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断章2『戦争の終わり』

 キリガクレ――蘇芳が【キラー】のいる三階で実体化をしたとき、彼女の腹部には浅い切り傷があった。間に合わなかった、私は彼らの速度に完全に敗北していたのだ。確かに、あの時点で自らを消したのは明確な目的があった。避けれれば、なずなの突き出したナイフは間違いなく海斗に当たっていた。今ごろ、なずなは敬愛する男にナイフを突き立てた自責の念から今度こそ再起不能になっていることだろう。確かに彼女はそこまでの予想を立てて霧に姿を消した。しかし、逃げる必要はあったのだろうか。


 どうして、私は逃げたのか。


 なずなの精神にダメージを与えられれば、戦い続けることができたはずだ。勝機だって見えただろう。にも関わらず、逃げてしまった。気づけば自分の肉体は彼らから遠く離れた三階の会議室で実体化されていて、腹部には浅いが確かな切り傷があった。白い服が血で赤く染まっている。


 蘇芳は、乱暴に服を脱ぎ、下着を露わにしながら壁にもたれかかった。


「なんで……どうして、あいつ」


 敵がなずな一人だったら倒せていたはずだ。蘇芳の視線は、手の中に握りしめられている不死身の男の眼球を見下ろしていた。


「あいつが、いなければ」


「あいつって?」


 突如部屋の中から聞こえてきた声に驚いた蘇芳は、誰も居ないと思って服を脱いだことを後悔した。下着姿のまま、両手で胸を隠す姿がみっともないことを自覚していた。この声は、間違いない【キラー】だ。


「いたら先に言いなさいよ、変態」


「心外ですね」


 【キラー】は蘇芳からは死角になっていたソファから起き上がると、気だるげに腕を垂らして彼女を見た。髪は相変わらずのボサボサで、かけている銀縁の眼鏡は不格好にも程がある。校章を剥がしたと思われる所属不明の学ランは、数多の血を吸ってところどころ染みを作っていた。


「僕だって、できることならこういう破廉恥なことはしたくないというスタンスを気取っていますよ。でも、恐らく【キリガクレ】さんの下着姿は物語におけるサービスシーンとして機能しているはずで、視聴者としてはなくてはならない重大な要素のひとつでもあります」


 不可解なことを話し出す【キラー】に、蘇芳は目眩を覚えた。いつもいつも、飄々としていて掴みどころがない。今回の作戦だって、彼だけは特例で自由行動が許されているのだ。にも関わらずこのだらけようはどういうことだろうか。戦う気が、まるではなから無いとしか思えない。


「あなた、いつ動くのよ」


「さあ……ラスボスとして、できるなら出たいかな」


 まただ。蘇芳は大きくため息をついた。胸を隠す気も失せ、両手をだらんと下ろして地べたに座り込んだ。腹部の怪我は、放っておけば治るだろう。それよりも彼女にとっての問題は、妹によって付けられた傷が二つに増えてしまったというその事実だけだった。


「むしろあなたこそ、なぜ戻ってきたんですか?」


 蘇芳にとって、一番訊かれたくないことを【キラー】は平素と変わらぬ調子で訊ねた。なんでもないと一蹴してしまいたいが、そんな誤魔化しすら彼女のプライドは許せなかったのだ。握っていた海斗の眼球を【キラー】の座っているソファに向けて投げてから、言った。


「手強い相手がいるのよ。朝桐海斗、とか言ってた。死なない能力を持っているらしくて――」


 蘇芳がそうぼやいた瞬間、部屋の空気がいきなり重くなった。

 なにが起きたのか。彼女に理解できるのは、この重圧を放っているのが目の前にいる奇妙な男以外には存在しないということだけだった。


「死なない能力?」


「……知っているの?」


「いえ、さきほど【メガホン】から通信が入りまして、どうやら先の校庭への一斉転移できる隙を作ったのは、その不死身の彼らしいです」


 まさか。蘇芳もなぜ彼らが転移をすることができたのか疑問に思っていた。転移能力なんて、突撃するにはあまりにラグがありすぎる。転移後の時空の歪み、それを原因とした肉体の遅延は殺してくださいと主張しているようなものだ。


 ゆえに、なんらかの方法で隙を作らないことには転移なんてできるはずがない。その隙を、不死身の能力者である彼が作り出したと言うのか。

 しかも、一人で?


「まさか、そんな」


「あなたが逃げ帰ってくるんですから、相当な実力者なんでしょうね。それにしても、不死身の能力、ですか……所属は?」


「《山猫の集い》なんだから、猫山学園でしょ」


「猫山学園に朝桐海斗という名前の生徒は在籍していません」


「どうして言い切れるのよ」


「【メガホン】から在校生のリストを事前に渡されたでしょう。完全に暗記しているというわけではありませんが、朝桐、という苗字がそもそもいなかったことだけは覚えています。見覚えも、聞き覚えもない」


 だとすると外部からの《留学生》だろうか。蘇芳は別のコミュニティから別のコミュニティに移動した者たちをそう呼んでいた。そこでふと、彼が着ていた制服を思い出す。そうだ、あれは確か。


「……この学校の、制服を着てた」


「は?」


 【キラー】が、珍しく素っ頓狂な声を上げる。蘇芳もまた、自分の発言があまりに荒唐無稽なものだとすぐに自覚した。なにしろこの学校の周囲はウィルスの含有量があまりにも多く、僅かな猶予すらなく在校生はほぼすべて死滅したと言われているのだから。


「たぶん、見間違えか、この学校から制服だけを持っていったかのどちらかね。さすがにありえない話だったわ」


「いえ……そう言えば、昔、僕が所属していたコミュニティの人たちがこの学校に忍び込んだ際、誰かに大怪我を負わされて帰ってきたことがありました。そのとき、彼らは敵のことを薬も効かない《不死身の男》と呼んでいました。恐らくその彼であることは間違いなさそうですが、だとすると彼はなぜこの学校にわざわざ来ていたんだ……?」


 そう言ってから、【キラー】は深い思考の海へと身を投げ出してしまった。こうなると彼はなにも話を聞かないだろう。たった数日の付き合いでも、蘇芳はわかりやすい彼の性格を熟知していた。


 そんなとき、蘇芳の耳に【メガホン】の声が聞こえてきた。


『……我々の敗北だ』


 いつもの居丈高な調子とは違う、やけに沈んだ声だった。


「は、はあ!? どういうことよ!」


 【メガホン】の通信は一方的で、蘇芳の声は届かない。ただ彼の低くどもった声が指向性を持って彼女の耳に入るだけだった。


『すでに校庭は占拠されかけている。防戦一方だ。このまま戦っても勝ち目はないだろう。人数でも、装備でも敵わない。無駄な死を減らすために、我々は今すぐ撤退する必要がある』


「ちょっと! いい加減にして、私はまだ――」


『総員、退避せよ。これは命令だ』


 そう言って、【メガホン】の声は途絶えた。窓まで駆けつけて眼下を見下ろすと、そこには圧倒的な戦力差が見えていた。撤退する蘇芳たちの味方と、勝鬨かちどきを上げる《山猫の集い》の戦闘員たち。もうすぐこの部屋も占領されるだろう。蘇芳は悔しさに唇を噛み締めた。


「くそっ……なんで、こんな早く」


「あっ」


 場違いなまでに明るい声が、部屋に響く。


「【キラー】! あんた、さっきの聞いてたの!? もう負け、私たちの負けよ! あなたがそうやって何もせずに怠けているうちに、戦いは終わっちゃったのよ!?」


 蘇芳の叫び声も、満面の笑みを浮かべる【キラー】には届かない。


「そうか……わかった。彼が、きっと鍵なんだ」


「意味わからないこと言ってないで、早く逃げる準備を――」


 そんな蘇芳の叫びは、最後まで言い終えることなく途切れることになった。信じられない足捌きで、瞬く間に蘇芳の眼前に立ちはだかった【キラー】に驚いた彼女は、口をつぐんで一歩後退しようとした。


 しかし何かに足を滑らせて転んでしまったのだ。それが自分の血だと知ったときには、すでに彼女の意識は彼方へと飛んでいた。


 倒れた蘇芳の腹部から伸びる、一本の腸。【キラー】の握りしめるそれは、彼の口へと運ばれていった。水音と咀嚼音、繊維が千切れる音、さながらゾンビの食事風景を彷彿とさせるその光景を、見る者は誰もいない。


「体力を付けなくちゃいけないんです。だからごめんなさい。いただきます」


 教室の扉が開き、食事中だった【キラー】は振り返る。

 口元から血を滴らせながら振り向いた先にいたのは、ついぞ出会えた念願の男だった。【キラー】は、不気味に顔を歪ませる。


「レディース・アンド・ジェントルメン。幕が上がる」


 彼にしか聞こえないその呟きは、荒々しい咀嚼音と闖入者の悲鳴によってかき消された。

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