40『みえない戦い』
「言うじゃない」
背後から聞こえていた蘇芳の声が、徐々にフェードアウトしていった。恐らく能力を使って霧に紛れたのだろう。気配は一向に消えることはなく、梅雨時の湿気を思わせる嫌な感覚が肌に伝わってきた。
感覚はすでに鋭敏になってきている。両目、そして切り取られた利き腕からじんわりと痛みが戻りかけていた。そう時間はない。長引けば長引くほど、苦痛という重石がさらに伸し掛かるからだ。回復が早いか、薬が切れるのが早いか。こればかりは、運試しというものだろう。
「なずな、信じるぞ」
この戦いは、なずなの協力なしには勝つことはできない。彼女の一言一句に注意して、ラグを極力少なくした状態で戦わなければならないんだ。そこに求められるのは、並外れた意思疎通だ。邪魔なことを考えている必要はない。僕の行動、思考、すべてをなずなが担保してくれる。
なずなの能力、体感時間を遅延することのできる能力があれば、蘇芳が姿を現したときに彼女の攻撃よりも早く指示を出すことができるはずだ。だから、問題はその指示に僕がきちんと動けるかどうか。
邪魔な思考はもう止めた。
お前を信じて、僕は、完全に意識をシャットダウンしよう。
「海斗、右だ!」
からだを右に反らす。その発言にあった、《右に避けろ》か《右から攻撃が来るぞ》かどうかなんて、思考している余裕はない。直感的に、ただ彼女が言った通り、そのニュアンスすべてを意識して動く。
「なっ――」
「――らぁっ!」
刃物同士が拮抗する音がした。音の位置はちょうど僕の左。そう思考したときにはすでに、残された左腕を《蘇芳》のいる場所に向けて放っていた。
「ちょっと、冗談でしょう?」
しかし拳は空を切る。だが、拳にべったりと張り付いた霧の多さから寸でのところまで接近できたことはわかった。あと、少しだ。
もう少しだけ早くなれれば、蘇芳に一撃を加えられる!
「海斗、もっと早く! 次は二歩後ろへ、そのまま右に拳を!」
二歩後ろへ、右に拳を。
「くっ――どうして、あんたたち」
頬を刀が掠める。それでも僕の拳は止まらない。どうやら、なずなも僕と同意見らしい。安心した。彼女と僕は今、融け合っていると自覚できた。早く動きたい、その願いは僕だけのものじゃない。願いの発端がどちらからかはすでにわからない。でも、結果的に僕らは同じことを考えた。
そこに言葉なんていらない。
僕らは伊達にライバルとして、三ヶ月を共に過ごしてきたわけじゃない。
「大きめ三歩前へ、左!」
指示が徐々に解体されていく。言葉が体型を失い、新たな記号として生まれ落ちる。それは僕となずなだけに通じる秘密のコード。さらに僕たちは早くなる。まるで、なずなの能力が僕にも芽生えたようだった。
「くっ――なずな、あんただけは、絶対に許すわけにはいかないのよ!」
蘇芳の怒号が耳に入る。まだ拳は当たらない。彼女の能力は、メリットデメリットがはっきりと裏表になっているんだ。攻撃するときは、姿を現さなければならない。姿を消している間は、攻撃することはできない。
だから妹の、なずなの能力は蘇芳にとって鬼門なのだろう。
精神を破壊させることができなかった時点で、彼女に勝ち目はない。
「二歩前、左!」
二歩前に進み、左に向けて拳を突き出した。
「がっ――」
……っ! 触れた!
ようやく、蘇芳の速度に追いつくことができたんだ。
それでもまだ掠った程度だ。手応えはあまりない。
けれど、蘇芳の肉体は確かに実体化し、驚きと衝撃のために今も消えることなく残っているとわかった。その事実を、僕よりもなずなははっきりと目で見て理解しているはずだ。
だから、これで終わり。
なずなのナイフが、この復讐劇に幕を下ろす。
「うあああああああああ!」
なずなの声は、僕のすぐ正面から聞こえてきた。きっと今、蘇芳を挟んで僕らは対峙しているのだろう。そんな状況で、なずなは躊躇いなくナイフを突き刺した。蘇芳が消えて、僕に直撃するリスクを鑑みずに。
でも、それでいい。
僕はどうせ死なないんだ。なにより今は、勝つことが先なんだから――
「ふっ――!」
あと少し、そのときだ。
水が一気に蒸発するような音が鳴り響いた。
直後、頬に急激な量の霧が噴きかかった。蘇芳はまたしても消えたのだ。間一髪で、あの女は霧に隠れて逃げやがったんだ。
ああ、あと少し早ければ、僕らの勝利だったのに……そうして因果は当然のように駆動し、なずなのナイフは僕へと刺さる――はずだった。
「ちょっ、きゃあっ!」
痛みよりも、聞こえてきた乙女ちっくな悲鳴に驚いてしまった。どういうことだろうか。すっかり薬の効果は切れかけていたのに、癒えたばかりの傷口以外に新たな痛みを感じることはなかった。
なずなの突き刺そうとしたナイフは、僕に刺さっていない。
ただ、勢いを殺し損ねて慣性の法則に任せて僕のからだを巻き込み、二人して廊下に転がってしまったときに受けた、そのじんわりとした痛みだけが温く響いているだけだ。なんとか上体を起こして、僕の太ももに寝転がってからだを預けているなずなに言った。
「お、おいなずな! 今の、思い切りやれば当たっていたのに……お前、セーブしただろ!?」
ということはつまり、なずなは僕に当たることを恐れて力を抑えていたのだろう。じゃなければ、あの近距離で放った一撃が外れた際に僕へと直撃しないのはどう考えてもおかしい。
本気を出せば、蘇芳を倒せたかも知れなかったのに。
「う、うるさいなぁ。ほら、見ろよ、霧もすっかり消えちまった」
「ん……ほんとだ」
なずなの言う通り、今まで僕らの周囲に漂っていた大量の霧は消滅していた。肌にまとわりつく湿っぽさが感じられない。恐らく、蘇芳は一時的に撤退をしたのだろう。あの避難で、僕に打撃を、そして僕を攻撃してしまったことへのなずなの精神的外傷を打算してのことかもしれない。
しかし僕の予想が正しくとも、蘇芳の考えは外れていた。
なずなの攻撃は、どうあがいても僕には当たらなかったのだ。
「でも、どうして。あそこで本気を出してたら、もしかしたら」
「もしかしたら、倒せてたかもしれない。でも同時に、お前に直撃するリスクも伴っていた」
そう言って、なずなの体重が太ももから離れていく。しかしまたすぐに、彼女は僕の首に両手を回してからだを委ねてきた。柔らかい部分が、胸にあたって……目が見えない分、なんだかいっそう動揺してしまう。
「す、すまん……能力の、使い過ぎだ」
「わ、わかってるよ。別に、なずななら、平気だし」
そう自分に言い聞かせたつもりが、どうやらなずなは不服に思ったらしい。からだを預けているくせに、耳を思いっ切り引っ張ってきやがった。
「それはあたしは女として見られないってことか? あん?」
「い、いやだって、なずなはほら、美鈴さんのことが好きなわけだし……」
「永遠に実ることない恋だけどな」
そうとも言えない、と口にてしまってから、自分の発言の重さに気づく。
「お前が言うか、それを」
「仰るとおりで……」
美鈴さんの恋心が、なずなに向かないようにしたのは他ならぬ僕かもしれない。もうわからないけれど、一時的には、美鈴さんは僕のことを好いていてくれたんだ。だからなずなの恋の成就をかっさらったのは、僕なわけで。
「あーあ。これを機にあたしも異性を愛するかなあ」
「……え?」
なんだろう。その発言を聞いて、無性に不安になる。
今までなずなは決して他の男性に恋心を抱かないものだと信じていた。それがこうも容易く心変わりしてしまうのか。そして今、僕はいったい何に対して苛ついているのだろうか。
彼女が、他の男性のことを好きになることへの、嫉妬?
「ま、まさかぁ」
「なんだよ、あたしが他の男を好きになったら嫌か?」
「ぐっ」
咄嗟に答えることができなかった。身勝手なのはわかっている。けれど、なずなとこうして安定した関係を築けていたのは、なずなが美鈴さんのことを思っているという根本的な安心感があったからで、それが他の男に向くとなると、僕は今まで通りなずなと接することはできなくなる。
そう考えると、僕は、嫌だった。
「この戦いが終わったらさ、あたしの話、聞いてくれよ。そして、思いっ切りあたしを罵倒して欲しい……って、さっきも言ったけど。それで見捨てられれば、あたしは吹っ切れることができるからさ」
それをなずなは贖罪と言った。友人である僕に捨てられるという出来事こそが、彼女にとっての罰なんだそうだ。自惚れているわけではないけれど、僕が彼女にとってそこまで重要な存在であったことに、今更ながら気付かされる。
でも、その贖罪はきっと叶わない。
僕は彼女の話を聞くより早く、この世界から消えてしまうから。
「……うん」
でも、言うしかないだろう。
なずなを安心させてやるために――今度は、彼女に嘘を付く。
「なあ海斗、お前さ、美鈴ともう、キスしたか?」
「ぶっ――」
そんな僕の悩みを打ち砕くように、なずなはあっけらかんと爆弾を落としてきた。
「してねえよ!」
「そうか、なら、ごめんな美鈴」
そして何かが――柔らかい、そして温かい、濡れた何かが、僕の唇にちょっとだけ触れた。
「なずな、お前、いま」
「キス、したと思うか?」
僕は愚直に、ゆっくりと頷いた。すると彼女は大きく笑い出し、僕の頭を激しく何度も叩いてきた。
「バーカ! するわけねえだろ! 指だよ指! 騙されてやんの!」
「なっ……お前、いい加減にしろよ!」
なんだよ、それ、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか!
確かに僕は今、視力を奪われたままでなにも見ることはできない。だからさっき僕の唇に触れたものがなずなの唇であったことなんて確認することは当然できなかった。騙された――そう、あれは指だったんだ。
「はー……おかしい! よし、回復したし、そろそろ行くか」
そう言って、なずなは僕から離れていった。それでも、案内をしてくれると言わんばかりに僕の手は握ったままだ。引き起こされるように、また僕も立ち上がった。まずはユーリカにここで待機するよう告げてから、とっとと二人で校内を探索し敵を無力化する必要があるだろう。
「ああ、とっとと終わらせよう」
僕はなずなに手を引かれ、後ろを歩いて行く。
……なあ、なずな。
お前、わかってるか? 僕はさっき唇に触れたものが、お前の唇であったと確認できないのと同様に、指であったってことも確認できないんだよ。
だから、この思い出は心のなかに閉まっておこう。
誰にも言わず、自分だけの宝物として覚えておこう――初めて、キスした《かもしれない》女の子のことを。




