第8章 消防署
建物の中で、建一は、しばらく、出てこなかった。
美咲は、駐車場の、消防車の影で、しゃがんだまま、入口の自動ドアを、見ていた。凛は、彼女の隣で、無言だった。
時間が、長かった。
たぶん、十分も、経っていなかった。けれど、二十分か、三十分にも、感じた。
時間が、長く感じる、ということが、不安、ということだった。
ようやく、建一が、戻ってきた。
戻ってきた建一の、顔は、こわばっていなかった。けれど、軽くも、なかった。
その中間の顔だった。中間の顔、というのが、いま、彼女には、いちばん、難しい顔だった。
「みさきさん」
「うん」
「中、奴ら、おらん」
「——」
「人も、おらん」
「人も?」
「うん。誰も、おらんと」
美咲は、息を、止めた。
止めた息のあと、彼女は、低く、訊いた。
「——翔太、おらんと?」
「——いまは、おらん」
「——」
「ただ、痕跡は、ようさん、ある」
「——」
「最近まで、ここに、おった人たちの、痕跡たい」
「——」
「中、入ろう」
*
博多消防署の本署は、四階建ての、コンクリートの建物だった。
一階は、出動の、車両のための、広い、ガレージ。
二階は、事務室と、待機室。
三階は、仮眠室と、休憩室。
四階は、訓練室と、倉庫。
彼らは、一階から、順番に、入っていった。
一階のガレージ。
消防車は、外の二台のほかに、もう一台、中に、残っていた。中の一台は、サイドのシャッターが、降りていなかった。装備の一部が、外に、出されたままだった。ホースが、床のうえに、ぐるぐると、巻き取られないまま、転がっていた。
ガレージの、片隅に、机が、ふたつ、置かれていた。机のうえには、ホワイトボードが、立てかけてあった。
ホワイトボードには、走り書きの文字が、いくつも、残っていた。
「四月二十八日 残り 二十二名」
「五月一日 残り 十八名」
「五月七日 残り 十二名」
「五月十日 残り 十名」
「五月十四日 残り 六名」
「五月十六日 移動/糸島 六名」
最後の一行を、美咲は、何度も、読んだ。
五月十六日。
昨日、だった。
昨日、翔太たちは、糸島へ、移動した、ということだった。
残り六名のうちに、翔太は、いた——たぶん、いた。
いた、と、信じることが、いま、彼女には、必要だった。
「——糸島」と、美咲は、つぶやいた。
「うん」
「翔太、糸島に、行ったとね」
「——たぶん」
「——」
「糸島、ね」
「うん、糸島」
建一は、ホワイトボードを、しばらく、見ていた。
見たあと、彼は、机の上の、別の紙を、めくった。
紙のうえには、糸島の、簡単な地図と、いくつかの地点が、印で、つけられていた。
地点の名前が、書かれていた。「志摩」「二丈」「桜井」「ヴェルナの里」——最後の一語だけ、横文字めいた、独特の名前だった。
「ヴェルナの里」と、建一は、低く、つぶやいた。
「——なに、それ」
「わからん」
「——」
「糸島のどこかに、ある、らしい」
「——」
「ここに、来たことのある、人たちが、糸島の、ヴェルナの里、というところを、めざした、ということ、たい」
「——」
*
二階の事務室は、もっと、明確に、引き上げの、跡だった。
机の上は、ある程度、片付けられていた。けれど、引き出しは、開けっぱなしのが、いくつかあった。書類の、束が、いくつか、机のうえに、残っていた。
壁の、いちばん大きなホワイトボードには、こう、書かれていた。
「全員集合 五月十六日 朝六時 一階」
「持ち物 最低限 水 食料三日 懐中電灯 予備電池」
「行き先 糸島郡 ヴェルナの里(武生さんの集落)」
「武生さんの連絡 四月の終わりから、無線で、糸島に集落あり、と」
「合流の合言葉 春が来た」
武生、という名前を、美咲は、初めて、見た。
ヴェルナの里、という、ふしぎな名前と、武生、という、日本人らしい姓と。
二つは、糸島の、どこかに、繋がっていた。
その糸島に、翔太は、昨日、向かった。
糸島は、福岡市内の西。ここからは、二十キロほど。歩いて、半日では、つかない距離。
「武生さん」と、建一は、つぶやいた。
「うん」
「——糸島のどこかで、武生さんという人が、集落を、つくっとう」
「うん」
「——その人を、目指して、こっちの消防署の人たちが、行った」
「うん」
「——なるほど」
建一は、ホワイトボードの前で、しばらく、考えていた。
*
三階の仮眠室には、いくつかの、ベッドが、並んでいた。
ベッドのうえには、毛布が、いくつか、たたまれて、置かれていた。たたみ方は、きっちりしていた。きっちりたたまれている、ということが、たぶん、署員の習慣の、最後の一片だった。
仮眠室の、片隅の、ベッドのひとつの、枕の下に、何かが、見えた。
建一は、それを、取り出した。
白い封筒だった。
封筒の表に、字で、こう、書かれていた。
「春日 残置」
「春日——」と、建一は、つぶやいた。
「——」
「みさきさんの、翔太さんの、姓やね?」
「——うん」
「これ、翔太さんが、誰かに、預けて、いったか、それとも——」
「——たぶん、翔太が、書いたもの」
「うん」
「みさきさん、開けるね」
「——うん」
建一は、封筒を、開けた。
中には、二枚の紙が、入っていた。
一枚目は、翔太の字だった。
二枚目は、別の字だった。
*
翔太の字の、一枚目。
「みさきへ。
もし、君が、この消防署まで、辿り着いたなら——
すみません。
ぼくは、いま、糸島に向かう。
ぼくらは、もう、ここで、生きていけん。
糸島の、武生さんの集落に、行く。
行き先は、ヴェルナの里、たい。
武生さんは、四月の終わりから、無線で、ぼくらと、連絡を取りよった。
ぼくらが、行くと、決めたのは、昨日、たい。
昨日というのは、五月十五日。
明日の朝、たぶん、出発しとう。
君が、ここに来たら、糸島まで、追ってきてくれ。
追ってきても、もし、追いつけんかったら、武生さんの集落に、来てくれ。
糸島の、桜井のあたり。
武生さんの集落、ヴェルナの里、と、書かれた表札を、目印に。
絶対、合流できる。
絶対、たい。
ぼくは、信じる。
春日 翔太」
日付は、書かれていなかった。
日付がないのは、たぶん、書く時間が、なかった、ということだった。
でも、内容から、書かれたのが、昨日——五月十六日——だったことは、わかった。
美咲は、その手紙を、しばらく、両手で、握っていた。
握ったあと、彼女は、二枚目の、別の字の、紙を、開いた。
*
二枚目は、女の字だった。
丁寧な、女性の手書き。
「田中 美咲さま。
昨日、消防隊の春日さんから、伝言を、預かりました。
ご婚約者の方が、いつか、ここを訪ねるかもしれない、と、彼は、おっしゃっていました。
もし、訪ねてこられたなら、糸島の、武生さんの集落へ、向かってください、と。
春日さんは、最後まで、ここに、残るか、それとも、糸島へ、行くかで、悩んでいらっしゃいました。
昨日の、深夜まで、悩まれて、最後に、糸島へ、行く、と決められました。
ご婚約者の方の、お父さま、お母さまも、北九州にいらっしゃるとお聞きしました。
もし、北九州にも、向かわれるなら、その後に、糸島へ、来てください。
春日さんは、いつまでも、待つ、とのことでした。
わたくしは、看護師の、川口、と、申します。
わたくしは、糸島へは、行きません。
わたくしは、別の、場所へ向かいます。
もし、田中さんが、無事に、糸島まで、辿り着かれたなら、春日さんに、お伝えください。
川口は、最後まで、患者さんと、いっしょに、別の場所に、行きました。
それが、わたくしの、最後の、仕事です。
ご無事を、お祈りしております。
川口 節子」
美咲は、その二枚目を、読み終えた。
読み終えたあと、彼女は、しばらく、目を、閉じた。
*
「川口」と、建一が、低く、つぶやいた。
「うん」
「真里さんと、同じやね」
「——同じ」
「うん。患者さんを、見捨てきれん人」
「——うん」
「世界に、こういう人、たくさん、おる、と思っとう」
「——」
「俺、いま、初めて、そう、思った」
「——」
美咲は、頷いた。
頷きながら、彼女は、川口節子、という名前を、心のなかで、もう一度、復唱した。
会ったことのない人だった。
会うこともない、たぶん、ない人だった。
それでも、彼女が、書いてくれた、丁寧な、女性の字を、忘れない、と、美咲は、決めた。
決めて、彼女は、二枚目の紙を、丁寧に、たたんで、リュックの内側に、しまった。
*
昼ごろ、三人は、二階の事務室に、戻った。
戻って、机のうえに、地図と、翔太の手紙と、川口節子の紙を、並べた。
建一は、しばらく、地図を、見ていた。
「みさきさん」
「うん」
「これから、二つの、選択肢がある」
「——」
「ひとつは、すぐに、糸島へ、向かう」
「——」
「ひとつは、ここで、何日か、休んで、それから、糸島へ、向かう」
「——」
「あんたの、体のことを、考えると、二つ目たい」
「——」
「ただし、長く休めば、それだけ、翔太さんとの、距離が、遠くなる」
「——」
美咲は、しばらく、考えた。
考えるあいだ、凛は、隣の椅子に、しずかに、座っていた。
「建一さん」
「うん」
「凛ちゃんは、ね」
「——」
「凛ちゃんも、いっしょに、糸島に、連れて行く?」
「——あたりまえやろ」
「うん」
「凛ちゃん、ね」
「——うん」
「みさきさんと、いっしょに、行こう」
「——」
凛は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、彼女は、自分の手の中の、銀色のコマを、握り直した。
握り直した手のひらが、しっかり、閉じていた。
「——うん」と、ようやく、彼女は、言った。
「いっしょに、行く」
「——うん」
建一は、それを、聞いて、軽く、微笑んだ。
*
その日、三人は、消防署に、泊まることに、決めた。
ひとまず、出発の準備を、整えるためだった。
二階の事務室を、寝床に、選んだ。三階の仮眠室は、ベッドが、いくつか、あったが、誰かが、いた、跡が、強すぎた。たたまれた毛布の、たたみ目の、ひとつひとつが、その人たちの、最後の朝の、動作の、跡だった。
その跡のうえに、寝るのは、なんとなく、気が、引けた。
夕方、建一は、消防署のなかを、もう一度、隅々まで、探した。
探して、いくつかの、有用なものを、見つけた。
懐中電灯。電池。簡易ベスト。それから、署員の、簡単な、防護用の、ジャケットが、いくつか。ジャケットには、内ポケットが、いくつもあり、無線機の取り付け穴のような、小さなフックも、ついていた。
建一は、そのジャケットのうち、いちばん、小さいのを、凛に、合わせてみた。サイズは、もちろん、大きすぎた。けれど、袖と、裾を、紐で、留めれば、彼女に、合いそうだった。
「凛ちゃん、これ、着るね」
「——」
「奴らに、噛まれそうになっても、ジャケットの厚みで、ちょっとだけ、守れる」
「——」
「明日、出発の前に、調整するね」
「うん」
凛は、頷いた。
頷いたあと、彼女は、ジャケットを、両手で、抱きしめた。
ジャケットの、防火布の、すこし、固い、布の感触を、彼女は、確かめているようだった。
確かめたあと、彼女は、ようやく、すこしだけ、微笑んだ。
微笑みは、本当に、わずかだった。
わずかなのに、それは、初めての、凛の、微笑みだった。
*
夜、三人は、事務室の、机の脇に、毛布を、敷いて、横たわった。
外では、ときどき、何かの音が、した。遠かった。
遠い音は、いつものように、しばらく、続いて、しばらくして、止んだ。
「みさきさん」と、凛が、暗がりのなかで、声を、出した。
「うん」
「みさきさんの、お父さんと、お母さんは」
「——北九州」
「北九州」
「うん。連絡、つかんと」
「——」
「会えるかどうか、わからん」
「——」
「凛ちゃんの、お父さんと、お母さんは——」
「——もう、おらん」
「——うん、ごめんね」
「——いいよ」
「——」
「うちの、お父さん」
「うん」
「警察官、やった」
「——警察官」
「うん。電車の駅の、近くの、交番に、勤めとった」
「——」
「最後の日、ね、家に、戻ってきて」
「——」
「すぐに、また、出ていった」
「——」
「『すぐ戻る』って、言った」
「——」
「お父さん、戻ってきたとよ」
「——うん」
「でも、戻ってきた、お父さんは、ね、もう、お父さんやなかった」
「——」
「目が、灰色やった」
「——」
「家のなかで、お母さんが、噛まれた」
「——」
「お母さんは、その晩、亡くなって、すぐに、起き上がった」
「——」
「うちは、二人を、家の中に、閉じ込めて、外に、出た」
「——うん」
凛は、それを、淡々と、話した。
淡々と、話したから、ますます、その重みが、美咲の胸に、しみた。
「凛ちゃん」
「うん」
「あんた、お父さんの、時計、ずっと、握っとうね」
「——うん」
「これは、家、出るときに、テーブルから、持ってきた」
「——」
「お父さんが、いちばん、大事にしとった、時計」
「——」
「もう、動かんけど」
「——」
「動かんでも、よか」
「——」
「動かんでも、お父さん、たい」
「——うん」
美咲は、ふしぎな思いで、凛の言葉を、聞いていた。
動かない時計のコマが、いまも、彼女のなかで、父そのもの、として、生きている。
動かないものが、生きている、ということがあった。
壊れたものが、生きていることがあった。
いま、美咲のリュックの内側にある、翔太の手紙も、糸島の、まだ会えない、翔太も、たぶん、同じだった。
*
「凛ちゃん」と、美咲は、低く、言った。
「うん」
「うちらも、ね、いまの世界で、生きていける場所、見つけよう」
「——うん」
「糸島の、武生さんの集落、ヴェルナの里——」
「——」
「行ってみる、たい」
「——うん」
「行ってみて、もし、よかったら、しばらく、そこに、おる。よくなかったら、また、別のところを、探す」
「——うん」
「いっしょに、来てくれる?」
「——うん」
「ありがとう」
「——」
「凛ちゃん、ありがとう」
「——」
凛は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、彼女は、もう一度、銀色のコマを、握った。
握ったまま、彼女は、目を、閉じた。
しずけさのなかで、建一の、規則正しい寝息が、聞こえてきた。
彼は、いつものように、早く、眠ってしまえる、ひとだった。
眠れる、ということも、ひとつの、強さだった。
美咲は、自分も、目を、閉じた。
五月十七日の、夜が、こうして、過ぎていった。
明日、糸島の方角へ——
翔太の、消えた背中の方角へ——
彼らは、また、歩き始める。




