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春の終わりに目覚める  作者: モモンガ太郎


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第5章 自宅

 夕方の自宅は、まだ、自分の家のままだった。

 二ヶ月、誰も触っていない家具と、誰も水を、やらなかった観葉植物の、しおれた葉。窓の外の風景は、街の崩壊を、映していたが、家のなかは、三月十日の朝の、彼女の出張の日の、ままだった。

 ベッドのシーツは、出張前に、彼女が、整えた、ピンと張った状態だった。

 台所のテーブルの、コーヒーカップ。

 脱衣所の、出張用のスーツケースが、置き忘れられた、台。

 全部が、彼女が、いつか戻ってくる、はずの、二ヶ月前の朝の、夜明けの匂いを、まだ、すこしだけ、残していた。


 美咲は、リビングに、しばらく、立っていた。

 立っているのが、辛かったので、ソファに、腰かけた。腰かけたソファの、布の感触が、ふしぎだった。記憶していたのとは、すこしだけ、違って、感じた。

 彼女自身が、二ヶ月分、変わっていた、ということだった。

 ソファは、変わっていなかった。

 変わっていない場所に、変わってしまった自分が、戻ってきていた。


 建一は、玄関で、靴を、脱いだ。脱いだあと、靴下のまま、ゆっくり、リビングの入り口に、立った。

「みさきさん、ね」

「うん」

「俺、ちょっと、家のなか、点検していい?」

「——点検?」

「うん。窓の鍵、ぜんぶ、しっかり閉まっとうか。それと、ベランダの様子と、隣の部屋との壁の状況」

「うん、よか」


 建一は、家の奥のほうから、順番に、点検していった。

 彼が、別の部屋の方へ、消えていったあと、美咲は、もう一度、翔太のメモを、開いた。

 最初に読んだとき、彼女は、本文の「博多消防署、本署」のところで、目が、止まっていた。

 二回目に、読んだ。

 二回目で、ようやく、メモの下のほうの、追記に、気づいた。

 追記は、本文よりも、急いだ字だった。インクは、青ではなく、黒のボールペンだった。たぶん、本文を書いてから、しばらく時間が経って、彼が、もう一度、家に戻ってきたときに、書き加えたものだった。


「もし、消防署まで、来れんごと感じたら、まず、ぼくの家に、寄ってくれ」

「鍵は、いつもの場所」

「家に、いろいろ、残しとう」


 いろいろ、というのが、何かは、書いていなかった。

 書いていない、ということが、書く時間が、なかった、ということだった。

 翔太は、最後に、家に、戻ってきたとき、何かを、残した。

 何かを、残したあと、消防署に、戻った。

 それが、翔太の、最後の動きだった、と、美咲には、思えた。



 建一が、点検を、終えて、リビングに、戻ってきた。

「みさきさん、ここ、思ったより、安全たい」

「うん」

「窓の鍵、全部、しまっとう。ベランダも、隣の部屋からは、ジャンプせんと、入って来れん。隣の部屋は、たぶん、もう、空っぽ」

「——」

「今夜は、ここで、休もう」

「うん」

「ガスは、止まっとうごたあ。さっき、台所のコンロ、回したけど、つかんかった」

「——いつ、止まったとやろ」

「たぶん、今日か、昨日。先週、俺の家では、まだついとった」

「——」

「水は、まだ、ちょっとだけ、出る。蛇口、開けたら、ちょろちょろと」


 美咲は、頷いた。

 頷いたあと、彼女は、翔太のメモを、もう一度、見せた。

「建一さん、ここ、下の追記、見た?」

「——あ、ほんとや。気づかんかった」

「いろいろ、残しとう、って」

「うん」

「翔太の家、博多区。ここから、東に、二キロくらい」

「——なら、消防署のほうに、行く途中で、寄れる」

「うん。寄って、それから、消防署、たい」

「うん、よか案たい」


 建一は、メモを、しばらく、見ていた。

 見たあと、彼は、低く、言った。

「みさきさん」

「うん」

「翔太さん、最後に、もう一回、家に、戻ったとよね」

「うん、たぶん」

「戻った、ということは、その時点では、まだ、家の周りも、なんとか、行き来できとった」

「うん」

「いつ、戻ったかは、わからん。でも、たぶん、追記書いた時点では、消防署も、家も、両方、行き来できとった」

「——」

「五月七日の本文と、追記の日付は、もしかしたら、ちょっと、ずれとうかもしれん」

「——」

「いずれにせよ、翔太さんは、最後、家に何かを、残して、消防署に戻った」

「——うん」


 建一は、メモを、美咲に、返した。

 返したメモを、美咲は、もう一度、丁寧に、たたんで、布のかばんの、内側のポケットに、入れた。

 彼女の、二ヶ月分の、唯一の、新しい記憶——翔太の文字——だった。



 夕方の光が、リビングの床に、長い、橙色の四角を、作った。

 四角は、しずかに、動いていた。雲が、空を、横切っていたのだろう。

 美咲は、その四角を、しばらく、見ていた。

 見ながら、彼女は、翔太と、二人で、このリビングで、過ごした時間のことを、思い出していた。

 ふつうの、何でもない、夕方の時間。テレビを、つけて、互いに、何でもないことを、話す。翔太は、笑い方が、口の左端だけ、上がる、ふしぎな笑い方をした。彼の笑い方は、いまも、覚えていた。覚えている、ということが、二ヶ月の眠りに、勝った、彼女の、いちばんの戦果だった。


「みさきさん」

「うん」

「夕食、どうする?」

「——あんまり、お腹、減っとらん」

「俺もたい。でも、食べんといかん」

「——」

「いまは、お腹が減ったから食べる、じゃなくて、食べるから生きる、たい」

「——食べるから、生きる」

「うん」


 建一は、リュックから、保存食を、出した。乾パンと、缶詰の、果物。それから、ペットボトルの水を、二本。

 二人は、ローテーブルのうえで、簡単な、夕食を、とった。

 話は、あまり、しなかった。話さないことが、いちばん、楽だった。


 食事のあと、建一は、リビングの、ソファに、腰かけた。

「みさきさん、ね」

「うん」

「明日、博多区まで、行く前に、ちょっと、装備、整えとこう」

「装備」

「うん。あんたの家のなかから、使えそうなもの、見つけていい?」

「うん、よか」


 建一は、まず、台所に、行った。

 包丁を、ひとつ、選んだ。あまり大きすぎないやつ。手に、なじむ、中型の、菜切り包丁だった。それを、布で、包み、リュックに、入れた。

「武器、って意味じゃないと?」

「うん、武器、というより、用心。皮を、剥いたり、ロープを、切ったり。何かと、要る」

「——」


 次に、彼は、靴の棚を、見た。

 美咲のスニーカーが、何足か、あった。建一は、いちばん、底の厚いやつを、選んで、美咲の前に、置いた。

「明日、これ、履きんしゃい」

「うん」

「いまの、靴は、真里さんの、おさがり。サイズ、合うとらんでしょ」

「ちょっと、合うとらん」

「うん、足、痛めるけん、明日からは、これ」

「——」

「履き慣れたやつのほうが、長距離、楽たい」


 美咲は、頷いた。


 次に、建一は、リビングの、引き出しを、見た。

 引き出しのなかには、文房具と、いくつかの薬と、絆創膏が、入っていた。建一は、絆創膏と、痛み止めと、消毒液の、小さなボトルを、リュックに、入れた。

「これは、もらっとくね」

「うん、もちろん」


 最後に、彼は、寝室の、クローゼットを、見せてもらった。

「みさきさん、こういうの、聞きにくいんやけど」

「うん」

「翔太さんの、服とか、ここに、あったりする?」

「——」

「あったら、いちおう、一着、もらえると助かる」

「——なんで?」

「——もし、奴らに、囲まれたとき、別の人間の匂いがついた服を、放り投げて、ひきつける、ことができるかもしれん」

「——」

「いや、これは、勝手な思いつきたい」


 美咲は、しばらく、考えた。

 考えたあと、彼女は、クローゼットの、奥の方を、指さした。

「翔太の、服、いくつか、ここに、置いとった」

「——」

「うちに、泊まる時、用に」

「——」

「使っていいよ」

「——ありがとう」


 建一は、翔太の、Tシャツを、一枚、選んだ。Tシャツは、白色だった。胸のあたりに、何かの、バンドの、小さなロゴが、ついていた。

「みさきさん、これでいい?」

「うん」

「翔太さんに、悪いごたあね」

「——」

「会ったら、ちゃんと、謝るたい」

「うん」


 建一は、Tシャツを、丁寧に、たたんで、リュックに、入れた。

 たたみ方が、家庭科の先生のような、几帳面さだった。



 夜。

 水道の、最後の水を、二人で、ペットボトルに、ためた。蛇口は、ちょろちょろと、夜になっても、まだ、すこしだけ、出ていた。

 建一は、二リットルのボトル、四本分、ためた。

 ためたあと、彼は、低く、つぶやいた。

「これで、たぶん、あと数日は、もつ」

「数日」

「うん。そのあとは、雨水か、川の水か、ペットボトルの、買い置きしとうところを、探すか」

「——」

「都市は、もう、水が、いちばん、難しい」

「——」


 美咲は、ベッドに、横たわった。

 二日前まで、病院のベッドに、寝ていた。今夜は、自分のベッドに、寝ている。同じ「寝ている」でも、まるで、別物だった。

 ベッドの脇の、写真立てを、彼女は、また、見た。

 糸島の、海岸の、翔太と、彼女と。

 彼女は、写真を、ベッドの上に、置いた。胸のすぐそばに。

 胸のそばに、置いた写真の、ガラスの冷たさが、Tシャツ越しに、伝わった。

 冷たさは、不快ではなかった。

 冷たさが、明日、自分が、起きる、ということを、思い出させた。



 眠りの前に、美咲は、リビングのほうに、声をかけた。

「建一さん」

「うん」

「ねえ、訊いていい?」

「うん、よか」

「建一さんは、なんで、ひとり、生き残ったと?」

「——」

「ご家族は、いなさったと?」

「——いなかった。三年前から、独り暮らし、たい」

「——」

「お父さんは、十年前に、亡くなったし、お母さんは、三年前。兄弟は、姉が一人、東京におる」

「——」

「お姉さんは」

「——連絡、つかんと」

「——」

「東京、いまどうなっとうか、わからん」

「——」

「妹さんが、ある、と、みさきさんに、聞いたな」

「うん、東京で、大学院」

「——」

「妹さんと、姉ちゃんと、すれ違っとうかもしれんね」

「すれ違う?」

「うん、東京の、どこかで」

「——」

「会わんかもしれんけど、すれ違う、というのは、よかね」

「——よか」


 建一は、しばらく、黙った。

「建一さん」

「うん」

「東京、聞いた話、ある?」

「——三月の終わりに、福岡で発生したと、同じころ、東京でも、ぱらぱら、はじまっとうたらしい、と、聞いた」

「——」

「四月の中ばには、もう、福岡のニュースと、東京のニュースが、似たような、内容になっとった」

「——」

「テレビが止まる、すこし前まで、東京の、状況も、流れとった」

「——」

「みさきさんの、妹さんも、いまは、わからん。けど、わからん、というのは、まだ、可能性がある、ということ」

「——」

「希望、って、いま、可能性のことたい」


 美咲は、頷いた。

 頷いたあと、彼女は、目を、閉じた。



「建一さん」と、もう一度、彼女は、呼んだ。

「うん」

「ありがとうね」

「——」

「昨日、助けてくれて」

「——いやいや」

「ありがとう」

「みさきさん、ね」

「うん」

「お礼は、生きてから、言うとよ」

「——生きてから」

「うん。いま、お礼、言われると、なんか、最後の挨拶みたいで、いかん」

「——」

「俺たち、まだ、生きとう。生きて、明日、東に向かう」

「——うん」

「お礼は、消防署で、翔太さんに会えたあとで、もういちど、ね」

「——うん」


 美咲は、笑った。

 笑ったあとで、すぐに、眠りが、やってきた。

 眠りは、軽かった。けれど、深かった。深いのに、軽い、というのが、ふしぎだった。



 夜中。

 外で、何かの音が、した。

 遠かった。

 遠い音は、長く、続いた。

 車のクラクションのような音だった。誰かが、押しっぱなしの、クラクション。たぶん、車のうえに、何かが、覆いかぶさって、そのまま、押し続けている。あるいは、何かが、車のクラクションを、偶然、長く、押してしまった。

 その音が、長く、続いたあと、別の音に、変わった。

 別の音は、誰かの、呻き声、のような、音だった。

 遠かった。けれど、はっきりしていた。


 美咲は、目を、開けた。

 ベッドの脇の、写真の、ガラスの冷たさを、Tシャツ越しに、確かめた。

 まだ、冷たかった。

 冷たさが、彼女に、明日、目を覚ます、という事実を、教えた。

 外の音は、しばらくして、止んだ。


 五月十四日の、夜が、こうして、過ぎていった。



 五月十五日、朝。

 空は、晴れていた。窓のカーテンの隙間から、夜明けの、薄い光が、入ってきていた。

 美咲は、目を、覚ました。

 建一は、すでに、リビングの、ソファのうえで、起きていた。床のうえに、地図を、広げていた。

「——おはよう」

「おはよう。早かね」

「眠れた、ちゃんと」

「うん、それは、よかった」


 建一は、地図を、指でなぞった。

「みさきさん」

「うん」

「いま、考えとうこと、ふたつ、ある」

「ふたつ」

「うん。ひとつは、今日、出発するか、明日、出発するか」

「——」

「もうひとつは、出発する時間帯。朝にするか、夕方にするか」

「——」

 美咲は、ベッドの端に、腰かけた。腰かけてから、自分の足の力を、確認した。昨日より、すこしだけ、楽だった。けれど、まだ、長距離は、無理だった。

「建一さんは、どう思うと?」

「——明日のほうが、よか」

「明日」

「うん。みさきさん、いま、まだ、長く歩くと、たぶん、夕方には、もう、立てんごとなる」

「——」

「博多区まで、途中、休憩しても、たぶん、丸一日。途中で休む場所も、安全とは限らん」

「——」

「今日いっぱい、ここで、ちょっと、リハビリして、今日の昼間に、俺、近所の様子、見てくる」

「——危なくない?」

「うん、たぶん、よか。短い距離やけん」


 美咲は、頷いた。

 頷きながら、彼女は、もう一日、ここに、いることを、ありがたい、と、感じた。同時に、もう一日、翔太に会うのが、遅れる、ということでもあった。

 ふたつの感情が、彼女のなかで、釣り合った。

 釣り合ったまま、彼女は、頷いた。



 朝食のあと、建一は、リュックの中身を、軽くして、ハンドライトを、確認してから、出ていった。

「みさきさん、戻ってくるまで、絶対、玄関、開けんでね」

「うん」

「俺は、ノックを、二回、二回、二回」

「二回、二回、二回」

「うん。それ以外のノックは、開けんでね」

「うん」

「お昼までには、戻る」


 建一は、出ていった。

 ドアが、しずかに、閉まった。

 ドアの鍵を、美咲は、自分で、もう一度、確かめた。

 確かめたあと、彼女は、リビングのソファに、腰かけた。

 ひとりに、なった。

 ひとりに、なったのは、目覚めてから、はじめてだった。


 彼女は、しばらく、自分の、呼吸の音だけを、聞いていた。

 二ヶ月、寝ていたあいだは、機械が、呼吸を、してくれていた。今は、自分で、している。自分で、している呼吸の、ふしぎな重さを、彼女は、ひとりの部屋のなかで、もう一度、確かめた。



 午前のあいだ、美咲は、家のなかで、リハビリを、した。

 リビングのソファから、立ち上がる。歩いて、台所のテーブルまで、行く。テーブルから、寝室のドアまで、行く。寝室のドアから、また、ソファまで、戻る。

 それを、何度も、繰り返した。

 杖は、なくても、歩けた。ただし、すぐに、息が、上がった。

 杖を、ついて、もう一度、同じ往復を、した。今度は、息が、上がらなかった。

 明日、東へ、四キロ。

 杖がなければ、たぶん、半日も、もたない。

 杖を、頼って、歩く、ということを、彼女は、もう一度、自分に、言い聞かせた。


 窓のそばに、立ったとき、彼女は、ふと、向かいのマンションの、ベランダを、見た。

 誰かが、いた。

 ベランダの、奥のほうに、何かの、人影が、ちらりと、見えた。

 人影は、子どもだった。

 たぶん、十歳くらいの、女の子。

 女の子は、ベランダの、奥から、こちらを、見ていた。

 目が、合った気がした。

 美咲は、息を、止めた。

 止めた息のあと、女の子の影は、すっと、ベランダの奥に、引っ込んだ。

 あとに、ベランダの、洗濯物の、揺れだけが、残った。


 美咲は、しばらく、その、向かいのベランダを、見ていた。

 もう、人影は、出てこなかった。

 彼女は、その記憶を、いったん、しまった。

 しまったが、忘れることは、しなかった。



 昼すぎ、建一が、戻ってきた。

 ノックは、二回、二回、二回、だった。

 ドアを、開けると、彼の顔は、汗で、すこし、湿っていた。背中の、Tシャツも、湿っていた。

「——おかえり」

「ただいま」

「無事?」

「うん、無事」

「奴ら、見た?」

「うん、見た。けど、見られんかった」

「——」

「収穫、あったよ」


 建一は、リュックから、いくつかの、物を、出した。

 菓子パンが、五、六個。ペットボトルの水が、二本。乾電池が、十本。ライターが、二つ。それから、缶詰が、四つ。

「——どこから、来たと?」

「近くの、コンビニ」

「コンビニ?」

「うん、二本向こうの通りに、ある。割れた窓から、入った。レジは、もう、誰もおらん。商品の半分は、誰かが、持っていった後やった」

「——」

「でも、奥のほうに、まだ、残っとった」

「——」

「あと、これ」

 建一は、薄い、紙の地図を、出した。

「博多区への、もうちょっと詳しい道」

「どこで」

「コンビニの、観光案内コーナー。福岡市内の、観光地図。これ、思ったより、役に立つ」

「——」

「翔太さんの家、博多区の、どのへん?」

「——博多駅の、ちょっと南。住吉のあたり」

「住吉」

「うん」

「博多消防署は、博多駅の、もっと近く、たい」

「うん」

「明日のルート、ね、決めとこう」


 建一は、地図を、リビングのテーブルに、広げた。

 美咲も、横に、腰かけて、地図を、覗き込んだ。

 二人は、しばらく、指で、いくつかの道を、なぞった。

 大通りは、避ける。住宅街の、細い路地を、使う。途中、川を、二回、渡る。橋は、那珂川のあたり。橋のうえは、見晴らしがよくて、危ないかもしれない。でも、迂回すると、何キロも遠回りになる。

「——橋を、渡るしかない、ね」

「うん」

「橋の上で、奴らに、見つけられたら?」

「走るしかない」

「——わたし、走れんよ」

「——杖を、いったん、捨てて、俺に、寄りかかって、走るしかない」

「——」

「最後の手段、たい」

「——うん」


 美咲は、地図を、しばらく、見ていた。

 見ながら、彼女は、向かいのベランダで見た、女の子のことを、思い出していた。

 あの子は、どうしたのだろう。

 ひとりで、あそこに、いたのだろうか。

 訊こうとして、彼女は、訊かなかった。

 訊いても、答えは、出ない、ということが、わかっていた。



 夕方、建一は、もう一度、家のなかの戸締まりを、確認した。

 ガスは、もう、完全に、止まっていた。水道も、夕方には、ぽたぽた、と落ちる程度だった。

 二人は、夕食を、とった。乾パンと、缶詰の、サバの味噌煮。建一が、コンビニから持ってきた、新しい缶詰だった。

 味は、美咲が、想像したよりも、ふつうだった。

 ふつうの味、というのが、いま、何よりの、ごちそうだった。


 夕食のあいだ、美咲は、ふと、建一に、訊いた。

「建一さん」

「うん」

「向かいのマンションの、ベランダに、子どもが、おうたとよ」

「——子ども」

「うん、女の子。十歳くらい」

「ひとりで?」

「たぶん」

「——どっちのマンション?」

「あそこ、向かい側の、三階か、四階」

「——いまも、おる?」

「もう、見えん。さっき、ちらっと、見ただけ」

「——」


 建一は、しばらく、考えた。

「みさきさん、ね」

「うん」

「いま、その子のことで、わたしらが、できることは、たぶん、ない」

「——」

「もし、その子に、家族がおったら、家族と、いっしょにおる。家族がおらんかったら、もう、たぶん、わたしらと、すれ違わん」

「——」

「すれ違わん、というのは、たぶん、もう、出会わん」

「——」

「ごめんね、こういう言い方で」

「——いいよ」


 美咲は、頷いた。

 頷いたあと、彼女は、もう、その子のことを、口に出さないように、した。

 ただ、心の奥のどこかに、その子の、ちらりと見えた影を、しまった。

 しまった影は、明日、もしも、街で、もう一度、出会ったら、思い出すための、しおりになるはずだった。



「建一さん」

「うん」

「ありがとうね」

「——」

「昨日も、今日も、助けてくれて」

「——いやいや」

「ありがとう」

「みさきさん、ね」

「うん」

「お礼は、生きてから、言うとよ」

「——生きてから」

「うん。いま、お礼、言われると、なんか、最後の挨拶みたいで、いかん」

「——」

「俺たち、まだ、生きとう。生きて、明日、東に向かう」

「——うん」

「お礼は、消防署で、翔太さんに会えたあとで、もういちど、ね」

「——うん」


 美咲は、笑った。

 笑ったあとで、すぐに、眠りが、やってきた。

 眠りは、軽かった。けれど、深かった。深いのに、軽い、というのが、ふしぎだった。



 夜中、外で、また、何かの音が、した。

 昨夜よりも、近かった。

 遠くから、誰かが、何かを、引きずりながら、こちらの通りを、横切っているような、音だった。

 美咲は、目を、半分、開けた。

 窓の、カーテンの隙間から、月の光が、薄く、差し込んでいた。

 月は、欠けていた。

 欠けた月の光が、彼女のベッドの、シーツのうえに、ほんの少し、落ちていた。

 音は、しばらくして、遠ざかった。

 遠ざかった音のあとに、しずけさが、戻った。

 しずけさのなかで、彼女は、また、目を、閉じた。


 五月十五日の、夜が、こうして、過ぎていった。


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