第7章 凛
五月十七日、朝。
翔太のマンションを、二人は、出た。
出る前に、美咲は、もう一度、リビングを、見回した。
翔太の手紙の四枚は、彼女が、リュックの、内側に、しまった。リュック——翔太が、最後に残してくれた、彼の出動用のリュック——を、美咲は、自分の背中に、背負っていた。
翔太の長靴は、玄関に、そのまま、残した。
残しておけば、翔太が、もし、いつか、ここに、戻ってくることがあれば、自分のものを、見つけられる。
戻ってくる、ということが、ありえないかもしれない、と、彼女は、知っていた。
知っていても、長靴は、置いていった。
建一は、玄関で、待っていた。
彼の、肩にかけた木刀の、先端の方に、ほんの少しだけ、新しい湿り気が、ついていた。
昨日の、橋のうえの、奴らとは、別の何かを、夜のあいだに、彼は、片付けたのかもしれなかった。
訊かなかった。
「みさきさん、いい?」
「うん」
「行こう」
ドアの鍵は、内側から、回した。
回した鍵は、消火栓の、いつもの場所には、もう、戻さなかった。
翔太が、彼女に、託した鍵だった。
彼女が、持っていくのが、自然だった。
*
住吉の街並みは、朝の、薄い光のなかで、しずかだった。
あの古い住吉神社の鳥居は、今朝も、立っていた。
二人は、鳥居を、左に見ながら、北へ向かった。
博多消防署の本署は、博多駅の、北側にあった。住吉から、北へ、約一キロ。
いつもなら、十五分の距離。今日の彼女には、一時間半。
歩きながら、建一は、地図を、ときどき、確認した。
地図は、コンビニで、彼が、見つけた、観光地図だった。福岡市内の、観光地が、色つきで、印刷されている。
「みさきさん」
「うん」
「博多駅の前は、避けたほうがよかね」
「——」
「駅の前は、たぶん、奴らが、いちばん多い」
「——なんで?」
「人が、最後に、集まった場所、たい。電車が、止まる前まで、ね、市内のあちこちから、人が、駅に集まっとった」
「——」
「テレビが、止まる前の最後の映像、駅前の、避難所の、映像やった」
「——」
「集まった人たちが、奴らになって、いまも、駅前を、うろうろしとう」
「——」
「だから、駅は、迂回しよう」
「うん」
彼らは、駅の、西側の、住宅街の、路地を、抜けて、消防署の方角に、向かうことにした。
住宅街の路地は、せまかった。両側の家のうち、半分は、雨戸が、閉まっていた。半分は、ドアが、半分、開いていた。半分開いたドアの内側を、二人は、見ないようにして、通り過ぎた。
*
路地を、二十分ほど、進んだあたりだった。
突然、前方から——
走る、足音が、聞こえた。
小さな、軽い足音だった。子どもの足音だった。
建一が、ぱっと、立ち止まった。
立ち止まって、木刀を、両手で、構え直した。
美咲も、足を、止めた。
「——みさきさん、後ろ」
「うん」
建一は、彼女を、自分の、後ろに、押し下げた。
路地の、前方の、角から——
女の子が、飛び出してきた。
十歳くらいの、女の子だった。
短いショートカット。黒い髪。汚れた、ピンクのパーカー。
手に、何かを、ぎゅっと、握っていた。
女の子は、こちらを、見て、一瞬、目を、見開いた。けれど、すぐに、また、走り出した。
走り出した、その後ろから——
奴らが、出てきた。
ひとり、ふたり、みっつ、よっつ。
四人。
四人の奴らが、女の子を、追っていた。
四人とも、ふらふらしているのではなかった。
四人とも、走っていた。
建一が、低く、つぶやいた。
「——走るやつたい」
*
女の子は、ふたりの脇を、駆け抜けて、すぐ後ろまで、来た。
彼女の顔は、汗と、何かで、汚れていた。目が、いっぱいに、見開かれていた。口は、半開きで、息が、苦しそうだった。
彼女は、ふたりの間を、抜けようとした。
建一が、女の子の腕を、つかんだ。
「——こっち!」
女の子は、一瞬、抵抗した。けれど、建一の力のほうが、強かった。
「あんた、後ろ、走れる?」
「——」
建一は、女の子を、美咲のほうに、押した。
「みさきさん、この子と、いっしょに、後ろの路地に、戻って!」
「——建一さん!」
「俺が、奴らを、引きつける!」
「——」
「行け!」
建一は、木刀を、両手で、構え直した。
彼の顔は、こちらを、見なかった。
見なかったから、美咲は、彼の顔を、覚えておかなかった。覚えておかなかったことを、あとから、後悔した。
美咲は、女の子の手を、つかんだ。
女の子の手は、小さくて、汗で、ぬるぬる、していた。
「——いっしょに、来て」
「——」
「いっしょに、来て!」
美咲は、女の子の手を、ひっぱって、来た方向に、戻り始めた。
戻りながら、彼女は、自分の足が、まだ、思うように、動かないことに、気づいた。
杖をついて、引っ張って、引っ張って。
女の子は、最初、抵抗していた。けれど、すぐに、抵抗をやめて、美咲の手を、ぎゅっと、握り返した。
握り返した手のほうが、子どもの手なのに、ずっと、強かった。
後ろで、奴らの、唸り声が、聞こえた。
四つの唸り声。
そのうちの、最初のひとつに、建一の、低い、叫び声が、重なった。
叫び声のあと、木が、骨を、打つ、音が、した。
骨を打つ音は、にぶかった。
にぶい音は、二回、三回、四回——続いた。
*
美咲は、女の子と、いっしょに、来た路地の、別の角の、家の影に、ようやく、たどり着いた。
たどり着いて、彼女は、しゃがんだ。しゃがまないと、立っていられなかった。
女の子も、いっしょに、しゃがんだ。
「——」
「——」
「あんた、噛まれとらん?」
美咲は、女の子の、首と、腕と、足を、すばやく、確認した。
怪我は、なかった。
女の子の、ピンクのパーカーの袖が、すこし、破れていた。けれど、皮膚には、傷は、なかった。
「——大丈夫」
「——」
「あんた、声、出さんでいい」
「——」
女の子は、頷いた。
頷きながら、彼女は、自分の手の中の、何かを、ぎゅっと、握っていた。
何を、握っているかは、よく、見えなかった。
後ろのほうから、まだ、骨を打つ音が、続いていた。
しばらくして、音は、止んだ。
止んだあとに、しずけさが、戻った。
しずけさのなかで、美咲は、息を、ひそめた。
女の子も、ひそめた。
二人は、しばらく、家の影で、しゃがんだまま、動かなかった。
*
建一の、足音が、戻ってきた。
彼の足音は、すこし、速かった。けれど、走ってはいなかった。
彼は、家の影に、しゃがむ、二人のところに、到着した。
到着して、彼は、両膝に、手を、ついて、しばらく、肩で、息を、した。
「——みさきさん」
「——うん」
「無事か?」
「うん、無事」
「この子も?」
「うん」
「——よかった」
建一は、額の汗を、手の甲で、拭った。拭った手の甲には、自分の汗と、別の何かが、混じっていた。
木刀の先には、新しい、湿った跡が、ついていた。
彼は、それを、家の塀に、ごしごしと、こすりつけて、簡単に、落とした。
「四人、全部、片付けた」
「——」
「奴ら、走るやつ、増えとう」
「——」
「ふらふらしとうやつだけと、思っとったら、いかんね」
「——」
建一は、しゃがんで、女の子の、顔を、覗き込んだ。
「あんた、名前、教えてくれる?」
「——」
女の子は、答えなかった。
答えないまま、彼女は、建一の顔を、警戒した目で、見ていた。
「答えんでよか」と、建一は、低く、言った。
「答えんでも、よか。あんた、ね、いま、無事。それが、いちばん大事」
「——」
「あんた、おうち、ある?」
女の子は、頷かなかった。
首も、振らなかった。
ただ、目を、伏せた。
目を、伏せたまま、彼女は、口の中で、小さく、なにかを、つぶやいた。
つぶやいた声は、聞き取れなかった。
建一は、しばらく、彼女を、見ていた。
見たあと、彼は、ゆっくり、立ち上がった。
「みさきさん」
「うん」
「この子、いっしょに、消防署まで、連れていこう」
「うん」
「いまの、状態で、独りで、置いてはいけん」
「——うん」
「あんた、ね」と、建一は、女の子のほうへ、もう一度、しゃがんだ。
「俺たち、博多消防署、行きよる」
「——」
「ぼくらと、一緒に、行こう」
「——」
「行きたくないなら、それでも、よか。けど、あんたを、ここに、ひとり、置いて、行くわけには、いかん」
「——」
「いっしょに、行くね?」
女の子は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、彼女は、美咲のほうを、ちらっと、見た。
美咲は、女の子に、頷いてみせた。
頷いてみせて、彼女は、低く、言った。
「あんた、ね」
「——」
「わたしも、ね、ふた月、寝とった」
「——」
「ふた月、病院で。さっき、目を覚ましたばっかり」
「——」
「だから、わたしも、いまの世界のこと、よう、わからん。あんたと、似たごたあ立場たい」
「——」
「だから、いっしょに、行ってくれたら、わたしも、ありがたい」
「——」
女の子は、しばらく、美咲を、見ていた。
見たあと、彼女は、ようやく、口を、開いた。
声は、低かった。けれど、しっかりしていた。
「——わかった」
*
三人で、また、路地を、進み始めた。
女の子は、美咲の、すぐ横を、歩いた。建一は、相変わらず、半歩、斜め後ろ。
歩いているあいだ、女の子は、ずっと、無言だった。
無言のまま、彼女は、自分の手の中の、何かを、ずっと、握っていた。
美咲は、ときどき、横目で、彼女を、見た。
彼女の顔は、子どもの顔だった。けれど、目だけは、子どもの目ではなかった。
子どもの目、というのが、何かは、美咲には、はっきりとは、わからなかった。
わからないけれど、自分の知っている、子どもの目では、なかった。
たぶん、二週間か、三週間で、ぜんぶの「子どもの目」が、彼女のなかから、抜け落ちた。
抜け落ちたものは、戻らないかもしれなかった。
戻らないかもしれない、ということを、美咲は、しずかに、認めた。
路地を、十分ほど、進んだ。
建一は、彼女に、ペットボトルの水を、渡した。
「飲んで」
「——」
「ちょっとずつ、ね」
女の子は、両手で、ボトルを、受け取った。
飲み方は、慎重だった。慎重に、ふた口、飲んで、彼女は、ボトルを、建一に、返した。
「ありがとう」と、彼女は、初めて、礼を言った。
声は、まだ、低かった。
でも、礼の言葉は、ふつうの、子どもの、丁寧な言葉、だった。
*
「——あんた、お名前」と、美咲は、もう一度、訊いた。
「——」
女の子は、しばらく、返事を、しなかった。
返事をしないまま、彼女は、自分の、握っていた手のひらを、ゆっくり、開いた。
開いた手のひらの上に、小さな、銀色の、何かが、あった。
よく見ると、それは、文字盤のない、壊れた腕時計の、小さなコマのようなものだった。
「——お父さんの、時計」と、女の子は、低く、言った。
「——お父さんの」
「うん」
「——」
「凛、たい」と、彼女は、つけ加えた。
「わたし、凛」
「——凛ちゃん」
「うん」
「いい、名前ね」
「——」
「お父さんが、つけてくれた?」
「うん」
「お父さんは——」
凛は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、彼女は、もう一度、手のひらを、閉じた。閉じた手のひらの中の、銀色の、時計のコマを、ぎゅっと、握り直した。
握り直したあと、彼女は、低く、つけ加えた。
「——もう、お父さんも、お母さんも、おらん」
「——うん」
「目の前で、おらんごとなった」
「——うん」
「——」
「だから、いまは、ひとり」
「——」
美咲は、何も、言えなかった。
何も、言えないまま、彼女は、凛の、肩に、軽く、手を、置いた。
凛は、その手を、振り払わなかった。
振り払わなかったから、美咲は、しばらく、その手を、置いたままに、した。
*
三人は、また、歩き始めた。
博多消防署の本署は、もうすぐだった。
建一は、地図を、もう一度、確認した。
「——あと、五百メートル」
「うん」
「凛ちゃん」
「——うん」
「あんた、いままで、どこに、隠れとった?」
「——」
「コンビニ」
「コンビニ?」
「うん。家から、走って、コンビニの、裏の、倉庫」
「——」
「ひとりで、何日くらい?」
「——一週間、くらい」
「一週間」
「うん」
「——一週間も、ひとりで」
「うん」
「えらい、ね」
「——えらい、って、何?」
「——」
「えらい、というのは、よう、頑張った、ということたい」
「——」
凛は、しばらく、考えた。
「——えらい、って、つかれた、っていう意味」
「——」
「博多弁の、もうひとつの意味」
「うん、たい」
「うちは、ね、つかれた」と、凛は、しずかに、つけ加えた。
「うん」と、美咲も、しずかに、答えた。
「うちも、つかれた」
「——うん」
二人は、しばらく、目で、頷きあった。
博多弁の「えらい」は、頑張った、と、つかれた、の、二つの意味を、両方、持っていた。
その、両方を、両方、持つ言葉が、いまの彼女たちには、いちばん、ふさわしかった。
*
博多消防署の、本署の、建物が、見えてきた。
四階建ての、灰色の、コンクリートの建物だった。
建物の前の、駐車場には、消防車が、二台、停まっていた。一台は、扉が、開いたままだった。もう一台は、扉が、しっかり、閉まっていた。
建物の、入口の、自動ドアは、開いたままだった。
誰かが、内側から、ストッパーで、固定したのか。
あるいは、外から、誰かが、無理に、開けたのか。
わからなかった。
建一は、しばらく、建物の前で、立ち止まった。
「——みさきさん」
「うん」
「中、見てくる」
「——」
「凛ちゃんと、ここで、待っとって」
「うん」
「俺、戻ってくる。必ず」
「うん」
建一は、木刀を、両手で、構えて、入口の自動ドアを、抜けて、建物の、なかに、消えていった。
美咲と、凛は、駐車場の、消防車の影に、しゃがんで、待った。
待ちながら、美咲は、リュックの中に、しまった、翔太の手紙のことを、思い出した。
「ぼくは、君を、信じる」
信じている人が、いまも、この建物の中に、いるかどうか。
いるなら、すぐに、会える。
いないなら——
いないなら、また、別の場所を、探す。
探す、ということを、彼女は、もう、覚悟していた。
凛は、美咲の隣で、しゃがんだまま、無言で、待っていた。
彼女の手は、また、銀色の、時計のコマを、握っていた。
時計のコマを、握る彼女の指の、しっかりした強さが、美咲には、わかった。
しっかりした強さが、いまの彼女が、ひとりで、一週間、生き延びた、唯一の理由だった。
春の、終わりの、六日目の朝が、こうして、博多区の、駐車場のうえに、降りていた。




