第十三話 泉
森の奥深く、旅の疲れを癒す場所を探していたサーシャは、木々の間からちらりと水面が覗くのを見つけた。
枝葉をかき分けて進むと、そこには小さな泉が広がっていた。
だが、期待していた清らかな水ではなかった。
水面は濁り、黒ずんだ藻が浮かび、腐った葉が沈んでいた。
周囲の空気も湿り気を帯び、どこか重苦しい。
「……ここも、汚れてしまっているのね」
サーシャは膝をつき、泉の縁に手を添えた。
かつてこの泉は、村人たちが水を汲みに来るほど澄んでいたという。
だが、近年の異常気象や魔力の乱れで、森の命の源である泉も蝕まれてしまったらしい。
もふもふが彼女の肩からひょいと降り、泉の縁に近づいた。
白くふわふわの体が、濁った水面に映る。
「落ちないように気を付けてね」
サーシャはその背中を見つめながら、静かに祈りの言葉を口にした。
「どうか……この泉に、再び命の光を」
もふもふは泉に向かって前足を伸ばした。
その爪先が水面に触れると、淡い光がじんわりと広がり始めた。
最初は小さな波紋だったが、やがて泉全体に広がり、濁った水が少しずつ澄んでいく。
サーシャは息を呑んだ。
光はもふもふの体から発されている。
白い毛並みが淡く輝き、泉の水を包み込むように揺らめいていた。
腐った藻が沈み、濁りが消え、底に沈んでいた石が見えるほどに水は透明になっていく。
「……もしかして、あなたが?」
もふもふは振り返り、サーシャに小さく鳴いて応えた。
その瞳は澄み切っていて、まるで「大丈夫」と言っているようだった。
泉の周囲に咲いていなかった花が、次々と芽吹き始めた。
黄色い小花、白い野草、紫のつぼみ――まるで泉の浄化に呼応するかのように、命が蘇っていく。
風が優しく吹き、木々がざわめいた。森が息を吹き返したようだった。
サーシャは泉の縁に手を添えたまま、涙を流した。
王妃を癒せなかった日、騎士団に責められた日、農村で罵倒された日、そして令嬢たちに嘲笑された日―
―そのすべてが胸に重くのしかかっていた。
自分は偽物なのではないか。
神に選ばれたのは間違いだったのではないか。
そう思い続けていた。
だが、今目の前で起こっているこの奇跡は、誰が何と言おうと確かなものだった。
もふもふの力が、彼女の祈りと共鳴し、泉を浄化したのだ。
「ありがとう……あなたがいてくれるから、私はまだ祈れる」
もふもふはサーシャの膝に乗り、顔を埋めた。
その温もりは、冷たい言葉の嵐から彼女を守る盾のようだった。
泉の水は完全に澄み切り、空の青を映していた。
サーシャは水をすくい、口に含んだ。
冷たく、柔らかく、体の奥に染み渡るような感覚。
まるで森そのものが彼女を癒してくれているようだった。
「この泉を、また誰かが使えるように……」
彼女は立ち上がり、泉の周囲に石を並べ始めた。
水を汲みに来る者が安全に使えるように。
花が咲く場所に踏み入れないように。
もふもふはその傍で尻尾を揺らしながら、彼女の作業を見守っていた。
夕暮れが近づくと、泉の水面が金色に染まった。
サーシャはもふもふと並んで座り、空を見上げた。
雲がゆっくりと流れ、鳥が遠くで鳴いていた。
森は静かで、優しく、彼女の心を包み込んでいた。
「偽物だと言われても……私は祈りを続ける。この泉のように、誰かの心を少しでも澄ませることができ
るなら」
その言葉は風に乗り、森の奥へと溶けていった。
もふもふは彼女の手に顔を寄せ、静かに鳴いた。
サーシャは微笑み、もふもふの頭を撫でた。




