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39『贖罪』

 蘇芳の話に、なずなの反応はない。鼻水をすする音と彼女の泣き声だけが廊下に響いていて、否定する素振りは見えなかった。


「ごめん、なさい」


 なずなが、ぽつりと一言だけ、呟いた。


「ごめん? ごめんで済むくらい、安いのね、私の仲間の命は」


 蘇芳の責めるような発言に、再びなずなは黙り込んでしまった。

 いつもどこか、彼女には陰があった。だけど、美鈴さんのことを好きだとか、そういう意味でライバルであったなずなに対し、僕はあまり本気で接しようとはしなかった。そもそも、彼女に対して優しくしてしまうことはつまり、僕の勝手な妄想に取り込んでしまうことを意味するからだ。


 彼女をヒロインに据えることは嫌だった。

 美鈴さんですら、僕がいなければきっともっと平和で、幸せな暮らしを送れたかもしれないのに、妄想に付き合わせてしまったせいで彼女は今もヒロインとして僕の妄想に苦しんでいる。


 なずなは、そうしないと誓った。

 だからお前には、僕の嘘を告白することは最後までなかった。


「ねえ、海斗君? あなたはそれでも彼女の味方をするの?」


 きっとこれは、選択肢なんだ。

 久しく見なかったあのイメージが、視えない目の前に浮かび上がる。暗闇の中で、煌々と輝く二つのネオンが、僕に選ぶことを強いる。


《なずなを信じる》

《なずなを裏切る》


 どうすればいい? 僕は、どっちを選択すればいい?

 ここで彼女を受け渡し、事情を説明すれば蘇芳は納得してくれるだろう。僕の視力を返した上で、見逃してくれるはずだ。あとはユーリカを連れて、屋上まで走り抜ければいい。そうすれば、すべてが終わる。


 それでいいじゃないか。

 耳元で誰かが囁く。


「僕は」


 お前のやることはただ一つ、ユーリカと一緒にもとの世界に帰ることだ。美鈴はお前に幻滅しているよ。悠弥だって、心の中では早く帰れって思ってるさ。なずなだって、事情を知らないからお前に縋り付いているだけだ。


 だから、ほら、決まってるだろ。

 お前はもうこの世界に何一つ、残すものはないんだから。


「……海斗」


「なずな?」


 蘇芳の舌打ちと、なずなの囁き。


「あたしは、自分がやったことを、否定しない。でも、あのときは、おかしかったんだ……許されるなんて思ってない。おかしかったなんて一言で片付けられるとも思ってない。だけど、あたしは」


 あたしは?

 そこでなずなの言葉は途切れてしまった。


 でも、わかった。なずなはあのとき、《おかしかった》んだ。

 なら、仕方ないじゃないか。僕には彼女がいったい何を思ったのか理解することはできない。容赦なく寝首をかくなんて、信じられたものじゃない。裏切られて然るべきだとも思っている。


 でも、きっと当時のなずなには、なにかがあったんだ。

 なずなは、何もない状態で、誰かを殺したりしない。

 そのことは何度となく隣で戦ってきた、僕が一番知っている。

 

 だから、僕が選ぶべき選択肢は――決まってる。


「僕は、なずなの味方だよ」


 言った……

 悪魔の囁きに耳を傾けることなく、一つの選択肢を捨てて、選んだ。


「あんた、私の話、聞いてた?」


「聞いてましたよ。でも、それがなずなを裏切る理由にはならない。彼女にもきっと事情があった。なら、僕はそれを信じる。それに、今はどうだっていいんだよ、そんなこと。僕たちがやらなくちゃいけないのは、過去の恨み辛みに年取ったジジババみたいに頷いて同調することじゃない」


 そうだ。僕たちは、こんな話で立ち止まっているわけにはいかないんだ。

 なずなの手を、強く握り締めて、僕は言った。


「この戦いに、勝つことだ」


「海、斗」


 蘇芳に背を向けて、見えもしないなずなと対峙する。


「お前の愚痴やら告白なんて、後でいくらでも聞いてやるし、いくらでも罵倒してやる。だから、今は気にするな。ただ目の前の敵を倒すことだけを考えろ。そのために、できることを僕はする」


「どう、して」


「どうしてもクソもあるか。僕は美鈴さんが悲しむようなことはしない。そう言っただろ。三ヶ月前と同じだよ。いまここでお前を見捨てたら、あとで美鈴さんに嫌われる。一生、仲直りできないかもしれない。そんなリスクを背負ってまで、どうして僕がお前らの過去に入れ込まなくちゃいけないんだ」


 黙って聞いていた蘇芳の殺気が、今の一言で急激に上昇した。肌に張り付く霧の感触が気持ち悪い。殺意の海に投げ込まれたみたいな気分だ。


「なずな、あなた、良い男を見つけたのね。嫉妬しちゃうわ。私なんて、あなたのせいでこんな酷い顔になったっていうのに……男なんて、寄ってこないわよ。あなたと、違ってね」


「ごめんなさい」


 そんな蘇芳の怒りを、なずなはたった一言で抑え付けた。僕も、そして蘇芳もまた同様に驚いているのだろう。「ごめんなさい」なんて、それはまるで蘇芳を煽っているようにも捉えられて、今ここでその発言をしたということはつまり、なずなもこの意味を理解していたことになるだろう。


「いいんだな、なずな」


「ああ……悪かったな、みっともないところを見せて」


 だからきっと今の「ごめんなさい」は、決別。

 姉である蘇芳に対する、明確な宣戦布告。


「海斗。あたしはお前の言ったことを、忘れないぞ。戦いが終わったら、あたしの話を聞いて欲しい。それで思いっ切り罵倒して、見捨ててくれ。きっとそれが今のあたしができる――贖罪だから」


 僕は頷いた。震えの収まったなずなの手が、そっと僕から離れていく。


「あたしは今から、お前の目になる」


 ナイフが鞘から抜かれる音がした。

 目には見えない。それでも、はっきりと僕には視えている。


「だからお前は――あたしを、守ってくれ」


 ナイフを持ち、僕に信頼を寄せてくれる頼もしいなずなの、その姿が。

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