
私――神尾あずさは、煎餅布団から這い出し、身震いしながら窓に近づいた。 カーテンを開ける。
「うわぁ……」
そこにあったのは、絶望的なまでの白銀の世界だった。 一晩で降り積もった雪は、優に腰の高さを超えている。 駅前のロータリーは完全に埋没し、どこが道路でどこが歩道なのか判別がつかない。 線路など論外だ。 レールは深い雪の下に沈黙し、架線柱だけが墓標のように等間隔で並んでいる。
「こりゃあ、ひどいな」
背後から、寝癖だらけの頭をした杉浦北斗先輩が顔を出した。 手にはマグカップを持っているが、中身のコーヒーからは湯気が立っていない。 どうやら、あまりの寒さに給湯器のご機嫌も斜めらしい。
「北斗先輩、これ……列車動きますか?」
「無理だな。本局から連絡があった。除雪が終わるまで、信越本線は全線見合わせだそうだ」
北斗先輩は、窓の外の雪景色を恨めしそうに睨んだ。
「国道18号も通行止めだ。完全に陸の孤島だな」
「そんな……」
昨夜からのドカ雪。 雪国である碓氷峠にとって雪は珍しくないが、ここまで一気に積もるのは十数年に一度の異常事態だ。
ガララッ……。
事務室の引き戸が、重苦しい音を立てて開いた。 入ってきたのは、分厚いどてらを着込み、ミノムシのようになった佐久間区長だった。
「おーい、誰か……ストーブの灯油を入れてくれぇ……」
区長はそのまま、部屋の中央にある炬燵――これは区長が私物として持ち込んだものだ――に頭からダイブした。
「区長、仕事は?」
「休みだ休み! 玄関の戸が開かんのだぞ? 外に出られない以上、ここはシェルターだ。私は春が来るまでここから動かん」
「冬眠しないでくださいよ」
私は呆れてため息をついた。 確かに、この状況では仕事にならない。 今日は臨時休業。 こたつで蜜柑でも食べながら、雪が止むのを待つしかないのか。
そう思って、私もこたつの端っこに潜り込もうとした、その時だった。
ジリリリリリリッ!!
静まり返った事務室に、黒電話のベルがけたたましく鳴り響いた。 指令直通電話ではない。一般回線だ。
「……誰だ、こんな時に」
区長が面倒くそうに受話器を取る。
「はい、横川派出所……。おお、優香ちゃんか」
優香ちゃん? おぎのやの?
区長の表情が、みるみるうちに真剣なものに変わっていく。
「なに? ……店が? ……雪で? ……ふむ、なるほど」
区長はチラリと私たちの方を見た。 そして、ニヤリと悪代官のような笑みを浮かべた。
「分かった。任せておきなさい。……我が精鋭部隊をすぐに派遣する」
ガチャン。
区長は受話器を置くと、ビシッと私たちを指差した。
「総員、出撃だ! おぎのや本店へ向かえ!」
「はぁ? なんでですか」
北斗先輩が嫌そうな顔をする。
「優香ちゃんからのSOSだ。雪の重みで店の軒先が埋まってしまい、このままだと営業どころか、仕込んだ釜めしの具材が搬入できなくてダメになってしまうそうだ」
「それは大変ですけど……俺たちが行く義理は……」
「報酬が出るぞ」
区長の一言に、北斗先輩の眉がピクリと動いた。
「この雪かきミッションを完遂した暁には、おぎのや特製……」
区長は溜めを作り、そして宣言した。
「鴨鍋焼きうどん・釜めし付きを、全員に振る舞うとのことだ!」
ガタッ!!
その瞬間、仮眠室のドアが勢いよく開き、黒石数馬先輩が飛び出してきた。 目は血走り、口元からは涎を垂らさんばかりの勢いだ。
「鴨鍋だとォォォッ!?」
「う、うどん……しかも、釜めし付き……!」
北斗先輩も、喉をゴクリと鳴らした。 冷え切った体に、熱々の鴨出汁のうどん。そして炊きたての釜めし。 想像しただけで、空腹の胃袋が悲鳴を上げる。
「行くぞ! 直ちに出撃だ!」
黒石先輩が叫ぶ。
「待て、作戦を立てる」
北斗先輩が冷静さを取り繕いつつ、その目は完全に「食い気」モードに入っていた。
こうして、私たちの「仁義なき雪かき大作戦」が幕を開けたのである。
◇
派出所の玄関を無理やりこじ開け、私たちは外へ出た。 冷気が刃物のように肌を刺す。
メンバーは、私、北斗先輩、黒石先輩。 そして、騒ぎを聞きつけて研修庫からやってきた南波義人さんの四名だ。
「うへぇ、こりゃすごいな」
南波さんが、腰まで埋まる雪に顔をしかめる。
「駅舎からおぎのや本店まで、約100メートル。……遠いな」
目的地である「おぎのや」本店は、駅前広場の向こう側にある。 普段なら走って10秒の距離だが、今は白い壁に阻まれた彼方だ。
「四の五の言ってられるか! 俺は鴨鍋を食うんだ!」
黒石先輩が、両手に持った巨大なスコップ――通称「ママさんダンプ」を構えた。
「力こそパワー! 俺の筋肉が火を吹くぜ!」
「待ちな、脳筋野郎」
南波さんが、黒石先輩の前に立ちはだかった。 その背中には、何やら怪しげな機械が背負われている。 掃除機のお化けのような、パイプとコードが絡み合った不気味な装置だ。
「南波さん、それは?」
私が尋ねると、南波さんはニヤリと笑った。
「フフフ……。こんなこともあろうかと開発しておいた、俺の最高傑作。名付けて**『携帯型融雪ジェット・南ちゃん1号』**だ!」
「……嫌な予感しかしない」
北斗先輩が呟く。
「人力でちまちまやってたら日が暮れるぜ? 文明の利器ってやつを見せてやるよ」
「はんッ! 機械頼みとは情けねえ。どっちが早く店にたどり着くか、勝負だ!」
黒石先輩が吠える。
こうして、なぜか雪かきは「人力チーム」対「科学チーム」の競争になってしまった。
チームA(東ルート):黒石数馬&神尾あずさ(人力)
「いいか神尾! お前は俺が掘った雪を脇へ退けるだけでいい! ついてこい!」
「は、はいッ!」
「スタート!」
審判役(?)の区長が、二階の窓から手を振ったのを合図に、戦いの火蓋が切って落とされた。
「うおおおおおおッ!!」
黒石先輩が吼える。 その動きは、人間離れしていた。 巨大なスノーダンプをまるで羽毛のように扱い、凄まじい勢いで雪をすくい上げては投げ、すくい上げては投げる。 背中から湯気が立ち上り、周囲の空気が熱気で揺らいで見えるほどだ。
「は、速い! 先輩、速すぎます!」
私はスコップを持って追いかけるが、黒石先輩が掘り進むスピードに全く追いつかない。 彼はまさに「ヒューマン・ラッセル車」。 雪の壁を筋肉という名のエンジンで粉砕し、道無き道を切り拓いていく。
チームB(西ルート):南波義人&杉浦北斗(科学)
「起動! 出力最大!」
南波さんがスイッチを入れると、背中の機械が『キュイイイイイン……!』という甲高いタービン音を上げた。
「これは、EF63の電動発電機のファンと、ポイント融雪用の灯油バーナーを組み合わせたハイブリッドマシンだ! くらえ、熱風地獄!」
ボオオオオオオオッ!!
南波さんがノズルを構えると、そこから轟音と共に猛烈な熱風が噴き出した。 目の前の雪山が、見る見るうちに溶けていく。
「すげぇ! 雪が一瞬で消えていくぞ!」
北斗先輩が感心して声を上げる。
「ふははは! 見ろ! 人がゴミのようだ! ……じゃなくて、雪が水のようだ!」
南波さんはトリガーハッピー状態で、熱風を乱射しながら進んでいく。 確かに速い。 黒石先輩の人力も凄まじいが、南波さんの科学力はそれを凌駕しているように見えた。
しかし。
「……なんか、視界悪くないか?」
北斗先輩が咳き込んだ。 雪が急激に蒸発したことで、周囲一帯が濃密な水蒸気に包まれ、ホワイトアウト状態になっていたのだ。
「前が見えねえぞ南波! おい、方向合ってるのか!?」
「ええい、細かいことは気にするな! 熱源探知で進めば……あ!痛っ!」
ゴチン! という鈍い音。 霧が晴れると、南波さんは駅前の「郵便ポスト」に激突してひっくり返っていた。
「バカかお前は!」
一方、人力チームも問題を抱えていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
黒石先輩のペースが落ちてきたのだ。 当然だ。 最初からフルノッチで飛ばしすぎたせいで、スタミナ切れを起こしかけている。
「先輩! ペース配分考えてくださいよ!」
「うるせぇ! ……筋肉は、裏切らねぇ……!」
先輩はガクガクと震える腕でスコップを振るうが、雪の重みは鉛のように増している。 水分を含んだ重たい雪。 それがスコップにへばりつき、体力を容赦なく削ぎ落としていく。
「くっ……負けてたまるか……鴨鍋が、俺を呼んでいる……!」
両チームとも、おぎのや本店の前まであと数十メートルというところで、膠着状態に陥っていた。
その時だった。
「キャーッ! なにこれー!」
お店の方から、悲鳴のような声が聞こえた。 霧の中から現れたのは、デッキブラシを手にした荻野優香さんだった。
「優香さん!?」
「ちょっと南波さん! お店の前を汚さないでよ!」
優香さんが指差した先を見て、私たちは絶句した。 南波さんの「南ちゃん1号」が不完全燃焼を起こしているのか、熱風と共に大量の黒い煤を撒き散らしていたのだ。 せっかくの白銀の世界が、まるで墨汁をぶちまけたように薄汚く汚れている。
「あ、いや、これは……カーボンによる融雪効果の促進を狙ったもので……」
「言い訳しない! あー、アスファルト溶けてるじゃない!」
南波さんの熱風が高温すぎて、雪の下の舗装がドロドロに溶けかけていた。 優香さんの怒りのオーラに、南波さんが縮こまる。
「黒石さんも! 雪を適当に投げないで! 入口が塞がっちゃうでしょ!」
「す、すまん……」
人力チームも、掘った雪の捨て場を考えずに積み上げたせいで、逆にお店の入口を雪の壁で封鎖してしまっていた。
「もう……あんたたちってば……」
優香さんが呆れてため息をついた、その瞬間。
ズズズズズズ……。
地面の底から響くような、重低音が聞こえてきた。 それは、南波さんのマシンの音でも、黒石先輩の荒い息遣いでもない。 もっと巨大で、圧倒的な、鉄の響き。
「……なんだ?」
北斗先輩が顔を上げる。 音は、線路の方角から近づいてくる。
「おい、まさか……」
私の脳裏に、ある車両の姿が浮かんだ。 この大雪。 そして、線路を守るための最終兵器。
『ピーーーーーーーッ!!』
鋭い汽笛が、横川の谷にこだました。 霧を切り裂いて現れたのは、朱色に塗られた巨大なディーゼル機関車だった。
DD53形ロータリー除雪機関車。
かつて「ザ・レッド・デビル」の異名をとった、国鉄最強の除雪車だ。 その先頭には、巨大な回転翼が装着され、猛獣のような唸りを上げて回転している。
「嘘……なんでDD53がここに!?」
私が叫ぶのと同時だった。
ゴオオオオオオオオッ!!
DD53のロータリーヘッドが、線路上の雪を粉砕し、吸い込み、そして煙突のような投雪口から空高く吹き上げた。 その放物線は美しく、そして残酷だった。
バサァァァァァァッ!!
「「「うわあああああああッ!!?」」」
DD53が吐き出した大量の雪塊が、私たちが必死に除雪した駅前広場に、そして私たち自身の頭上に、容赦なく降り注いだのだ。
「ちょ、ま、待てぇぇぇ!」
黒石先輩がスコップを振り回して抗議するが、機関車の轟音にかき消される。 DD53は、悠然と、そして淡々と仕事をこなし、駅構内の雪をすべて駅前広場へと「排雪」していった。
数分後。 DD53が汽笛を残して去っていった後には、再び雪に埋もれた広場と、雪だるまのようになった私たちだけが残された。
「…………」
全員、言葉がない。 一時間の苦労が、たった数秒で無に帰した。 圧倒的な「本物」の力の前に、南波さんの発明も、黒石先輩の筋肉も、赤子のようなものだった。
「……終わった」
北斗先輩が、雪の中から顔だけ出して呟いた。
「鴨鍋……さようなら……」
黒石先輩が膝から崩れ落ちる。
絶望的な空気が流れる中、優香さんの声が響いた。
「何やってんのよ! まだ終わってないわよ!」
優香さんは、雪まみれになりながらも、仁王立ちしていた。
「お店が開けられないと困るの! 具材もダメになっちゃうし、お腹を空かせたお客さんも待ってるの! ……お願い、力を貸して!」
その必死な声に、私たちはハッとした。 そうだ。 私たちは、ただ鴨鍋のために動いていたんじゃない。 (いや、8割くらいはそうだけど) 困っている優香さんを、そしてこの「横川の灯」を守るために立ち上がったんじゃなかったか。
「……へっ、違いねぇ」
黒石先輩が、雪を払いのけて立ち上がった。
「男が一度引き受けた仕事だ。途中で投げ出すわけにゃいかねぇな」
「南波、そのガラクタは捨てろ。スコップだ」
北斗先輩が、南波さんに予備のスコップを投げ渡す。
「ガラクタとはなんだ! ……まあいい、今回はアナログの信頼性を認めてやろう」
南波さんも、背中の機械を下ろしてスコップを握った。
「神尾、お前は雪の捨て場所を指示しろ。優香ちゃんたちは、仕上げを頼む」
北斗先輩が指揮を執る。
「はいッ!」
「行くぞ野郎ども! 第二ラウンドだ!」
「おうッ!!」
私たちは再び動き出した。 今度は、対立ではない。 全員が一列に並び、バケツリレーの要領で雪をかき出していく。
「1、2! 1、2!」
掛け声が重なる。 黒石先輩が大量の雪を掘り、北斗先輩がそれを崩し、南波さんが運び、私が整地する。 優香さんとおぎのやのスタッフさんも加わり、全員で雪の壁に挑む。
寒さはもう感じなかった。 体中から汗が吹き出し、白い息が空に昇っていく。
「見えた! 入口だ!」
誰かが叫んだ。 雪の向こうに、おぎのやの暖簾が見えた。
「あと少し! ……オラァッ!!」
黒石先輩の最後の一撃が、道を塞いでいた雪塊を突き崩した。
開通。 駅舎からお店まで、一本の道が繋がった瞬間だった。
「やったぁぁぁーー!!」
私たちは抱き合って喜んだ。 ハイタッチを交わし、互いの健闘を称え合う。 泥だらけならぬ、雪まみれの連帯感。
「みんな、ありがとう!」
優香さんが、満面の笑みで私たちを迎えてくれた。
「さあ、入って! 特製の鴨鍋、すぐに用意するから!」
◇
「うめぇぇぇぇッ!!」
おぎのやの店内に、男たちの野太い歓声が響いた。
土鍋の中でグツグツと煮えたぎる鴨鍋焼きうどん。 濃厚な出汁の香りが、冷え切った体に染み渡っていく。 そして、横にはホカホカの峠の釜めし。
「労働の後のメシは、どうしてこうも美味いんだ……」
黒石先輩が、涙目になりながらうどんを啜っている。
「やはり、エネルギー補給は重要だな。カロリー計算など無意味だ」
南波さんも、大盛りのご飯を頬張っている。
「まあ、たまにはこういうのも悪くないな」
北斗先輩も、満足げにお茶を飲んでいる。
私は、窓の外を見た。 綺麗に除雪された道を通って、少しずつお客さんが入ってきている。 その様子を見て、優香さんが忙しそうに、でも楽しそうに働いている。
(よかった)
私は心の中で呟き、熱々の椎茸を口に運んだ。
その時。
「……あれ?」
ふと、何かが足りないことに気がついた。
「そういえば……区長は?」
私の言葉に、全員の箸が止まる。
「「「あ」」」
顔を見合わせる一同。
そういえば、出撃命令を出した後、区長は事務室に残っていたはずだ。 そして、DD53が大量の雪を駅舎側に吹き飛ばした時……。
私たちは青ざめた。
◇
「……おーい……誰か……」
横川駅の事務室。 DD53によって精密に(?)雪封じされた玄関の向こう側で、佐久間区長の弱々しい声が響いていた。
「トイレ……行きたい……」
窓もドアも、厚さ2メートルの雪の壁に阻まれ、完全なる密室と化した事務室。 こたつというシェルターの中で、区長はただひたすらに、部下たちの帰還を待ち続けていた。
しかし、彼らが戻ってくるのは、鴨鍋をおかわりし、デザートの杏子アイスまで堪能した、さらに二時間後のことである。




