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春の終わりに目覚める  作者: モモンガ太郎


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9/9

第9章 街の崩壊

 五月十八日、朝。

 消防署の、二階の事務室で、美咲は、目を、覚ました。

 毛布のうえで、寝起きの体は、昨日より、すこしだけ、軽かった。

 軽い、というのは、体が、慣れてきた、ということだった。

 慣れる、という言葉が、いま、どれだけ、ふしぎなものか、彼女は、しばらく、考えた。

 二ヶ月、寝ていた体は、目覚めた一日目に、ベッドの端に、座るのが、やっとだった。それが、一週間で、杖をついて、街を、歩いている。

 体は、無理を、覚える。

 覚えた無理が、いま、彼女を、生かしていた。


 建一は、すでに、起きて、事務室の、別の机のうえで、何かを、調べていた。

「みさきさん、おはよう」

「おはよう」

「ようやく、よう、眠れたごたあね」

「うん」

「凛ちゃんは?」

「——まだ、寝とう」


 毛布の、いちばん端で、凛は、丸まって、眠っていた。

 眠っている凛の顔は、起きているときの顔とは、別だった。

 目を、閉じたとき、彼女の顔は、本来の十歳の子どもの顔に、戻った。

 戻った顔を、美咲は、しばらく、見ていた。

 見ていると、起きているときに、抜け落ちていた、子どもの目が、また、いつか、戻ってくるかもしれない、と、彼女は、思った。

 思ってみる、というのが、いま、彼女のできる、唯一の、希望だった。



「みさきさん、これ、見てくれる?」

 建一が、彼女に、手招きした。

 彼の前の、机のうえには、何かの、機械が、置かれていた。

 黒い、四角い、ボックスのような形。上に、いくつかのつまみと、メーターと、アンテナが、ついていた。

「——なに、それ」

「無線機たい」

「無線」

「うん。消防署の、業務用の、無線機。三階の、休憩室の、奥に、あった」

「——」

「電池が、まだ、ちょっとだけ、残っとう」

「——使えると?」

「うん、たぶん」


 建一は、無線機の、つまみを、ゆっくり、回した。

 ノイズが、ざーっ、と、流れた。

 しばらく、ノイズだけだった。

 彼は、別の、周波数に、つまみを、合わせた。

 また、ノイズ。

 また、別の周波数。

 しばらくして——

 ノイズの、すきまから、ぽつ、と、声が、聞こえた。

 遠かった。けれど、間違いなく、人の声だった。


「——」

 建一は、つまみを、慎重に、調整した。

 声が、すこしだけ、はっきりした。


「——こちら、糸島、ヴェルナの里——」

「——応答、求む——」

「——五月十八日、午前——」

「——時刻、午前七時三十分——」

「——応答、求む——」


 ノイズが、また、声を、覆った。

 覆われた声が、別の言葉を、しゃべったが、聞き取れなかった。

 ノイズが、止まったとき、また、同じ呼びかけが、流れた。

「——こちら、糸島、ヴェルナの里——」

「——応答、求む——」


 美咲は、息を、止めた。

 止めた息のあと、彼女は、低く、つぶやいた。

「——武生さん」

「うん、たぶん」

「——」

「みさきさん、応答する?」

「——できる?」

「うん。マイクは、これ。スイッチを、押しながら、しゃべる」


 建一は、無線機の、マイクを、彼女に、渡した。

 マイクは、ずっしりと、重かった。

 握った手のひらに、その重さが、伝わった。

 彼女は、しばらく、躊躇った。

 躊躇った時間が、長すぎた、と、自分でも、思った。

 マイクの、スイッチを、押した。


「——もしもし」と、彼女は、言った。

 言って、自分の声が、ふしぎだった。二ヶ月ぶりに、無線で、誰かに、話しかける、ということだった。


「——こちら、博多消防署、本署、たい」

「——」

「春日、翔太の、婚約者の、田中、美咲、です」

「——」

「翔太は、そちらに、いますか?」


 応答が、止まった。

 しばらく、ノイズだけが、流れた。

 ノイズだけの時間が、長かった。

 長かった、というのは、向こうの誰かが、いま、応答を、しようとしているのに、何かが、邪魔をしている、ということだった。


「——」

 ようやく、声が、戻った。

 別の声だった。

 若い、女性の声だった。


「——博多消防署、本署、聞こえます」

「——田中美咲、さん、ですね」

「——はい」

「——わたくしは、ヴェルナの里、無線担当の、長谷川、と、申します」

「——」

「——昨日、消防署から、いらした、春日翔太さんは、今朝、こちらに、無事、到着しています」

「——」


 美咲は、マイクを、握ったまま、しばらく、動かなかった。

 動かない手のひらの、内側で、マイクが、すこし、湿った。

「——翔太、無事、たい?」

「——はい、無事です」

「——」

「いま、いますか?」

「——もう少々、お待ちください。呼んでまいります」



 待つ時間が、また、長かった。

 ノイズだけが、流れた。

 その、ノイズの、奥に——

 別の人の、足音のような、別の声のような、何かの、小さな音が、聞こえた気がした。


 ノイズが、止まった。

 別の声が、入った。

 彼の声だった。


「——みさき」

 二音だった。

 たった、二音だった。

 その、二音で、美咲の頬を、また、涙が、伝った。


「——翔太」

「——みさき、生きとった、んやね」

「——うん、生きとう」

「——」

「——いつ、目、覚めた?」

「五月十二日」

「——五月十二日」

「うん」

「——もう、一週間も、たっとう」

「うん」

「——」

「翔太、糸島におるとね」

「——いま、ヴェルナの里、に、いる」

「うん」

「——みさき、こっち、来れる?」

「うん、行く」

「——」

「——危ないけん、無理はせんで、よかとよ」

「——」

「——でも、来れるなら、来てくれ」

「——」

「うん、行く」


 彼の、声は、二ヶ月前の、彼の声とは、ちょっと、違った。

 低かった。

 すこし、しゃがれていた。

 何かに、削られた、声だった。

 でも、笑い方は、たぶん、彼のままだった。

「——みさき、ね」

「うん」

「ぼくの、家、寄った?」

「うん、寄った」

「——手紙、読んだ?」

「うん、読んだ」

「——リュック、持ってきた?」

「うん、持ってきた」

「——よかった」

「——うん」



「翔太」

「うん」

「うちのお父さんと、お母さん、ね」

「——うん」

「北九州に、おうとよね」

「——うん、知っとう」

「行ったほうがいい?」

「——」

 翔太は、しばらく、答えなかった。

 答えないまま、彼は、低く、言った。

「みさき、ね」

「うん」

「正直、ぼくは、君に、来てほしいとよ」

「——うん」

「先に、糸島、来てほしい」

「——」

「——でも、それは、ぼくの、勝手な気持ち」

「——」

「君の、お父さんと、お母さんも、君のことを、たぶん、ずっと、待っとう」

「——うん」

「君が、いちばん、後悔せん方法を、選んでくれたら、よか」

「——」

「ぼくは、ここで、待つ。先に、北九州に行っても、よか。先に、こっちに来てくれても、よか」

「——」

「どっちにしても、ぼくは、待つ」

「——うん」


 美咲は、しばらく、マイクを、握ったまま、動けなかった。

 動けないあいだ、彼女は、自分の頬の、涙を、拭うことも、しなかった。


「——翔太」

「うん」

「ありがとう」

「——」

「ぼくも、たい」

「——」


 無線機の、電池の、メーターが、急速に、減りはじめた。

 ノイズが、また、強くなった。

「翔太」と、急いで、美咲は、言った。

「うん」

「電池、もう、切れそう」

「——うん」

「決めたら、また、無線、入れる」

「——うん」

「待っとってね」

「待っとう」

「——絶対」

「——うん、絶対」


 無線が、ぷつりと、切れた。

 切れたあとに、ノイズが、薄く、流れた。

 しばらくして、ノイズも、消えた。

 建一は、無線機の、電源を、慎重に、切った。

「みさきさん」

「うん」

「——会えたね、声」

「うん」


 美咲は、しばらく、無線機の、前で、座ったまま、動けなかった。

 動けないままで、彼女は、ようやく、本当の意味で、笑った。

 笑った顔のうえに、涙が、まだ、流れていた。



 昼ごろ、凛が、起きた。

 起きて、無線機の話を、聞いた。

 彼女は、しずかに、頷いた。

「——みさきさんの、婚約者、生きとうとね」

「うん、生きとう」

「——よかった」

「うん」

「——」

「凛ちゃん、ね」

「うん」

「うちらは、これから、どっちに、先に、行くか、決めんといかん」

「——うん」

「ひとつは、北九州。うちのお父さんと、お母さんが、おる」

「——」

「ひとつは、糸島。翔太と、武生さんの集落、ヴェルナの里」

「——」

「凛ちゃんは、どっち、ついてきてくれる?」

「——」


 凛は、しばらく、考えた。

「みさきさんは、どっちに、行きたい?」

 凛は、子どもの声で、訊いた。

 子どもの声、というのは、いつもの、低く落ち着いた声ではなく、もう少し、上ずった、ふつうの、十歳の声だった。

 その、ふつうの声を、美咲は、しばらく、聞いていた。

「——うちは、ね」

「うん」

「迷っとう」

「——」

「お父さんと、お母さんに、会いたい」

「——」

「翔太にも、会いたい」

「——」

「どっち、先に、と、決めきれん」

「——」

 凛は、頷いた。

「——みさきさん、ね」

「うん」

「うちなら、糸島、先に、行く」

「——」

「翔太さんは、いま、無事、ってわかった」

「うん」

「みさきさんの、お父さんと、お母さんも、無事、ってわかったら、それから、決めるとよ」

「——」

「無線、糸島から、北九州にも、つながると?」

「——」

 建一が、低く、つけ加えた。

「うん、たぶん、つながるとよ」

「うん」

「業務用の、無線は、たぶん、長距離も、いける」

「——」

「ヴェルナの里に、行けば、もっと、いい無線機が、ある、かもしれん」

「——」

「そこから、北九州に、無線、飛ばせるかもしれん」

「——」


 凛は、それを、聞いて、頷いた。

「——みさきさん」

「うん」

「うちは、糸島、先のほうが、よかと思う」

「——うん」

「翔太さんに、会って、それから、北九州に、行く」

「——」


 美咲は、しばらく、凛を、見ていた。

 見たあと、彼女は、ゆっくり、頷いた。

「——うん」

「凛ちゃんの、いうとおりに、する」

「——」

「先に、糸島」

「——うん」



 午後、三人は、出発の準備を、はじめた。

 翔太の、出動用のリュックを、もう一度、整え直した。

 防護用のジャケットを、それぞれ、合わせた。凛の、ジャケットは、紐で、袖と、裾を、絞った。

 懐中電灯と、電池と、水と、食料を、リュックに、詰めた。

 翔太の手紙の四枚、川口節子の紙、糸島の地図、それから、無線機。

 全部を、しっかり、詰めた。

 無線機は、重かった。

 でも、置いていけなかった。

 持っていけば、糸島に、たどり着けなくても、どこかで、また、翔太と、話ができるかもしれない。

 その可能性が、いまの彼女には、何より、大きかった。


 夕方、建一は、もう一度、消防署の、まわりの、確認に出た。

 戻ってきた建一は、低く、つぶやいた。

「——明日、出発できる、と、思う」

「——うん」

「ただし、街の、西側、奴ら、増えとう」

「——」

「博多駅の、奴らが、ようやく、西へ、動き出した、ごたあ」

「——」

「もうすぐ、ここも、危なくなる」

「——」

「だから、明日、絶対に、出発する」

「うん」



 夜。

 外で、いつもより、たくさんの、音が、した。

 遠かったが、いつもより、数が、多かった。

 引きずる音、唸り声、何かが、転倒する音。

 その、ひとつひとつの音は、はっきりしていなかった。けれど、全部、合わせると、何かの、流れのような、ものになっていた。

 奴らが、街のあちこちで、動き出していた。

 動き出しは、たぶん、明日、もっと、大きくなる。


 美咲は、毛布のなかで、目を、開けた。

 開けた目のなかに、ふしぎな、明るさが、あった。

 明るさ、というのは、希望のようなもの、だった。

 翔太が、生きていた。

 会いに行ける。

 明日、出発する。


「——みさきさん」と、凛の声が、暗がりのなかで、聞こえた。

「うん」

「あした、出発、たい」

「うん」

「うちも、行く」

「うん」

「——」

「みさきさん、ね」

「うん」

「ありがとう」

「——わたしのほうこそ」

「——」

「うちは、ね、もう、ひとりやないけん、ありがとう」

「——」

「うん、わたしも」


 二人は、それから、何も、言わなかった。

 言わないまま、互いの呼吸が、近かった。

 近い呼吸のなかで、しばらくして、彼女たちは、眠った。

 建一の、規則正しい寝息は、いつものように、先に、聞こえていた。


 五月十八日の、夜が、こうして、過ぎていった。

 明日、三人は、西へ——

 糸島の方角へ——

 歩き出す。


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