碓氷峠、買収危機
この作品は、「碓氷峠の見習い機関士 」の番外編です。
「……買収、ですか?」
私の声は、裏返っていたかもしれない。
高崎機関区横川派出所の乗務員事務室。 朝の朝礼の最中、佐久間清区長の口から飛び出した言葉は、あまりにも突飛で、そして現実味のないものだった。
「そうだ。本局からの通達だ」
佐久間区長は、苦虫を噛み潰したような顔で、一枚の書類をペラペラと振ってみせた。
「国鉄再建のための資産整理の一環として、採算性の低い路線の『民間譲渡』および『観光鉄道化』が検討されている。……その候補に、信越本線・横川~軽井沢間が挙がっている」
「馬鹿な!」
杉浦北斗先輩が、バン! と机を叩いて立ち上がった。
「ここは信越本線ですよ? 東京と長野、北陸を結ぶ大動脈だ。採算が低いって……確かに手間はかかりますけど、物流の要でしょう!」
「分かってる、分かってるよ北斗」
区長はなだめるように手を振った。
「だがな、お上の考えは違うらしい。新幹線が開業した今となっては、金食い虫の碓氷峠を維持するのは非効率だと判断したんだろう」
「金食い虫……」
私は唇を噛んだ。 EF63形電気機関車による協調運転。 特殊な運転技術。 膨大な維持費。 それは、私たちが誇りとする「安全へのコスト」だが、経営陣から見ればただの「赤字」でしかないのか。
「で、買い手は誰なんですか? どっかの私鉄ですか?」
黒石数馬先輩が、腕組みをして尋ねる。
区長は、言いにくそうに視線を泳がせた。
「それがな……日本の企業じゃないんだ」
「は?」
「アメリカの、ウィリアム・G・ゲートソン氏だ」
シン……と、事務室が静まり返った。
「ゲートソンって……あの?」
整備士の南波義人さんが、目を見開く。
「世界的なソフトウェアベンダー、ゲートソン社のCEO!? あの大富豪の!?」
「そうだ。彼は軽井沢に別荘を持っているんだが……実は、極度の『鉄道オタク』らしくてな」
区長はため息交じりに続けた。
「アメリカでは、廃線になった鉄道路線を丸ごと買い取って、自分専用の遊び場にしているらしい。自宅の庭には、本物の蒸気機関車を走らせているとか」
「規模が違いすぎる……」
私が呆然と呟くと、南波さんが急に色めき立った。
「すげぇ! つまり、世界のゲートソンが、この碓氷峠を『コレクション』にしたいってことか!?」
「そういうことだ。彼はこの66.7パーミルの急勾配と、アプト式の歴史に惚れ込んでいるらしい。『ワンダフル! これは世界遺産級のギミックだ!』と興奮しているそうだ」
「じゃ、じゃあ、俺たちはどうなるんですか?」
黒石先輩が身を乗り出す。
「リストラか? それとも……」
「条件は悪くないぞ」
区長がニヤリと笑った。
「ゲートソン氏は、現行のスタッフをそのまま『好待遇』で雇用したいと言っている。……提示された給料は、今の三倍だ」
「さ、三倍ッ!?」
黒石先輩と南波さんの声が重なった。
「しかもドル払いだ。ボーナスはストックオプション付きだそうだ」
「イエス! オフコース! ウェルカム・ミスター・ゲートソン!!」
黒石先輩が、ガッツポーズをして叫んだ。
「俺は今日からアメリカ人になるぜ! 筋肉もアメリカンサイズだ!」
「俺もだ! 潤沢な予算があれば、新しい工具も買い放題、ロクサンの改造もし放題じゃねえか!」
南波さんも目を輝かせている。
「ちょっと! 何言ってるんですか二人とも!」
私は激昂して食ってかかった。
「お金の問題じゃありません! 碓氷峠が、一個人の『おもちゃ』にされるんですよ!? 誇りはないんですか!」
「誇りで飯が食えるかよ、あずさちゃん」
黒石先輩が鼻を鳴らす。
「三倍だぞ、三倍。パチンコで勝つのとは訳が違う。確実な勝利だ」
「最低です……!」
私は北斗先輩を見た。 先輩なら、きっと反対してくれるはずだ。
「……北斗先輩」
しかし、北斗先輩は腕組みをしたまま、難しい顔で天井を見上げていた。
「……悪くない話、かもな」
「えっ……」
「国鉄にいれば、いずれこの区間は廃止される運命だ。……だが、金持ちの道楽でもなんでも、線路が残るなら、ロクサンが走り続けられるなら……それも一つの選択肢だ」
先輩の声には、諦めと、微かな希望が入り混じっていた。
「先輩まで……」
私はショックで膝から崩れ落ちそうになった。 みんな、どうかしている。 鉄道は、みんなのものだ。 地域の人たちの足であり、生活の一部だ。 それを、お金持ちの外国人が「コレクション」にするなんて、絶対に間違っている。
「……私は、認めません」
私は、拳を握りしめて宣言した。
「たとえ給料が10倍になっても、魂までは売りませんから!」
◇
数日後。 噂のウィリアム・G・ゲートソン氏が、極秘視察のために横川駅へやってきた。
黒塗りのハイヤーから降り立ったのは、仕立ての良いスーツを着たSPたちに囲まれた、ラフな格好の初老の男性だった。 Tシャツにジーンズ、頭には野球帽。 しかし、その首からは、家が一軒買えそうな値段の最高級ライカがぶら下がっている。
「Hi! ここがヨコカワか! アメイジング!」
ウィリアム氏は、駅に降り立つなり、子供のように目を輝かせて走り出した。
「おーい、ミスター! 危ないですよ!」
佐久間区長が慌てて追いかける。 ウィリアム氏は、ホームに停車していたEF63形24号機に抱きつかんばかりの勢いで駆け寄った。
「Oh……ビューティフル。この武骨なフォルム、たまらないネ!」
彼はロクサンの連結器や、ジャンパ栓の周りを這いつくばって撮影し始めた。 SPたちが困惑した顔で周囲を警戒している。
「ナイスだ。この錆具合、オイルの匂い……これぞ『Wabi-Sabi』デス!」
「分かります! 分かりますよミスター!」
南波さんが、英語も分からないのに意気投合して擦り寄っていく。
「こいつのブレーキ装置は芸術品なんですよ! 構造を見ますか?」
「Oh! イエス! ぜひ見たいデス!」
二人はマニアックな機械談義で盛り上がり始めた。 黒石先輩はといえば、SPたちに向かって自慢の筋肉を見せつけ、「アイ・アム・ストロング・エンジニア!」と謎のアピールをしている。
「……何なんですか、あれ」
私は、遠巻きにその光景を見ながらため息をついた。
「根っからの『鉄』だな。……悪い人じゃなさそうだ」
北斗先輩が苦笑する。
ひとしきりロクサンを堪能したウィリアム氏は、満足げな顔で私たちの方へ向き直った。
「さて。次は実際に乗ってみたいデス」
「あ、はい! 特別列車をご用意しております!」
区長が揉み手をして、臨時ダイヤで用意した「お座敷列車(VIP用)」の方へ案内しようとした。
「No」
しかし、ウィリアム氏は首を振った。
「私は、観光客として来たわけじゃありマセン。……この鉄道の『リアル』が見たいのデス」
彼は、3番線ホームに入線してきた、ごく普通の電車を指差した。
湘南色(オレンジと緑)の115系電車。 高崎からやってきた、3両編成の普通列車だ。
「あれに乗りマス」
「えっ? あれはただの鈍行ですよ? エアコンも効きが悪いし、座席も硬いボックスシートですが……」
「それがいいんデス! あのボックスシートこそ、ジャパニーズ・レイルウェイの原風景デス!」
ウィリアム氏は聞く耳を持たず、115系の方へと歩き出した。
「おい、北斗、神尾! お供しろ!」
区長に背中を押され、私と北斗先輩は慌ててウィリアム氏の後を追った。
◇
ガタン、ゴトン……。
列車は定刻通りに横川駅を発車した。 車内は、平日の昼間ということもあり、そこそこの乗車率だ。
ウィリアム氏は、SPたちをデッキに待機させ、自分一人でボックス席の窓際に陣取った。 私と北斗先輩は、その対面の席に座る。
「……本当に、こんなのでいいんですか?」
私が尋ねると、ウィリアム氏は窓の外の景色を眺めながら頷いた。
「これがいいんデス。……見てくだサイ」
彼の視線の先には、買い物袋を提げた主婦や、参考書を広げる学生、そして病院通いのお年寄りたちの姿があった。
「観光列車にはない、生活の匂いがシマス。……鉄道は、アトラクションである前に、ライフラインデース」
意外な言葉だった。 私は少しだけ、彼への警戒心を解いた。 ただのお金持ちの道楽かと思っていたけれど、彼は鉄道の本質を分かっているのかもしれない。
「……でも、だからこそ」
私は意を決して言った。
「ここを『観光地』にしてほしくないんです。ここは、みんなの足なんです。お金儲けの道具じゃありません」
「神尾、失礼だぞ」
北斗先輩が小声で諌めるが、ウィリアム氏は怒らなかった。 むしろ、興味深そうに私を見た。
「君は、この路線を愛しているんデスね」
「……はい。私の職場ですから」
その時だった。
「あら、外国人さんかねぇ?」
通路を挟んだ隣のボックス席から、声がかかった。 小柄で、腰の曲がったおばあちゃんだ。 大きな風呂敷包みを抱えている。 顔なじみの、行商のタネさんだ。
「あ、タネさん。こんにちは」
私が挨拶すると、タネさんはニコニコしながらウィリアム氏を見た。
「珍しいねぇ。観光かい? 軽井沢はいいところだよぉ」
SPが慌てて制止に入ろうとしたが、ウィリアム氏はそれを手で制した。
「コンニチハ。……イエス、観光デス」
「そうかい、そうかい。……これ、食いな」
タネさんは風呂敷を解くと、中から鮮やかなオレンジ色のみかんを取り出した。
「えっ?」
「長野の親戚から送ってきたんだ。甘いよぉ」
タネさんは、しわくちゃの手で、みかんをウィリアム氏に差し出した。 世界の富豪に対し、あまりにも素朴すぎるプレゼント。
「……オウ」
ウィリアム氏は、少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔で受け取った。
「アリガトウゴザイマス」
「あと、お茶も飲むかい? 今入れたばかりだよ」
タネさんは、魔法瓶の蓋にお茶を注ぎ、それも差し出した。
「タ、タネさん、それはさすがに……」
私が止めようとしたが、ウィリアム氏はそれも受け取った。 そして、ズズッと音を立ててお茶を啜り、みかんの皮を剥いて口に放り込んだ。
「……ン~! デリシャス!」
「だろぉ? 峠の水は美味いんだよ」
タネさんは嬉しそうに笑った。
「兄ちゃん、どこから来たんだい?」
「アメリカ……USAデス」
「アメリかぁ! 遠いねぇ! ペリーさんが来たところだねぇ」
トンチンカンな会話。 でも、そこには温かい空気が流れていた。
ガタゴトと揺れる車内。 古びたモーターの音。 窓の外には、碓氷峠の険しい緑。 そして、みかんの甘酸っぱい香り。
ウィリアム氏は、みかんを噛み締めながら、車内を見回した。 学校帰りの高校生が、単語帳を見ながら居眠りをしている。 お母さんが、ぐずる赤ん坊をあやしている。 そして、タネさんのようなお年寄りが、日向ぼっこをするように揺られている。
「……ここには」
ウィリアム氏が、ポツリと呟いた。
「ここには、私が失ってしまった『時間』がありマス」
「時間、ですか?」
「イエス。……私の会社は、1秒を争うスピードで動いていマス。効率、利益、革新。……でも、ここにあるのは、変わらない優しさデス」
彼は、タネさんに「サンキュー」と言って頭を下げた。
列車は、いくつものトンネルを抜け、急勾配を登り切り、軽井沢駅のホームへと滑り込んだ。
◇
軽井沢駅のホームに降り立つと、そこは高原の涼しい風が吹いていた。
ウィリアム氏は、乗ってきた115系電車を、名残惜しそうに見送った。 そして、迎えに来ていた佐久間区長たちの方へ向き直った。
「ミスター・ゲートソン! いかがでしたか、碓氷峠は!」
区長が期待に満ちた顔で尋ねる。 黒石先輩と南波さんも、ドル札の束を夢見てゴクリと喉を鳴らしている。
ウィリアム氏は、しばし沈黙した後、静かに口を開いた。
「……買収の話は、キャンセルしまショウ」
「えっ!?」
区長たちの顎が外れそうになった。
「な、なぜですか!? 気に入らなかったのですか!?」
「No。逆デス」
ウィリアム氏は、首を振った。
「気に入りすぎマシタ。……この路線は、私のコレクションにするには、あまりに『生きている』」
彼は、改札へと向かうタネさんの小さな背中を見つめた。
「ここは、アトラクションではない。……彼らの『生活』そのものデス。私が金で奪ってはいけないものデス」
その言葉に、私は胸が熱くなった。 分かってくれたんだ。 この人は、ただの道楽オタクじゃなかった。鉄道が持つ「温もり」を知っている人だったんだ。
「あずさサン」
ウィリアム氏が、私を見た。
「君の言う通りデシタ。……ここは、お金儲けの道具じゃありマセン」
「……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
「ガーン……俺の3倍の給料が……」 「俺の最新工具が……」
黒石先輩と南波さんが崩れ落ちる音が聞こえたが、今は無視だ。
「ですが」
ウィリアム氏が、人差し指を立てた。
「タダで引き下がるのは、私のビジネス流儀に反シマス。……この素晴らしい峠と、温かい人々のために、私からプレゼントを贈りマショウ」
「プレゼント?」
「イエス。地元の人たちが、もっと快適に、もっと楽しく峠を越えられるような……スペシャルな車両を寄贈しマス!」
ウィリアム氏はニカっと笑い、指をパチンと鳴らした。
「楽しみにしていてくだサイ! 日本の文化をリスペクトした、最高の車両を届けマス!」
◇
それから三ヶ月後。 横川駅の側線に、ピカピカに塗装し直された115系電車が到着した。
「おおっ! 来たぞ! ゲートソン社長からのプレゼントだ!」
佐久間区長が色めき立つ。 一見すると、普通の湘南色の電車だ。 だが、中身はとんでもないことになっていた。
「な、なんだこれは……」
車内に足を踏み入れた北斗先輩が、絶句した。
そこにあったのは、もはや電車ではなかった。 床には、青々とした琉球畳が敷き詰められている。 壁には、富嶽三十六景の浮世絵が描かれ、天井からは和紙の行灯がぶら下がっている。 そして極めつけは――。
「こ、こたつ……?」
そう。 すべてのボックス席が撤去され、代わりにこたつが設置されていたのだ。 しかも、こたつの上には、カゴに盛られたみかんと、急須セットまで完備されている。
「すげぇ! 走る料亭だ!」
南波さんが歓声を上げた。
「これなら、おばあちゃんたちも靴を脱いでくつろげるデス! ……という社長からのメッセージ付きだ」
区長が手紙を読み上げる。 なんて粋な計らいだろう。 あの時の、タネさんとの思い出を、こんな形で形にしてくれるなんて。
「よし! さっそくお披露目運転だ!」
区長の号令で、新型115系は、地元の常連客たちを乗せて出発することになった。
「まあ、豪勢だねぇ」 「こたつ電車かい? 温かいねぇ」
タネさんをはじめとするおばあちゃんたちは大喜びだ。 みんな靴を脱いでこたつに入り、みかんを食べながら談笑を始めた。 車内は、まさにお正月の茶の間のような、ほのぼのとした空気に包まれた。
「いいですね、これ。……最高です」
私も、乗務員室からその光景を見て、ほっこりとした気持ちになった。 北斗先輩も、まんざらでもなさそうに笑っている。
「出発進行!」
北斗先輩がノッチを入れる。 後ろからEF63が押し上げ、列車はゆっくりと横川駅を後にした。
平和な旅になるはずだった。 あの、「魔の勾配」に差し掛かるまでは。
◇
列車は、峠の入り口へと差し掛かった。 ここから先は、66.7パーミルの急勾配だ。 車体が、ググッと上を向く。
その瞬間。
ズズズズズ……。
「……ん?」
客室の方から、奇妙な音が聞こえてきた。 私が振り返ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「あ、あれぇぇぇ!?」 「流されるぅぅぅ!!」
畳の上に乗っていた座布団が。 みかんのカゴが。 急須が。 そして、こたつに入っていたおばあちゃんたちが。
摩擦の少ない新しい畳の上を、重力に従って、車両の後ろ側へとズルズル滑り落ちていくではないか!
「きゃああああ!」 「止まらないよぉぉぉ!」
66.7パーミル。 それは、平らな床に置いた缶ジュースが勝手に転がり落ちるほどの坂道だ。 ましてや、固定されていない座布団やこたつなど、ひとたまりもない。
慣性の法則により、滑り出した「こたつ軍団」は止まらない。
ドガガガガッ!!
車両の最後尾、連結面のドア付近で、座布団とこたつ、そしておばあちゃんたちが、「テトリス」のように積み重なってしまった。
「いたたた……」 「みかんが潰れちゃったよぉ……」
車内は、みかんの汁と茶葉まみれの大惨事となっていた。
「……あちゃー」
私は顔を覆った。 ゲートソン社長は、日本の「ワビサビ」は理解していても、碓氷峠の「物理法則」までは計算に入れていなかったらしい。
◇
結局。 その豪華お座敷列車は、「勾配区間走行禁止」というレッテルを貼られ、碓氷峠を越えることは二度となかった。
現在は、横川駅の留置線に固定され、観光客や地元の人たちの「待合室兼休憩所」として余生を送っている。
「やれやれ。……やっぱり、この峠は一筋縄じゃいきませんね」
後片付けをしながら、私がぼやくと、北斗先輩が潰れたみかんを拾い上げながら笑った。
「ああ。これぞ、カネじゃ買えない『重力』の洗礼ってやつだ」
窓の外では、今日も115系の普通列車が、硬いボックスシートに乗客を乗せて、ガタゴトと峠を登っていく。 不便で、揺れて、座り心地は良くないけれど。 滑り落ちる心配のないそのシートこそが、この峠には一番似合っているのだと、私たちは改めて思い知ったのだった。
「……ま、みかんは美味いな」
先輩が、無事だったみかんを一房、私の口に放り込んだ。 甘酸っぱい味が、口いっぱいに広がった。




