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春の終わりに目覚める  作者: モモンガ太郎


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第6章 翔太の不在

 五月十六日、朝。

 空は、薄曇りだった。

 美咲は、夜明け前に、目を覚ました。

 窓の外は、まだ、青みがかった暗さだった。けれど、家の、空気の質が、もう、起きるべき時間を、教えていた。彼女は、ゆっくり、ベッドの端に、足を、下ろした。

 昨日のリハビリのおかげで、起き上がりが、ふた呼吸ほど、楽だった。


 建一は、もう、リビングで、リュックを、整えていた。

「みさきさん、朝」

「うん」

「準備、できとう?」

「——もうすぐ」

「ゆっくり、よか」


 朝食は、簡単に、済ませた。

 乾パン、缶詰の、桃の、シロップ漬け、ペットボトルの水。

 桃の缶詰は、建一が、昨日、コンビニから持ってきたものだった。シロップが、舌のうえで、ふしぎなほど、甘かった。甘さが、しばらく、口の奥に、残った。

「みさきさん、桃、好き?」

「うん、好き」

「翔太さんは?」

「——あんまり、果物、食べん」

「ふっ、よか」

「なんで?」

「会えたら、桃の缶詰、土産にしような。喜ばれるかどうか、わからんけど」

「——うん」


 美咲は、軽く、笑った。

 笑える、ということが、まだ、自分のなかに、残っていた。



 出発の前に、美咲は、しばらく、リビングに、立っていた。

 立って、家のなかを、見回した。

 ソファ、テーブル、本棚、観葉植物。観葉植物の葉は、もう、ほとんど、茶色だった。それでも、いちばん下の、若い葉だけは、まだ、わずかに、緑だった。

 ベッドの脇の、写真立てを、彼女は、手に取った。

 糸島の海岸の、翔太と、自分と。

 持っていきたかった。

 持っていけば、もし、リュックが、奴らの手に、引き渡されるようなことが、あったら、写真も、いっしょに、奪われる。

 彼女は、写真立てから、写真だけを、抜いた。抜いた写真を、布のかばんの、奥の、いちばん安全な場所に、しまった。

 写真立ては、ベッドの脇に、戻した。

 戻した写真立てが、空のままで、夜の机のうえに、立っていた。

 空のまま、と、いう状態を、彼女は、しばらく、見ていた。


「みさきさん」

「うん」

「いつでも、行ける?」

「うん」

「——よし」


 二人は、玄関を、出た。

 玄関の鍵を、美咲が、自分で、回した。

 回した鍵が、軽く、回った。

 軽く回ったのは、たぶん、もう、戻ってこない部屋に、心が、すでに、別れを告げていたから、だった。



 マンションの、エントランスを、抜けた。

 路地に、出る前に、美咲は、ふと、向かいのマンションの、三階か、四階の、ベランダのほうを、見た。

 昨日、女の子の影を、見た、あのベランダだった。

 今朝は、カーテンが、ぴったり、閉じていた。

 ぴったり、というよりも、内側から、ガムテープで、塞いだような、不自然な、閉じ方だった。

 その内側に、女の子が、まだ、いるのか。それとも、もう、いないのか。

 わからなかった。

 わからないまま、美咲は、視線を、進行方向に、戻した。


 建一は、彼女の、半歩、斜め後ろを、歩いた。

 いつもの位置だった。



 警固から、博多区まで——直線では、四キロ。

 彼らが、選んだ道は、直線ではなかった。

 大通りを、避けて、住宅街の、細い路地と、公園の、裏道を、つないだ。

 歩く速度は、ゆっくりだった。一時間に、せいぜい、千メートル。それでも、二人は、足を、止めなかった。


 歩いているあいだ、何度か、奴らを、遠目に、見た。

 いちばん最初は、住宅街の、駐車場の奥、で。男が、ふらふらと、車の影で、左右に、揺れていた。

 二度目は、公園の、ベンチに、座っているような格好で。動かなかった。けれど、確かに、奴らだった。生きている人は、ああいう座り方は、しない。

 三度目は、四つ、五つ、まとまって、団地の、入口のあたりに、集まっていた。

 建一は、すべてを、避けた。避けるたびに、迂回した。

 迂回するたびに、距離は、長くなった。

 長くなる距離を、二人は、辛抱強く、進んだ。


「みさきさん、休もう」

 建一は、薬局の、軒下に、彼女を、座らせた。

 薬局の、シャッターは、半分、下りていた。下りた、シャッターの、隙間から、店のなかが、見えた。商品の棚は、ほとんど、空だった。

「——大丈夫?」

「うん」

「足、痛くない?」

「ちょっと痛い。でも、まだ、いける」

「——」

「水、飲もう」


 建一は、ペットボトルを、出した。美咲は、ふた口、飲んだ。建一も、ひと口、飲んだ。

 残りは、慎重に、しまった。

 水を、節約する、というのは、二日前まで、彼女が、知らなかった習慣だった。



 昼前、二人は、那珂川の橋の、手前に、着いた。

 那珂川——福岡市内を、南北に、流れる、川。橋は、いくつもあった。彼らが、選んだのは、いちばん、小さい、歩道専用の、橋だった。

 橋は、五十メートルほどの長さだった。橋の、上には、誰もいなかった。

 ただし、橋の、手前の、こちら岸の歩道に、二、三台の、車が、横転していた。横転した車の、ボンネットには、何かの、湿った跡が、こびりついていた。湿った跡は、新しくは、ない、ようだった。

 彼らは、横転した車の、影に、しゃがんで、しばらく、橋の様子を、見た。

 誰も、いなかった。

 川の、水音だけが、聞こえていた。

 水音は、ふしぎに、生きていた。


「みさきさん、ね」

「うん」

「橋、一気に、渡る」

「うん」

「途中で、何があっても、立ち止まらん」

「うん」

「奴らが、向こうから、来ても、こちらに、戻る。引き返す」

「うん」

「もし、こっち岸から、奴らに、追いつかれたら——」

「——」

「俺が、橋のうえで、奴らを、引きつける」

「——」

「あんたは、向こう岸まで、走る」

「——」

「最後の手段、たい」

「うん」

「行く」


 二人は、車の影から、出た。

 橋の、こちら岸の、たもとを、踏んだ。

 建一が、先に行った。美咲は、杖をついて、その、半歩後ろを、ついていった。

 歩道の幅は、二人が、ちょうど、並んで歩けるくらいだった。



 橋の、半分まで、来た。

 風が、川のうえを、横切って、二人の頬を、撫でた。

 風のなかに、川の匂いと、なにかの、別の匂いが、混じっていた。

 別の匂い、というのが、何かは、わからなかった。

 わからないまま、二人は、進んだ。


 橋の、四分の三、まで、来た。

 そのとき——

 向こう岸の、たもとに、何かが、出てきた。

 ひとりではなかった。

 ふたり、いや、三人。

 三人とも、奴らだった。

 彼らは、ふらふらと、橋のほうへ、歩み出した。


 建一が、足を、止めた。

 止めて、ふっと、息を、吐いた。

 吐いた息のあと、彼は、低く、言った。

「みさきさん」

「——うん」

「下に、降りる」

「——下?」

「橋の、下たい」


 建一は、橋の、欄干の、すぐそばに、しゃがんだ。

 欄干の、外側には、補修用の、細い、足場のような、出っ張りが、あった。コンクリートの、幅、三十センチほどの、出っ張り。橋の、両側に、長く、続いていた。

 建一は、その、出っ張りを、指さした。

「あそこに、降りて、橋の下に、隠れる」

「——降りられる?」

「ゆっくり、降りれば、行ける」

「——」

「上の奴らは、たぶん、橋を、通り過ぎる。橋の下に、降りれば、奴らからは、見えん」

「——」


 美咲は、欄干の、外側の、出っ張りを、覗いた。

 怖かった。下を、見れば、川面まで、五メートルくらい、ある。

 でも、上で、奴らを、待つほうが、もっと、怖かった。

「——降りる」

「俺が、先に、行く」

「うん」



 建一は、欄干を、またいで、出っ張りに、降りた。

 降りたあと、彼は、両手で、欄干の、外側に、つかまった。

 美咲は、彼の、すぐ後ろから、欄干を、またいだ。

 またいだ瞬間、足の力が、抜けかけた。建一が、すぐに、彼女の腰を、つかんで、支えた。

「みさきさん、大丈夫」

「——」

「両足、出っ張りに、置く。ゆっくり」

「うん」

「上を、見る。下、見ん」

「うん」


 美咲は、両足を、出っ張りに、置いた。

 出っ張りは、思ったよりも、しっかり、していた。

 二人は、出っ張りのうえで、しゃがんだ。しゃがんで、欄干に、つかまった。

 頭の上を、何かが、ふらふら、と通り過ぎる、音が、した。

 奴らの、足音だった。

 一人、二人、三人。

 三つの足音が、橋を、こちらから、向こうへ、向かって、通り過ぎた。

 通り過ぎて、徐々に、遠くなった。

 風の音と、川の水音だけが、また、戻ってきた。


 二人は、しばらく、出っ張りのうえで、しゃがんだまま、動かなかった。

 動かないあいだ、美咲は、自分の鼓動の音を、聞いていた。

 鼓動は、いつもより、ずっと、速かった。

 速い、というのが、生きている、ということだった。



 建一は、欄干の上を、こっそり、覗いた。

「みさきさん、もう、おらんごたあ」

「——」

「上に、戻ろう」

「うん」


 二人は、出っ張りから、欄干の、上に、戻った。戻る動作のほうが、降りるよりも、楽だった。

 橋のうえに、戻った瞬間、美咲の足が、すこし、ふらついた。建一が、彼女を、ベンチではない、橋のたもとの、コンクリートの、低い壁に、座らせた。

「ちょっと、休もう」

「うん」

「水、飲んで」

「うん」

 美咲は、水を、飲んだ。

 飲んだ水が、喉のうえで、しばらく、止まった気がした。



 橋を、渡りきった先は、博多区だった。

 博多区は、警固とは、街の作りが、すこし、違った。

 オフィスビルが、多かった。マンションも、もうすこし、高層だった。道は、まっすぐ、東に、続いていた。

 翔太のマンションは、博多駅の、南、住吉のあたりにあった。

 駅まで、まだ、二キロほど。さらに、駅の南へ、五百メートル。

 二人は、また、住宅街の、細い路地を、選んで、進んだ。


 住吉の街並みは、福岡の、古いお寺と、住宅街が、入り混じった、場所だった。住吉神社の、大きな鳥居が、遠くに、見えた。鳥居は、まだ、立っていた。

 翔太のマンションは、その、鳥居から、三本入った、住宅街の、奥にあった。

 六階建ての、煉瓦色の、マンションだった。

 翔太の部屋は、四階の、四〇二号室。



 マンションの入口で、二人は、しばらく、立ち止まった。

 建一が、まず、エントランスのなかを、覗いた。

「——大丈夫、たい」

「うん」

「上、行こう」


 四階まで、階段を、ゆっくり、上った。

 階段の途中、二か所に、コーヒーの缶が、転がっていた。階段の壁には、誰かが、走り書きの、メモを、貼ったあとがあった。メモそのものは、剥がされていた。剥がされたあとの、テープの、跡だけが、壁に、残っていた。


 四〇二号室の、ドアの前で、美咲は、しばらく、立ち止まった。

 ドアの、新聞受けに、新聞が、二、三日分、突っ込まれたまま、止まっていた。日付は、四月の、中ばのものだった。それより、新しい新聞は、なかった。たぶん、配達そのものが、止まったのが、それ以降だった。

 ドアの、表札には、彼の名前が、貼られていた。

 「春日 翔太」

 春日、というのが、翔太の姓だった。

 その文字を、美咲は、二ヶ月ぶりに、見た。


「鍵は——いつもの場所」と、メモには、書いてあった。

 いつもの場所、というのは、彼女と、翔太の、二人だけが、知っている場所だった。

 マンションの、ドアの、足元の、玄関マットの下、ではなかった。そんな見つかりやすい場所ではない。

 二人で、決めていた場所は——

 ドアの横の、消火栓の、内側だった。

 扉つきの、古い消火栓。中の、消火器の、台のところ。


 美咲は、消火栓の、扉を、開けた。

 消火器は、なかった。誰かが、持っていったのか、もとから、置いていなかったのか。

 代わりに、台のうえに、銀色の、鍵が、ひとつ、置いてあった。

 鍵には、小さな、紙の、タグが、ついていた。

 タグには、彼の字で、「みさきへ」と、書かれていた。


 美咲は、鍵を、手に取った。

 手に取った瞬間、彼女の指が、震えた。

 震えた指で、彼女は、鍵を、ドアの、鍵穴に、差し込んだ。

 鍵が、回った。

 扉が、開いた。



 翔太の部屋は、まだ、翔太の部屋のままだった。

 玄関に、彼の、消防の、長靴が、一足、置いてあった。

 長靴の、横に、彼の、出動用の、リュックが、半分、開いた状態で、置いてあった。

 リュックの中には、まだ、いくつかの、医療用の、テープと、消毒液と、簡単な、絆創膏が、入っていた。

 使い切れずに、残ったままだった。


 リビングに、入った。

 リビングのテーブルのうえに——

 封筒が、ひとつ、置いてあった。

 大きな、茶色い、封筒。

 封筒のうえに、彼の字で、こう、書かれていた。

 「みさきへ」


 美咲は、テーブルの前に、座った。

 建一は、玄関のそばで、待っていた。

「みさきさん、ね、俺、ちょっと、ベランダのほう、見てくる」

「——」

「気を、つかわんでよか。あんたが、ゆっくり、読めるごと」

「うん」

「——」

 建一は、リビングの奥のほうへ、消えていった。


 美咲は、両手で、封筒を、開けた。

 中には、何枚かの、紙が、入っていた。

 彼の字で、書かれた、手紙だった。

 手紙の、いちばん上に、こう、書かれていた。


「みさきへ。

 君が、これを読んだとき、ぼくは、たぶん、もう、家には、いない。

 もし、もし、いま、君が、ここに、立っとうなら。

 君が、目を覚ましてくれたんやね。

 ぼくは、嬉しい。

 嬉しいということを、まず、書いておく。

 以下は、ぼくの、見てきたことたい。」


 美咲は、しばらく、手紙の、最初の数行から、目を、離せなかった。

 離せないまま、彼女の頬を、また、涙が、伝った。

 涙は、止まらなかった。

 止まらないまま、彼女は、続きを、読み始めた。



 手紙は、四枚あった。

 日付は、五月七日。

 翔太は、三月の終わりから、五月の頭までの、二か月のことを、淡々と、書いていた。


「最初の、感染が、発覚したのは、三月二十八日、たい。

 博多消防署の、出動記録は、その日から、ずっと、変な事例が、増えとった。

 四月の頭には、もう、ぼくらは、現場で、奴らを、見るごとになっとった。

 四月の中ば、政府が、緊急事態を、宣言した。

 でも、もう、遅かった。

 四月の終わりには、消防署も、半分、機能停止。署員の、半分は、感染するか、行方不明。

 ぼくは、何度か、現場で、奴らに、噛まれそうになった。

 その都度、運がよくて、助かった。」


 美咲は、その「運がよくて」という言葉に、しばらく、目を、止めた。

 翔太の「運がよくて」は、誰かが、彼の身代わりに、なった、ということでもあった。

 それを、彼は、書かなかった。

 書かないことが、彼の優しさだった。


 手紙は、続いた。


「五月の頭、消防署に、十数人、残っとう。

 みんな、家族を、亡くしたか、家族と、はぐれたか、家族のために、命を、賭けて、ここに、残った人たち、たい。

 ぼくは、その、後者。

 みさきが、まだ、目を、覚まさない、と知っとう。

 でも、もし、目を、覚ましたら、君は、ぼくの家か、自分の家に、戻ってくるかもしれん。

 だから、ぼくは、両方に、メモを、残す。

 ぼくの家のほうには、こうやって、手紙も、置いとく。」


 次の頁。


「みさきへ。

 もし、君が、ぼくを、探しに来てくれたなら、博多消防署の本署に、来てくれ。

 ただし、危ない道は、絶対、選ばんで。

 君の、命のほうが、ぼくに会うこと、より、ずっと、大事。

 ぼくに、会えなくても、君が、生きて、どこかで、生きとってくれたら、それで、ぼくは、よか。

 ほんとに、よか。

 会えたら、もちろん、嬉しい。

 会えなかったら、それでも、君が、どこかで、生きとうこと、信じる。」


 美咲は、その頁を、何度も、読み返した。

 翔太は、「会えなくても、よか」と、書いていた。

 「会えたら、嬉しい」と、書いていた。

 その、二つを、両方、書く、というのは、ふしぎなことだった。

 ふしぎなことが、いまの彼の、いちばんの真実だった、と、彼女には、思えた。


 最後の頁。


「みさきへ。

 もし、ぼくが、消防署で、もう、いないとしたら——

 いくつかの、可能性が、ある。

 ひとつは、別の場所に、移動した。

 ひとつは、もう、生きとらん。

 ひとつは、奴らに、なった。

 どれでも、ぼくのことは、もう、忘れていい。

 いや、忘れてくれ。

 忘れんと、君は、進めん。

 君は、進まないかん。

 北九州の、お父さんたちのところでも、糸島でも、どこでも、君が、生きていける場所に、進むんよ。

 最後に、ひとつだけ、頼みたい。

 ぼくの、家にある、ぼくの、出動用のリュック、君が、使うとよか。

 医療用のテープと、消毒液、入っとう。

 絆創膏も、ようさん、ある。

 君の、これからの、役に立つ。

 ぼくの、最後の、仕事の、道具やった。

 君が、生きるために、使ってくれたら、ぼくは、それで、よか。


 みさき、生きてね。

 絶対、生きてね。

 ぼくは、君を、信じる。

 春日 翔太」


 美咲は、手紙を、すべて、読み終えた。

 読み終えたあと、彼女は、しばらく、テーブルの上に、両手を、置いて、動かなかった。

 動かないまま、涙が、ゆっくり、テーブルのうえに、落ちた。

 落ちた涙のひとつが、手紙の、いちばん下の、彼の名前のところを、すこし、にじませた。

 にじんだ「翔太」の字を、彼女は、指で、軽く、押さえた。

 押さえたまま、彼女は、目を、閉じた。



 しばらくして、建一が、リビングに、戻ってきた。

 戻ってきた建一は、テーブルの、向かいに、腰かけた。

 腰かけて、彼は、しばらく、何も、言わなかった。

 言わないまま、美咲が、目を、開けるのを、待った。


「——建一さん」

「うん」

「翔太、手紙を、残してくれとった」

「——」

「五月七日付け」

「——うん」

「『会えなくても、よか』って、書いとう」

「——」

「『会えたら、嬉しい』、とも、書いとう」

「——」

「翔太は、まだ、たぶん、消防署で、待っとう」

「うん、たぶん」

「明日、行く」

「うん、行こう」


 建一は、それから、ゆっくり、テーブルのうえの、翔太のリュックに、目を、やった。

「——これ、翔太さんの?」

「うん。彼の、出動用、たい」

「医療品、ようさん、入っとう」

「うん」

「翔太さんは、これを、私らに、残してくれた」

「——うん」

「ありがたい」

「——うん、ありがたい」


 美咲は、リュックを、手に取った。

 リュックは、翔太の匂いが、まだ、すこし、残っていた。

 匂いは、薄かった。

 薄いのに、確かに、彼の匂いだった。



 夜、二人は、翔太のリビングに、布団を、敷いた。

 翔太の布団を、美咲が、使うことに、なった。

 建一は、ソファの上に、薄手の毛布を、敷いて、寝た。

 布団のなかで、美咲は、ゆっくり、息を、整えた。

 布団の匂いは、翔太の匂いだった。

 その匂いのなかで、彼女は、もう一度、手紙の、最後の一行を、思い出した。

「ぼくは、君を、信じる」

 信じる、と、彼は、書いていた。

 信じている人のところへ、自分は、明日、行く。

 行って、たぶん、会える。

 会えなかったとしても、行く。

 行く、ということが、いま、自分にできる、唯一の返事だった。


 夜、外で、何かの音が、した。

 遠かった。

 遠い音は、いつものように、しばらく、続いて、しばらくして、止んだ。

 その音のなかで、美咲は、目を、閉じた。

 閉じた目のなかで、彼女は、翔太の、口の左端だけ、上がる、笑い方を、もう一度、見た。

 彼の、笑い方は、まだ、覚えていた。

 明日、その笑い方に、会いに行く。


 五月十六日の、夜が、こうして、過ぎていった。


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