第4章 建一
五月十四日、朝。
建一は、夜明けの前に、起きていた。
美咲が、目を覚ましたとき、建一は、すでに、台所で、何かを、していた。何かは、たぶん、朝食の準備だった。
「——おはよう」と、美咲は、声を、出した。
「おはよう」
「早いね」
「うん。歳取ったら、早う、目が覚めるとよ」
「三十代後半で、歳取った、って言う?」
「——」
「言うとよ。教師は、生徒のせいで、歳より、二、三歳、老けるけん」
美咲は、すこし、笑った。
笑ったのは、二日ぶりだった。
朝食は、レトルトのご飯と、缶詰の鯖と、インスタントの味噌汁だった。
「ぜいたく、たい」と、建一は、自嘲気味に言った。
「ぜいたく?」
「うん。お湯が、まだ、出るうちは、ね、贅沢の部類に、入る」
「——」
「水道、もうすぐ止まるけん、お湯のあるうちに、温かいもの、ようさん、食べとこう」
美咲は、ご飯を、ひと口、食べた。
二ヶ月ぶりの、温かい、白いご飯だった。
味は、いつもより、ずっと、強く感じられた。塩気が、舌の奥に、しみた。
もうひと口。
涙が、また、勝手に、頬を、伝った。
建一は、見ないふりを、してくれた。
*
食事のあと、二人は、出発の準備を、した。
建一は、自分のリュックに、ペットボトルの水と、保存食と、簡単な救急用品を、詰めた。木刀は、肩に、担いだ。美咲には、軽い、布のかばんを、持たせた。中には、真里の財布と、ハンドライトと、菓子パンが、入っていた。
杖は、もう一本、建一が、出してくれた。
「うちの母の、形見たい」
「——形見」
「うん、母は、三年前に、亡くなった。膝が、悪うて、ずっと、これを、使いよった」
「——」
「軽いけど、頑丈たい」
「——大事なもの、いいと?」
「——」
「形見、いうても、押入れに、しまいっぱなしやった。母も、こんな日に、孫のひ孫みたいな相手に、使ってもらえるとは、想像しとらんかったろう」
「孫のひ孫?」
「うん、たとえ、たい」
建一は、また、教師っぽく、笑った。
杖は、確かに、軽かった。
昨日の、病院の杖よりも、ずっと、握りやすかった。木の柄の部分が、長年の使い込みで、丸く、すり減っていた。
誰かの体重を、長く、支え続けた、跡だった。
*
出発の前に、建一は、玄関のドアを、しばらく、開けずに、外の音を、聞いていた。
「——いまは、よか」
彼は、ゆっくり、ドアを、開けた。
マンションのエントランスは、薄暗かった。エントランスを、出るときも、彼は、足を、止めて、左右を、確認した。確認してから、美咲を、外に、出した。
大通りに、出た。
昨日と、同じ大通りだった。
昨日と、ちがっていたのは、奴らの、数だった。
遠くに——
三、四人の人影が、ふらふらと、別々の方向に、動いていた。
昨日の夕方には、見なかった数だった。
「——増えとう」と、美咲は、低く言った。
「うん、たぶん、夜のうちに、増える」
「夜のうちに」
「うん。たぶん、近所のどこかで、誰かが、奴らに、なる。なってから、外に、出る。出てくる先が、こっちの方向、たい」
「——」
「夜のあいだに、奴ら、どこかから、湧いてくる気がする。湧いてくる、というのは、変な言い方やけど」
「——」
「ほうぼうで、誰かが、夜のうちに、誰かに、なっとう」
建一は、それを、淡々と、言った。
淡々と言うことが、いま、二人が、生きるための、いちばん大切な、態度だった。
*
彼らは、大通りを、避けることにした。
昨日と、ちがって、今日は、奴らが多い。大通りは、見通しがよくて、奴らの数も、見えやすい。けれど、こちらが、奴らから、見えやすい、ということでもあった。
建一は、地図を、頭のなかで、たぐりながら、二人を、住宅街の、細い路地の方へ、誘導した。
路地は、塀と、塀のあいだの、狭い道だった。
道の片側に、自転車が、何台か、倒れていた。倒れた自転車の、サドルの上に、誰かの、白い、シャツが、ひっかかっていた。シャツは、湿っていた。湿っているのが、何かは、よく見なかった。
歩きながら、建一は、ときどき、立ち止まって、耳を、澄ませた。
彼の聴覚は、たぶん、剣道で、鍛えられていた。あるいは、この二ヶ月で、自然に、鍛えられた。風の音、木の枝のきしむ音、遠い犬の声、自分たちの靴音——全部を、別々に、聞き分けているようだった。
「みさきさん」
「うん」
「あんた、いまの、奴ら、よく、見たか?」
「——遠くから、見ただけ」
「うん。動き、二種類、あるとよ」
「二種類?」
「うん。ふらふらしとうとと、急に、速う、動くとと」
「——速う、動く?」
「うん。たぶん、何か、目に、入ったとき」
「——」
「だから、見つけられたら、もう、走るしかない」
「——わたし、走れんよ」
「——うん」
建一は、しばらく、黙った。
黙ったあと、彼は、低く、続けた。
「みさきさん、ね」
「うん」
「俺が、いま、いちばん、考えとうことは」
「——」
「あんたを、見つけられんように、進む、ということ」
「——」
「見つけられんように、ね。隠れる、立ち止まる、音を、立てん。これが、第一」
「——うん」
「第二に、見つけられたら、俺が、奴らを、引きつける」
「——」
「あんたは、その間に、隠れる」
「——」
「俺は、必ず、戻る」
「——うん」
「だから、俺が、戻るまで、隠れて、待っとってね」
「——うん」
美咲は、頷いた。
頷きながら、彼女は、建一の、顔を、見た。建一の顔は、いつもの、なんとなく教師っぽい顔だった。けれど、その顔の奥に、何かの、覚悟のようなものが、あった。
*
路地を、十分ほど、歩いた。
道は、徐々に、上り坂になった。福岡の街は、海から、内陸に向かって、ゆるやかに、坂が続く。中央区の警固は、その坂の、途中にあった。
坂のあるところを、美咲は、いちばん、苦手とした。
杖をつくたびに、息が、上がった。建一は、彼女のペースに、合わせて、ゆっくり、歩いた。
ときどき、彼女は、塀に、もたれて、休んだ。休むあいだ、建一は、まわりを、見回した。
「みさきさん、あと、五百メートルくらい、たい」
「——五百メートル」
「うん、もうすぐ」
「——いつもなら、五分の距離」
「うん」
「——」
「みさきさん、ね」
「うん」
「家に、入る前に、ちょっとだけ、確認させてくれる?」
「——確認?」
「うん」
「何を」
「——みさきさんの、家、誰か、おうかもしれん」
「翔太さん?」
「——たぶん、ちがう。翔太さんなら、よか。でも、もし、奴らがおったら——」
「——」
「俺が、先に、入る。みさきさんは、外で、待っとって」
「——」
「俺が、安全、確認したら、呼ぶ」
「——うん」
建一の、声は、低かった。
低い声が、美咲の、頭のなかに、しずかに、しみ込んだ。
しみ込んだあと、彼女は、頷いた。
*
警固の、美咲のマンションは、五階建ての、古い、賃貸マンションだった。
彼女の部屋は、三階の、三〇五号室。
マンションの入口は、自動ドアだった。電気は、止まっていた。ドアは、半分、開いたまま、止まっていた。
建一は、入口の前で、しばらく、立ち止まった。
「——みさきさん、ここで、待っとって」
「うん」
「俺が、上に、行く」
「——」
「鍵、ある?」
「——財布の中、たい」
美咲は、布のかばんから、真里の財布を、出した。財布の中に、自分の家の鍵が、入っているはずだった。事故の日、彼女が、出張先に、行くときに、持っていた、鍵だった。それを、事故のあと、彼女の私物として、真里が、保管していた。
鍵は、真里の財布の、内側のポケットに、入っていた。
美咲は、鍵を、建一に、渡した。
建一は、頷いて、入口を、抜けた。
エントランスのなかは、暗かった。
建一は、ハンドライトを、つけて、階段を、上っていった。
彼の足音が、徐々に、遠くなった。
美咲は、入口のそばで、塀に、もたれて、立っていた。
杖を、両手で、握っていた。
握っていた手のひらが、汗で、すこし、湿った。
*
時間が、長かった。
たぶん、十分も、経っていなかった。けれど、十分以上、感じた。
建一の足音が、戻ってきた。
階段のうえから、エントランスへ、おりてくる音だった。
ひとりの足音だった。
ひとりであることが、いま、美咲には、重大なことだった。
建一が、戻ってきた。
顔が、すこし、こわばっていた。
「——みさきさん」
「うん」
「あんたの家、誰も、おらん」
「——おらん」
「うん、おらん。荒らされた跡もない」
「——」
「電気は、止まっとう。水も、止まっとう。誰かが、住んどうた、というような、跡もなかった」
「——」
「ただ」
「——」
「玄関のドアに、これが、貼ってあった」
建一は、ポケットから、一枚の、紙を、出した。
折りたたまれた、メモだった。
美咲は、それを、受け取った。
受け取った瞬間、手が、震えた。
震える手で、彼女は、メモを、開いた。
*
「みさきへ
俺、翔太。
五月七日。
みさきが、目、覚めとらんことは、知っとう。
でも、もし、もし、なんかの拍子に、ここに、戻ってきとったらと、思って、書く。
俺は、いま、職場の、消防署に、戻る。
消防署で、まだ、何人か、残っとう。
いつまでおられるかは、わからん。
もし、みさきが、目、覚めて、ここに、来たら、消防署の、本署、たい。
博多消防署、本署。
会いに、来てくれ。
待っとう。
俺は、ずっと、待っとう。
翔太」
メモの、下のほうに、別の、インクで、急いで書かれた、追記が、あった。
「追記。
もし、消防署まで、来れんごと感じたら、まず、ぼくの家に、寄ってくれ。
鍵は、いつもの場所。
家に、いろいろ、残しとう。
気ぃ、つけてね。
待っとう」
美咲は、メモを、握りしめた。
握りしめた紙が、皺だらけになった。
彼女は、しばらく、声を、出せなかった。
「——翔太、生きとう」と、ようやく、彼女は、つぶやいた。
「——うん、たぶん、五月七日には、生きとった」
「——」
「いまも、生きとう」
「——たぶん、生きとう」
「——」
美咲は、深い、息を、吐いた。
吐いた息のあと、ようやく、頬の力が、ぬけた。
ぬけた頬から、また、涙が、伝った。
今度の涙は、安堵の涙でも、悲しみの涙でも、ない、別の涙だった。
別の涙、というのは、自分が、まだ、誰かを、信じることが、できる、という涙だった。
信じることが、できる、というのは、いまの彼女には、何よりの、希望だった。
*
建一は、メモを、もう一度、見た。
「博多消防署、本署、たい」
「うん」
「博多区。ここからは、東に、四キロくらい」
「——四キロ」
「うん」
「——歩いて、どんくらい?」
「みさきさんなら、たぶん、丸一日」
「——丸一日」
「うん。途中、夜は、どこかで、隠れる」
「——」
「明日、行こう」
「——明日」
「うん。今夜は、ここで、休む」
「——いいと?」
「うん。あんたの家、誰も、おらん。鍵も、ある。窓が、無事なら、ここが、いま、いちばん、安全」
「——うん」
美咲は、ようやく、入口のドアを、潜った。
潜って、エントランスの、階段を、上り始めた。
三階まで、二十分、かかった。
建一は、ずっと、彼女の、すこし斜め後ろを、ついてきた。
*
三〇五号室の、ドアを、開けた。
部屋は、彼女が、三月十日に、出張に出るときに、整えた、まま、だった。
ベッドは、シーツが、きれいに、ピンと張ってあった。
台所のテーブルの上には、彼女が、出張前に、最後に、飲んだ、コーヒーのカップが、まだ、置いてあった。
カップの底に、コーヒーの、乾いた、薄い、輪が、残っていた。
二ヶ月分の、彼女の、不在の輪、だった。
美咲は、リビングの、ソファに、しばらく、腰かけた。
腰かけて、しばらく、家具を、見回した。テレビ、本棚、観葉植物。観葉植物は、誰も水をやらないあいだに、葉が、すべて、茶色く、しおれていた。
しおれていた、しかし、まだ、植物の形は、保っていた。
完全には、死んでいなかった。
建一は、玄関のそばに、立っていた。
「——上がっていいと?」
「うん、よか、もちろん」
「——」
「お邪魔します」と、建一は、丁寧に、頭を下げた。
その丁寧さが、ふしぎだった。
ゾンビが歩く街で、玄関で、お邪魔します、と言う男が、いた。
いま、それは、ふつうの、来客のように、聞こえた。
ふつうの、来客のように、聞こえる、ということが、美咲には、しばらく、ありがたかった。
*
夕方。
美咲は、自分の、寝室に、入った。
ベッドの脇の、サイドテーブルに、翔太と、二人で写った、写真が、立っていた。
去年の秋、糸島の、海岸で、撮った写真だった。
翔太は、笑っていた。彼の笑い方は、口の左端が、わずかに、上がる、特徴的な笑い方だった。その笑い方を、美咲は、写真の中に、見つけた。
まだ、覚えていた。
二ヶ月、寝ていたのに、覚えていた。
覚えている、ということが、彼女には、しばらく、嬉しかった。
彼女は、写真を、手に取った。
写真の中の翔太に、彼女は、心のなかで、つぶやいた。
「翔太、わたし、生きとう」
「翔太、生きとう?」
「翔太、待っとってね」
「明日、行く」
「明日、絶対、行く」
*
夜、建一は、ソファで、寝た。
美咲は、自分のベッドで、寝た。
二ヶ月ぶりの、自分のベッドの、シーツの感触は、ふしぎに、よそよそしかった。よそよそしいのに、心の奥のどこかで、安心した。
外で、ときどき、何かの音が、した。
遠かった。
遠い音は、ときどき、止まって、ときどき、また、しはじめた。
眠る前に、美咲は、もう一度、翔太のメモを、開いた。
「俺は、ずっと、待っとう」
その一行を、彼女は、何度も、読んだ。
読みながら、彼女は、思った。
翔太も、たぶん、自分を、待っている。
待っている人がいる、というのが、いまの彼女に、明日、歩く、力を、与えた。
眠ったあと、彼女は、夢を、見なかった。
夢を、見ない、ということが、二ヶ月ぶりに、ちゃんと、眠れた証だった。
春の終わりの、四日目の夜が、こうして、過ぎていった。




