第9章 街の崩壊
五月十八日、朝。
消防署の、二階の事務室で、美咲は、目を、覚ました。
毛布のうえで、寝起きの体は、昨日より、すこしだけ、軽かった。
軽い、というのは、体が、慣れてきた、ということだった。
慣れる、という言葉が、いま、どれだけ、ふしぎなものか、彼女は、しばらく、考えた。
二ヶ月、寝ていた体は、目覚めた一日目に、ベッドの端に、座るのが、やっとだった。それが、一週間で、杖をついて、街を、歩いている。
体は、無理を、覚える。
覚えた無理が、いま、彼女を、生かしていた。
建一は、すでに、起きて、事務室の、別の机のうえで、何かを、調べていた。
「みさきさん、おはよう」
「おはよう」
「ようやく、よう、眠れたごたあね」
「うん」
「凛ちゃんは?」
「——まだ、寝とう」
毛布の、いちばん端で、凛は、丸まって、眠っていた。
眠っている凛の顔は、起きているときの顔とは、別だった。
目を、閉じたとき、彼女の顔は、本来の十歳の子どもの顔に、戻った。
戻った顔を、美咲は、しばらく、見ていた。
見ていると、起きているときに、抜け落ちていた、子どもの目が、また、いつか、戻ってくるかもしれない、と、彼女は、思った。
思ってみる、というのが、いま、彼女のできる、唯一の、希望だった。
*
「みさきさん、これ、見てくれる?」
建一が、彼女に、手招きした。
彼の前の、机のうえには、何かの、機械が、置かれていた。
黒い、四角い、ボックスのような形。上に、いくつかのつまみと、メーターと、アンテナが、ついていた。
「——なに、それ」
「無線機たい」
「無線」
「うん。消防署の、業務用の、無線機。三階の、休憩室の、奥に、あった」
「——」
「電池が、まだ、ちょっとだけ、残っとう」
「——使えると?」
「うん、たぶん」
建一は、無線機の、つまみを、ゆっくり、回した。
ノイズが、ざーっ、と、流れた。
しばらく、ノイズだけだった。
彼は、別の、周波数に、つまみを、合わせた。
また、ノイズ。
また、別の周波数。
しばらくして——
ノイズの、すきまから、ぽつ、と、声が、聞こえた。
遠かった。けれど、間違いなく、人の声だった。
「——」
建一は、つまみを、慎重に、調整した。
声が、すこしだけ、はっきりした。
「——こちら、糸島、ヴェルナの里——」
「——応答、求む——」
「——五月十八日、午前——」
「——時刻、午前七時三十分——」
「——応答、求む——」
ノイズが、また、声を、覆った。
覆われた声が、別の言葉を、しゃべったが、聞き取れなかった。
ノイズが、止まったとき、また、同じ呼びかけが、流れた。
「——こちら、糸島、ヴェルナの里——」
「——応答、求む——」
美咲は、息を、止めた。
止めた息のあと、彼女は、低く、つぶやいた。
「——武生さん」
「うん、たぶん」
「——」
「みさきさん、応答する?」
「——できる?」
「うん。マイクは、これ。スイッチを、押しながら、しゃべる」
建一は、無線機の、マイクを、彼女に、渡した。
マイクは、ずっしりと、重かった。
握った手のひらに、その重さが、伝わった。
彼女は、しばらく、躊躇った。
躊躇った時間が、長すぎた、と、自分でも、思った。
マイクの、スイッチを、押した。
「——もしもし」と、彼女は、言った。
言って、自分の声が、ふしぎだった。二ヶ月ぶりに、無線で、誰かに、話しかける、ということだった。
「——こちら、博多消防署、本署、たい」
「——」
「春日、翔太の、婚約者の、田中、美咲、です」
「——」
「翔太は、そちらに、いますか?」
応答が、止まった。
しばらく、ノイズだけが、流れた。
ノイズだけの時間が、長かった。
長かった、というのは、向こうの誰かが、いま、応答を、しようとしているのに、何かが、邪魔をしている、ということだった。
「——」
ようやく、声が、戻った。
別の声だった。
若い、女性の声だった。
「——博多消防署、本署、聞こえます」
「——田中美咲、さん、ですね」
「——はい」
「——わたくしは、ヴェルナの里、無線担当の、長谷川、と、申します」
「——」
「——昨日、消防署から、いらした、春日翔太さんは、今朝、こちらに、無事、到着しています」
「——」
美咲は、マイクを、握ったまま、しばらく、動かなかった。
動かない手のひらの、内側で、マイクが、すこし、湿った。
「——翔太、無事、たい?」
「——はい、無事です」
「——」
「いま、いますか?」
「——もう少々、お待ちください。呼んでまいります」
*
待つ時間が、また、長かった。
ノイズだけが、流れた。
その、ノイズの、奥に——
別の人の、足音のような、別の声のような、何かの、小さな音が、聞こえた気がした。
ノイズが、止まった。
別の声が、入った。
彼の声だった。
「——みさき」
二音だった。
たった、二音だった。
その、二音で、美咲の頬を、また、涙が、伝った。
「——翔太」
「——みさき、生きとった、んやね」
「——うん、生きとう」
「——」
「——いつ、目、覚めた?」
「五月十二日」
「——五月十二日」
「うん」
「——もう、一週間も、たっとう」
「うん」
「——」
「翔太、糸島におるとね」
「——いま、ヴェルナの里、に、いる」
「うん」
「——みさき、こっち、来れる?」
「うん、行く」
「——」
「——危ないけん、無理はせんで、よかとよ」
「——」
「——でも、来れるなら、来てくれ」
「——」
「うん、行く」
彼の、声は、二ヶ月前の、彼の声とは、ちょっと、違った。
低かった。
すこし、しゃがれていた。
何かに、削られた、声だった。
でも、笑い方は、たぶん、彼のままだった。
「——みさき、ね」
「うん」
「ぼくの、家、寄った?」
「うん、寄った」
「——手紙、読んだ?」
「うん、読んだ」
「——リュック、持ってきた?」
「うん、持ってきた」
「——よかった」
「——うん」
*
「翔太」
「うん」
「うちのお父さんと、お母さん、ね」
「——うん」
「北九州に、おうとよね」
「——うん、知っとう」
「行ったほうがいい?」
「——」
翔太は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、彼は、低く、言った。
「みさき、ね」
「うん」
「正直、ぼくは、君に、来てほしいとよ」
「——うん」
「先に、糸島、来てほしい」
「——」
「——でも、それは、ぼくの、勝手な気持ち」
「——」
「君の、お父さんと、お母さんも、君のことを、たぶん、ずっと、待っとう」
「——うん」
「君が、いちばん、後悔せん方法を、選んでくれたら、よか」
「——」
「ぼくは、ここで、待つ。先に、北九州に行っても、よか。先に、こっちに来てくれても、よか」
「——」
「どっちにしても、ぼくは、待つ」
「——うん」
美咲は、しばらく、マイクを、握ったまま、動けなかった。
動けないあいだ、彼女は、自分の頬の、涙を、拭うことも、しなかった。
「——翔太」
「うん」
「ありがとう」
「——」
「ぼくも、たい」
「——」
無線機の、電池の、メーターが、急速に、減りはじめた。
ノイズが、また、強くなった。
「翔太」と、急いで、美咲は、言った。
「うん」
「電池、もう、切れそう」
「——うん」
「決めたら、また、無線、入れる」
「——うん」
「待っとってね」
「待っとう」
「——絶対」
「——うん、絶対」
無線が、ぷつりと、切れた。
切れたあとに、ノイズが、薄く、流れた。
しばらくして、ノイズも、消えた。
建一は、無線機の、電源を、慎重に、切った。
「みさきさん」
「うん」
「——会えたね、声」
「うん」
美咲は、しばらく、無線機の、前で、座ったまま、動けなかった。
動けないままで、彼女は、ようやく、本当の意味で、笑った。
笑った顔のうえに、涙が、まだ、流れていた。
*
昼ごろ、凛が、起きた。
起きて、無線機の話を、聞いた。
彼女は、しずかに、頷いた。
「——みさきさんの、婚約者、生きとうとね」
「うん、生きとう」
「——よかった」
「うん」
「——」
「凛ちゃん、ね」
「うん」
「うちらは、これから、どっちに、先に、行くか、決めんといかん」
「——うん」
「ひとつは、北九州。うちのお父さんと、お母さんが、おる」
「——」
「ひとつは、糸島。翔太と、武生さんの集落、ヴェルナの里」
「——」
「凛ちゃんは、どっち、ついてきてくれる?」
「——」
凛は、しばらく、考えた。
「みさきさんは、どっちに、行きたい?」
凛は、子どもの声で、訊いた。
子どもの声、というのは、いつもの、低く落ち着いた声ではなく、もう少し、上ずった、ふつうの、十歳の声だった。
その、ふつうの声を、美咲は、しばらく、聞いていた。
「——うちは、ね」
「うん」
「迷っとう」
「——」
「お父さんと、お母さんに、会いたい」
「——」
「翔太にも、会いたい」
「——」
「どっち、先に、と、決めきれん」
「——」
凛は、頷いた。
「——みさきさん、ね」
「うん」
「うちなら、糸島、先に、行く」
「——」
「翔太さんは、いま、無事、ってわかった」
「うん」
「みさきさんの、お父さんと、お母さんも、無事、ってわかったら、それから、決めるとよ」
「——」
「無線、糸島から、北九州にも、つながると?」
「——」
建一が、低く、つけ加えた。
「うん、たぶん、つながるとよ」
「うん」
「業務用の、無線は、たぶん、長距離も、いける」
「——」
「ヴェルナの里に、行けば、もっと、いい無線機が、ある、かもしれん」
「——」
「そこから、北九州に、無線、飛ばせるかもしれん」
「——」
凛は、それを、聞いて、頷いた。
「——みさきさん」
「うん」
「うちは、糸島、先のほうが、よかと思う」
「——うん」
「翔太さんに、会って、それから、北九州に、行く」
「——」
美咲は、しばらく、凛を、見ていた。
見たあと、彼女は、ゆっくり、頷いた。
「——うん」
「凛ちゃんの、いうとおりに、する」
「——」
「先に、糸島」
「——うん」
*
午後、三人は、出発の準備を、はじめた。
翔太の、出動用のリュックを、もう一度、整え直した。
防護用のジャケットを、それぞれ、合わせた。凛の、ジャケットは、紐で、袖と、裾を、絞った。
懐中電灯と、電池と、水と、食料を、リュックに、詰めた。
翔太の手紙の四枚、川口節子の紙、糸島の地図、それから、無線機。
全部を、しっかり、詰めた。
無線機は、重かった。
でも、置いていけなかった。
持っていけば、糸島に、たどり着けなくても、どこかで、また、翔太と、話ができるかもしれない。
その可能性が、いまの彼女には、何より、大きかった。
夕方、建一は、もう一度、消防署の、まわりの、確認に出た。
戻ってきた建一は、低く、つぶやいた。
「——明日、出発できる、と、思う」
「——うん」
「ただし、街の、西側、奴ら、増えとう」
「——」
「博多駅の、奴らが、ようやく、西へ、動き出した、ごたあ」
「——」
「もうすぐ、ここも、危なくなる」
「——」
「だから、明日、絶対に、出発する」
「うん」
*
夜。
外で、いつもより、たくさんの、音が、した。
遠かったが、いつもより、数が、多かった。
引きずる音、唸り声、何かが、転倒する音。
その、ひとつひとつの音は、はっきりしていなかった。けれど、全部、合わせると、何かの、流れのような、ものになっていた。
奴らが、街のあちこちで、動き出していた。
動き出しは、たぶん、明日、もっと、大きくなる。
美咲は、毛布のなかで、目を、開けた。
開けた目のなかに、ふしぎな、明るさが、あった。
明るさ、というのは、希望のようなもの、だった。
翔太が、生きていた。
会いに行ける。
明日、出発する。
「——みさきさん」と、凛の声が、暗がりのなかで、聞こえた。
「うん」
「あした、出発、たい」
「うん」
「うちも、行く」
「うん」
「——」
「みさきさん、ね」
「うん」
「ありがとう」
「——わたしのほうこそ」
「——」
「うちは、ね、もう、ひとりやないけん、ありがとう」
「——」
「うん、わたしも」
二人は、それから、何も、言わなかった。
言わないまま、互いの呼吸が、近かった。
近い呼吸のなかで、しばらくして、彼女たちは、眠った。
建一の、規則正しい寝息は、いつものように、先に、聞こえていた。
五月十八日の、夜が、こうして、過ぎていった。
明日、三人は、西へ——
糸島の方角へ——
歩き出す。




