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春の終わりに目覚める  作者: モモンガ太郎


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第7章 凛

 五月十七日、朝。

 翔太のマンションを、二人は、出た。

 出る前に、美咲は、もう一度、リビングを、見回した。

 翔太の手紙の四枚は、彼女が、リュックの、内側に、しまった。リュック——翔太が、最後に残してくれた、彼の出動用のリュック——を、美咲は、自分の背中に、背負っていた。

 翔太の長靴は、玄関に、そのまま、残した。

 残しておけば、翔太が、もし、いつか、ここに、戻ってくることがあれば、自分のものを、見つけられる。

 戻ってくる、ということが、ありえないかもしれない、と、彼女は、知っていた。

 知っていても、長靴は、置いていった。


 建一は、玄関で、待っていた。

 彼の、肩にかけた木刀の、先端の方に、ほんの少しだけ、新しい湿り気が、ついていた。

 昨日の、橋のうえの、奴らとは、別の何かを、夜のあいだに、彼は、片付けたのかもしれなかった。

 訊かなかった。


「みさきさん、いい?」

「うん」

「行こう」


 ドアの鍵は、内側から、回した。

 回した鍵は、消火栓の、いつもの場所には、もう、戻さなかった。

 翔太が、彼女に、託した鍵だった。

 彼女が、持っていくのが、自然だった。



 住吉の街並みは、朝の、薄い光のなかで、しずかだった。

 あの古い住吉神社の鳥居は、今朝も、立っていた。

 二人は、鳥居を、左に見ながら、北へ向かった。

 博多消防署の本署は、博多駅の、北側にあった。住吉から、北へ、約一キロ。

 いつもなら、十五分の距離。今日の彼女には、一時間半。


 歩きながら、建一は、地図を、ときどき、確認した。

 地図は、コンビニで、彼が、見つけた、観光地図だった。福岡市内の、観光地が、色つきで、印刷されている。

「みさきさん」

「うん」

「博多駅の前は、避けたほうがよかね」

「——」

「駅の前は、たぶん、奴らが、いちばん多い」

「——なんで?」

「人が、最後に、集まった場所、たい。電車が、止まる前まで、ね、市内のあちこちから、人が、駅に集まっとった」

「——」

「テレビが、止まる前の最後の映像、駅前の、避難所の、映像やった」

「——」

「集まった人たちが、奴らになって、いまも、駅前を、うろうろしとう」

「——」

「だから、駅は、迂回しよう」

「うん」


 彼らは、駅の、西側の、住宅街の、路地を、抜けて、消防署の方角に、向かうことにした。

 住宅街の路地は、せまかった。両側の家のうち、半分は、雨戸が、閉まっていた。半分は、ドアが、半分、開いていた。半分開いたドアの内側を、二人は、見ないようにして、通り過ぎた。



 路地を、二十分ほど、進んだあたりだった。

 突然、前方から——

 走る、足音が、聞こえた。

 小さな、軽い足音だった。子どもの足音だった。

 建一が、ぱっと、立ち止まった。

 立ち止まって、木刀を、両手で、構え直した。

 美咲も、足を、止めた。

「——みさきさん、後ろ」

「うん」

 建一は、彼女を、自分の、後ろに、押し下げた。


 路地の、前方の、角から——

 女の子が、飛び出してきた。

 十歳くらいの、女の子だった。

 短いショートカット。黒い髪。汚れた、ピンクのパーカー。

 手に、何かを、ぎゅっと、握っていた。

 女の子は、こちらを、見て、一瞬、目を、見開いた。けれど、すぐに、また、走り出した。

 走り出した、その後ろから——

 奴らが、出てきた。

 ひとり、ふたり、みっつ、よっつ。

 四人。

 四人の奴らが、女の子を、追っていた。

 四人とも、ふらふらしているのではなかった。

 四人とも、走っていた。

 建一が、低く、つぶやいた。

「——走るやつたい」



 女の子は、ふたりの脇を、駆け抜けて、すぐ後ろまで、来た。

 彼女の顔は、汗と、何かで、汚れていた。目が、いっぱいに、見開かれていた。口は、半開きで、息が、苦しそうだった。

 彼女は、ふたりの間を、抜けようとした。

 建一が、女の子の腕を、つかんだ。

「——こっち!」

 女の子は、一瞬、抵抗した。けれど、建一の力のほうが、強かった。

「あんた、後ろ、走れる?」

「——」

 建一は、女の子を、美咲のほうに、押した。

「みさきさん、この子と、いっしょに、後ろの路地に、戻って!」

「——建一さん!」

「俺が、奴らを、引きつける!」

「——」

「行け!」


 建一は、木刀を、両手で、構え直した。

 彼の顔は、こちらを、見なかった。

 見なかったから、美咲は、彼の顔を、覚えておかなかった。覚えておかなかったことを、あとから、後悔した。


 美咲は、女の子の手を、つかんだ。

 女の子の手は、小さくて、汗で、ぬるぬる、していた。

「——いっしょに、来て」

「——」

「いっしょに、来て!」


 美咲は、女の子の手を、ひっぱって、来た方向に、戻り始めた。

 戻りながら、彼女は、自分の足が、まだ、思うように、動かないことに、気づいた。

 杖をついて、引っ張って、引っ張って。

 女の子は、最初、抵抗していた。けれど、すぐに、抵抗をやめて、美咲の手を、ぎゅっと、握り返した。

 握り返した手のほうが、子どもの手なのに、ずっと、強かった。


 後ろで、奴らの、唸り声が、聞こえた。

 四つの唸り声。

 そのうちの、最初のひとつに、建一の、低い、叫び声が、重なった。

 叫び声のあと、木が、骨を、打つ、音が、した。

 骨を打つ音は、にぶかった。

 にぶい音は、二回、三回、四回——続いた。



 美咲は、女の子と、いっしょに、来た路地の、別の角の、家の影に、ようやく、たどり着いた。

 たどり着いて、彼女は、しゃがんだ。しゃがまないと、立っていられなかった。

 女の子も、いっしょに、しゃがんだ。

「——」

「——」

「あんた、噛まれとらん?」

 美咲は、女の子の、首と、腕と、足を、すばやく、確認した。

 怪我は、なかった。

 女の子の、ピンクのパーカーの袖が、すこし、破れていた。けれど、皮膚には、傷は、なかった。

「——大丈夫」

「——」

「あんた、声、出さんでいい」

「——」

 女の子は、頷いた。

 頷きながら、彼女は、自分の手の中の、何かを、ぎゅっと、握っていた。

 何を、握っているかは、よく、見えなかった。


 後ろのほうから、まだ、骨を打つ音が、続いていた。

 しばらくして、音は、止んだ。

 止んだあとに、しずけさが、戻った。

 しずけさのなかで、美咲は、息を、ひそめた。

 女の子も、ひそめた。


 二人は、しばらく、家の影で、しゃがんだまま、動かなかった。



 建一の、足音が、戻ってきた。

 彼の足音は、すこし、速かった。けれど、走ってはいなかった。

 彼は、家の影に、しゃがむ、二人のところに、到着した。

 到着して、彼は、両膝に、手を、ついて、しばらく、肩で、息を、した。

「——みさきさん」

「——うん」

「無事か?」

「うん、無事」

「この子も?」

「うん」

「——よかった」


 建一は、額の汗を、手の甲で、拭った。拭った手の甲には、自分の汗と、別の何かが、混じっていた。

 木刀の先には、新しい、湿った跡が、ついていた。

 彼は、それを、家の塀に、ごしごしと、こすりつけて、簡単に、落とした。


「四人、全部、片付けた」

「——」

「奴ら、走るやつ、増えとう」

「——」

「ふらふらしとうやつだけと、思っとったら、いかんね」

「——」

 建一は、しゃがんで、女の子の、顔を、覗き込んだ。

「あんた、名前、教えてくれる?」

「——」

 女の子は、答えなかった。

 答えないまま、彼女は、建一の顔を、警戒した目で、見ていた。

「答えんでよか」と、建一は、低く、言った。

「答えんでも、よか。あんた、ね、いま、無事。それが、いちばん大事」

「——」

「あんた、おうち、ある?」

 女の子は、頷かなかった。

 首も、振らなかった。

 ただ、目を、伏せた。

 目を、伏せたまま、彼女は、口の中で、小さく、なにかを、つぶやいた。

 つぶやいた声は、聞き取れなかった。


 建一は、しばらく、彼女を、見ていた。

 見たあと、彼は、ゆっくり、立ち上がった。

「みさきさん」

「うん」

「この子、いっしょに、消防署まで、連れていこう」

「うん」

「いまの、状態で、独りで、置いてはいけん」

「——うん」

「あんた、ね」と、建一は、女の子のほうへ、もう一度、しゃがんだ。

「俺たち、博多消防署、行きよる」

「——」

「ぼくらと、一緒に、行こう」

「——」

「行きたくないなら、それでも、よか。けど、あんたを、ここに、ひとり、置いて、行くわけには、いかん」

「——」

「いっしょに、行くね?」


 女の子は、しばらく、答えなかった。

 答えないまま、彼女は、美咲のほうを、ちらっと、見た。

 美咲は、女の子に、頷いてみせた。

 頷いてみせて、彼女は、低く、言った。

「あんた、ね」

「——」

「わたしも、ね、ふた月、寝とった」

「——」

「ふた月、病院で。さっき、目を覚ましたばっかり」

「——」

「だから、わたしも、いまの世界のこと、よう、わからん。あんたと、似たごたあ立場たい」

「——」

「だから、いっしょに、行ってくれたら、わたしも、ありがたい」

「——」


 女の子は、しばらく、美咲を、見ていた。

 見たあと、彼女は、ようやく、口を、開いた。

 声は、低かった。けれど、しっかりしていた。

「——わかった」



 三人で、また、路地を、進み始めた。

 女の子は、美咲の、すぐ横を、歩いた。建一は、相変わらず、半歩、斜め後ろ。

 歩いているあいだ、女の子は、ずっと、無言だった。

 無言のまま、彼女は、自分の手の中の、何かを、ずっと、握っていた。

 美咲は、ときどき、横目で、彼女を、見た。

 彼女の顔は、子どもの顔だった。けれど、目だけは、子どもの目ではなかった。

 子どもの目、というのが、何かは、美咲には、はっきりとは、わからなかった。

 わからないけれど、自分の知っている、子どもの目では、なかった。

 たぶん、二週間か、三週間で、ぜんぶの「子どもの目」が、彼女のなかから、抜け落ちた。

 抜け落ちたものは、戻らないかもしれなかった。

 戻らないかもしれない、ということを、美咲は、しずかに、認めた。


 路地を、十分ほど、進んだ。

 建一は、彼女に、ペットボトルの水を、渡した。

「飲んで」

「——」

「ちょっとずつ、ね」

 女の子は、両手で、ボトルを、受け取った。

 飲み方は、慎重だった。慎重に、ふた口、飲んで、彼女は、ボトルを、建一に、返した。

「ありがとう」と、彼女は、初めて、礼を言った。

 声は、まだ、低かった。

 でも、礼の言葉は、ふつうの、子どもの、丁寧な言葉、だった。



「——あんた、お名前」と、美咲は、もう一度、訊いた。

「——」

 女の子は、しばらく、返事を、しなかった。

 返事をしないまま、彼女は、自分の、握っていた手のひらを、ゆっくり、開いた。

 開いた手のひらの上に、小さな、銀色の、何かが、あった。

 よく見ると、それは、文字盤のない、壊れた腕時計の、小さなコマのようなものだった。

「——お父さんの、時計」と、女の子は、低く、言った。

「——お父さんの」

「うん」

「——」

「凛、たい」と、彼女は、つけ加えた。

「わたし、凛」

「——凛ちゃん」

「うん」

「いい、名前ね」

「——」

「お父さんが、つけてくれた?」

「うん」

「お父さんは——」

 凛は、しばらく、答えなかった。

 答えないまま、彼女は、もう一度、手のひらを、閉じた。閉じた手のひらの中の、銀色の、時計のコマを、ぎゅっと、握り直した。

 握り直したあと、彼女は、低く、つけ加えた。

「——もう、お父さんも、お母さんも、おらん」

「——うん」

「目の前で、おらんごとなった」

「——うん」

「——」

「だから、いまは、ひとり」

「——」


 美咲は、何も、言えなかった。

 何も、言えないまま、彼女は、凛の、肩に、軽く、手を、置いた。

 凛は、その手を、振り払わなかった。

 振り払わなかったから、美咲は、しばらく、その手を、置いたままに、した。



 三人は、また、歩き始めた。

 博多消防署の本署は、もうすぐだった。

 建一は、地図を、もう一度、確認した。

「——あと、五百メートル」

「うん」

「凛ちゃん」

「——うん」

「あんた、いままで、どこに、隠れとった?」

「——」

「コンビニ」

「コンビニ?」

「うん。家から、走って、コンビニの、裏の、倉庫」

「——」

「ひとりで、何日くらい?」

「——一週間、くらい」

「一週間」

「うん」

「——一週間も、ひとりで」

「うん」

「えらい、ね」

「——えらい、って、何?」

「——」

「えらい、というのは、よう、頑張った、ということたい」

「——」

 凛は、しばらく、考えた。

「——えらい、って、つかれた、っていう意味」

「——」

「博多弁の、もうひとつの意味」

「うん、たい」

「うちは、ね、つかれた」と、凛は、しずかに、つけ加えた。

「うん」と、美咲も、しずかに、答えた。

「うちも、つかれた」

「——うん」


 二人は、しばらく、目で、頷きあった。

 博多弁の「えらい」は、頑張った、と、つかれた、の、二つの意味を、両方、持っていた。

 その、両方を、両方、持つ言葉が、いまの彼女たちには、いちばん、ふさわしかった。



 博多消防署の、本署の、建物が、見えてきた。

 四階建ての、灰色の、コンクリートの建物だった。

 建物の前の、駐車場には、消防車が、二台、停まっていた。一台は、扉が、開いたままだった。もう一台は、扉が、しっかり、閉まっていた。

 建物の、入口の、自動ドアは、開いたままだった。

 誰かが、内側から、ストッパーで、固定したのか。

 あるいは、外から、誰かが、無理に、開けたのか。

 わからなかった。


 建一は、しばらく、建物の前で、立ち止まった。

「——みさきさん」

「うん」

「中、見てくる」

「——」

「凛ちゃんと、ここで、待っとって」

「うん」

「俺、戻ってくる。必ず」

「うん」


 建一は、木刀を、両手で、構えて、入口の自動ドアを、抜けて、建物の、なかに、消えていった。

 美咲と、凛は、駐車場の、消防車の影に、しゃがんで、待った。

 待ちながら、美咲は、リュックの中に、しまった、翔太の手紙のことを、思い出した。

「ぼくは、君を、信じる」

 信じている人が、いまも、この建物の中に、いるかどうか。

 いるなら、すぐに、会える。

 いないなら——

 いないなら、また、別の場所を、探す。

 探す、ということを、彼女は、もう、覚悟していた。


 凛は、美咲の隣で、しゃがんだまま、無言で、待っていた。

 彼女の手は、また、銀色の、時計のコマを、握っていた。

 時計のコマを、握る彼女の指の、しっかりした強さが、美咲には、わかった。

 しっかりした強さが、いまの彼女が、ひとりで、一週間、生き延びた、唯一の理由だった。


 春の、終わりの、六日目の朝が、こうして、博多区の、駐車場のうえに、降りていた。


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