第3章 街
病院の駐車場を、左に曲がった先で、美咲は、初めて、街を、まともに、見た。
大通り——百道のあたりから、天神に向かう、片側三車線の、いつもの道だった。
いつもの道、ではなかった。
信号機は、ぜんぶ、消えていた。
ガードレールの一部が、何かにぶつかったように、ひしゃげていた。
路面のうえに、車が、何台も、好き勝手に、停まっていた。停まっている、というよりは、捨てられていた。運転手の姿は、どの車にも、なかった。あるいは、運転手がいたかもしれない場所には、何かの、赤黒い、染みだけが、残っていた。
車のあいだを、紙くずが、ふわふわと、風に、流れていた。
紙くずのなかには、コンビニのレシートが、混じっていた。
レシートの日付は、四月のものだった。
四月——美咲が、まだ、眠っていた頃の日付だった。
彼女は、杖をついて、ゆっくりと、歩道を、進んだ。
杖の先が、路面の小石を、ときどき、はじいた。はじいた音が、いつもより、ずっと、大きく、聞こえた。
大きく聞こえる、ということが、街が、本当に、しずかになっている、ということを、彼女に、教えた。
*
二ヶ月前、この時間の、この大通りには、夕方の通勤の車と、行き交う人と、レストランのざわめきがあったはずだった。
今は、車は、ぜんぶ、止まっていた。
人は、いなかった。
レストランは、半分以上、シャッターを下ろしていた。下ろしていない店もあった。下ろしていない店の、ガラスは、割れていた。割れたガラスの、内側は、暗かった。
空は、青かった。空だけは、いつもと同じ青さだった。
空のいちばん高いところを、カラスが、二、三羽、横切った。
カラスは、生きていた。
美咲は、まず、自分の家のほうへ、向かおうとした。
彼女のマンションは、中央区の、警固のあたりにあった。病院は、早良区の百道近辺。距離は、二、三キロ。
歩いて、二、三十分の距離。
いまの彼女には、二、三時間、かかるかもしれない、距離だった。
彼女は、ゆっくり、大通りを、東へ、進んだ。
杖を、ついた。一歩、つく。一歩、進む。一歩、つく。一歩、進む。
その動作だけで、息が、すぐに、上がった。
二ヶ月、寝ていた、自分の体が、こんなにも、軽くて、こんなにも、重いとは、彼女は、知らなかった。
*
大通りを、二百メートルほど、進んだあたりだった。
路地のひとつから——
人影が、出てきた。
美咲は、足を、止めた。
人影は、最初、こちらに、気づいていないようだった。背中を、こちらに、向けて、ふらふらと、別の方向に、歩きかけた。
歩き方が、おかしかった。
膝の伸ばし方が、まちがっていた。腰の捻りが、変だった。腕は、だらりと、両脇に、ぶら下がっていた。
二ヶ月、リハビリ室で、たくさんの患者を、見てきた——ような気が、美咲には、した。実際には、彼女自身が、二ヶ月寝ていた、患者の一人だった。それでも、彼女の感覚は、はっきりと、わかった。
あれは、生きている人の、歩き方ではなかった。
美咲は、息を、止めた。
止めた息のあと、ゆっくり、後ろに、下がろうとした。
杖の先が、路面の、ガラスの破片を、はじいた。
はじいた音は、わずかだった。わずかなのに、人影は、その音を、聞いた。
人影は、ふっと、首を、こちらに、回した。
顔は、よく、見えなかった。
影になっていた。それでも、目の、輪郭だけは、見えた気がした。目には、目が、なかった。あるはずの瞳が、灰色の何かに、染まっていた。
人影は、こちらに、歩き出した。
最初は、遅かった。
二歩目で、急に、速くなった。
「——」
美咲は、声を、出せなかった。
杖をついて、後ろに、下がろうとした。下がっても、人影のほうが、ずっと、速かった。
彼女は、もう、走ることが、できなかった。
走ることが、できないということが、いま、この瞬間に、すべてを、決めようとしていた。
人影は、十メートル。
八メートル。
六メートル。
五メートル。
美咲は、目を、閉じかけた。
閉じかけた瞬間、空気が、横から、切り裂かれる音がした。
次に、人影の頭が、急に、横に、ぶれた。
ぶれた人影は、二歩、ふらついて、それから、路面に、崩れた。
崩れたあと、もう一回、何かが、振り下ろされた。
骨が、砕ける、低い、にぶい、音がした。
人影は、動かなくなった。
*
美咲は、目を、開けた。
目の前に、男が、立っていた。
手に、木の、何かを、持っていた。長い、棒のようなものだった。
よく見ると、それは、剣道の、木刀だった。
木刀の先には、何かの、湿った跡が、ついていた。
男は、しばらく、人影の体を、見下ろしていた。見下ろして、それから、こちらに、目を、向けた。
四十前くらいの、男だった。
背は、高くも低くもなかった。痩せていた。Tシャツのうえに、薄手のジャケットを、着ていた。ジャケットの胸元には、何かの、汚れがついていた。汚れの色は、よく、見えなかった。
彼の目は、しっかり、こちらを、見ていた。乱れていなかった。
乱れていない目を、見て、美咲は、息を、ようやく、戻すことが、できた。
「——大丈夫ね?」と、男が、訊いた。
博多弁だった。
「——」
「噛まれとらん?」
「——うん」
「立てると?」
「——うん」
「ようやった、立っとうやないか」
男は、ふっと、息を、吐いた。
吐いてから、彼は、もう一度、地面の人影を、見た。
「——気の毒に」
彼は、低く、つぶやいた。
つぶやいたあと、彼は、木刀の先を、地面に、こすりつけて、汚れを、簡単に、落とした。
「あんた、どっから来たと?」
「——病院」
「百道の?」
「うん」
「歩いて?」
「うん、歩いて」
「——ようきたね」
「——」
「あんた、その杖、どうしたと?」
「——二ヶ月、寝とった」
「二ヶ月、寝とった」
「うん。事故で、昏睡で」
「——」
「いま、目、覚めたばっかり」
男は、しばらく、美咲の顔を、見ていた。
見て、それから、軽く、口元を、緩めた。緩めた口元は、笑みではなかった。笑みに、近い何か、だった。
「あんた、運がよかね」
「——うん、よう、言われる」
「ふっ」
彼は、わずかに、笑った。
笑った笑い方が、なんとなく、年配の教師の、笑い方に、似ていた。
*
「あんた、名前は?」と、男は、訊いた。
「みさき。田中みさき」
「みさきさん、ね」
「うん」
「俺は、建一。佐藤、建一」
「建一、さん」
「うん」
「——」
「みさきさん、いま、どこに行くと?」
「——うちの家」
「家、どこ?」
「中央区の、警固のほう」
「警固か。けっこう、距離あるね」
「うん」
「車は、ないと?」
「ないと」
「歩きで、いけると?」
「——たぶん、いけると思う」
「たぶん、ね」
「——」
「あんた、たぶん、いけんと」
「——」
「ここから、警固まで、二キロくらいやろう。普通の人で、三十分。あんた、その状態で、たぶん、二時間。途中、奴ら、たくさん、おう」
「——」
「いまの一回、たまたま、俺が、近くにおったから、よかった。次は、運次第」
美咲は、しばらく、黙っていた。
黙っているあいだ、建一は、彼女の杖を、ちらりと見た。
「みさきさん、ね」
「うん」
「俺の家、ここから、五分くらい。今日、もう、暗くなるけん」
「——」
「うちで、一晩、休まんね?」
「——」
「俺の家、別に、何もないけど、いちおう、人がおらん、安全な場所、たい」
「建一さん、独り?」
「うん、独り」
「——」
「みさきさん、安心して」
「——」
「俺は、変なことは、せん」
「——」
「あんたが、立てるごとなったら、明日の朝、いっしょに、警固まで行こう」
「——いっしょに?」
「うん。あんた、家、たどり着けたら、確認したいこと、あろう?」
「うん、ある」
「俺は、ひまたい」
「ひま」
「うん、ひま。教師、もう、できんけん」
建一は、しばらく、自分の言葉に、自分で、笑った。
その笑い方も、なんとなく、教師っぽかった。
*
「建一さん」
「うん」
「——お言葉に、甘えていい?」
「うん、よか」
「ありがとう」
「——」
「うちには、なんも、ない。でも、寝るとこと、水と、ちょっとの食料は、ある」
「——」
「歩けると?」
「歩けると思う。さっきよりは」
「うん」
建一は、木刀を、肩に、担いだ。
担いだ姿が、刑事ドラマの何かのように、似合っていなかった。似合っていないのに、それでも、頼もしかった。
二人は、ゆっくりと、大通りを、進んだ。
歩きながら、建一は、ときどき、後ろを、振り返った。彼の歩く位置は、美咲の、すこし斜め後ろだった。彼女が、奴らと、出くわしたとき、彼が、すぐに前に出られる位置だった。
「建一さん」
「うん」
「教師、って、なんの先生?」
「中学の体育」
「中学の体育」
「うん」
「——」
「いま思ったら、笑えるね」
「——なんで」
「中学の体育で、剣道、教えとった。授業で。生徒に、面打ちと、胴打ちを、毎週、教えとった。そのときは、こんな日が来るとは、思っとらんかった」
「——」
「俺は、剣道部の顧問もしとった。竹刀の振り方を、教えとった」
「——」
「いまは、木刀で、奴らの頭、打っとう」
「——」
「教えとったことが、こんな形で、役に立つとは、思わんかった」
建一は、それを、淡々と、話した。
淡々と話していたから、ますます、その意味が、美咲には、伝わった。
*
建一の家は、大通りから、二本入った、住宅街の、古いマンションの一階だった。
マンションの入口の、自動ドアは、もう、開かなかった。建一は、慣れた手つきで、ドアの、横の、機械的な解錠装置に、鍵を、入れて、回した。ドアが、手動で、すこし、開いた。
マンションの中は、薄暗かった。
建一の部屋は、入って、すぐの一室。1Kだった。
部屋には、テレビと、机と、ベッドと、本棚があった。
本棚には、教科書のようなものが、何冊か、それから、剣道の本が、何冊か、並んでいた。
壁には、剣道の段位の、額が、かかっていた。「五段」と、書かれていた。
「五段、たい」と、美咲は、つぶやいた。
「うん」
「強いとね」
「うん、いまは、もう、強くないけど、たぶん、若い頃は、強かった」
「——」
「あ、コーヒー、ある。ちょっと、待っとって」
建一は、台所のほうへ、いった。
台所からは、水が、出る音が、しばらくして、聞こえた。
「水、出るとね」
「うん、まだ、ね。たぶん、もうすぐ、止まるけど」
「——」
「給湯は、ガス。ガスは、まだ、たぶん、つく。ガス会社が、止めたら、終わり」
「——」
「電気は、もう、二週間前から、止まっとう」
「——」
彼は、ガスコンロで、お湯を、沸かしてくれた。
インスタントコーヒーを、二つ、淹れてくれた。
美咲は、両手で、紙コップを、持った。コップの温かさが、両手のひらに、伝わった。
二ヶ月ぶりに、人が淹れてくれた、温かい、コーヒーだった。
美咲は、ひとくち、飲んだ。
飲んだ瞬間、目の奥が、勝手に、熱くなった。
涙が、勝手に、頬を、伝った。
彼女は、それを、止めなかった。
建一は、何も、言わなかった。
ただ、自分のコーヒーを、ゆっくり、飲んだ。
*
「みさきさん」と、建一は、しばらくして、言った。
「うん」
「あんた、家に、誰かおうとね?」
「——」
「家族か、誰か」
「——婚約者が、おる、はずやった」
「婚約者」
「うん」
「——」
「翔太、って、いう」
「翔太さん、ね」
「うん」
「翔太さんは、どこに、おるかわかると?」
「——救命士、たい」
「ああ、救命士」
「うん、消防の」
「——」
「四月の終わりまで、毎日、病院に、見舞いに、来てくれとった、らしい」
「——その後は」
「連絡、つかんって」
「——そうか」
建一は、しばらく、黙った。
黙ったあと、彼は、低く、言った。
「みさきさん、ね」
「うん」
「救命士は、ね、たぶん、いちばん、大変な仕事しとった、思うとよ」
「——うん」
「四月の終わりからは、病院も、消防も、もう、機能しとらんかった。ほうぼうで、たぶん、出動して、ほうぼうで——」
「——」
「いや、いかん。これは、勝手な、推測たい」
「——うん」
「みさきさん、明日、警固まで、行ってみよう」
「——うん」
「翔太さんの家も、たぶん、近くやろ?」
「うん、近く」
「家に、何か、残しとうかもしれん。手紙、メモ、なんでも」
「うん」
「みさきさんが、生きとうって知ったら、翔太さんは、必ず、なんか、残しとう」
「——うん」
建一は、それを、はっきりと、言った。
はっきり言ったことを、美咲は、信じることに、した。
信じることに、しないと、明日、立ち上がることが、できなさそうだった。
*
夜。
建一は、自分のベッドを、美咲に、譲った。
自分は、床に、毛布を敷いて、寝た。
「あんた、痩せとうけん、ベッドのほうが、よか」
「——」
「俺は、いつも、剣道部の合宿で、床に寝とったけん、慣れとう」
「——」
「合宿、なつかしいね」と、彼は、つぶやいた。
つぶやいたあと、彼は、すぐに、毛布の中で、寝息を、立て始めた。
早く寝てしまえる、というのも、ひとつの、強さだった。
美咲は、ベッドのうえで、しばらく、目を、開けていた。
窓の外で、ときどき、何かの音が、した。引きずるような音だった。遠かった。
遠い音は、しばらく、止まなかった。
止まないうちに、彼女は、いつのまにか、眠った。
眠ったあと、夢を、見た。
夢のなかで、彼女は、警固の、自分のマンションの、玄関の前に、立っていた。
玄関のドアの内側から、誰かが、こちらを、見ている気が、した。
ドアを、開ける勇気が、出なかった。
出ないまま、彼女は、立っていた。
目が、覚めた。
夜中だった。
建一は、毛布のなかで、規則正しく、息を、していた。
外で、また、引きずるような音が、した。
明日、警固に、行く。
明日、翔太の、何かを、探す。
探して、それから、自分は、また、歩き始める。
美咲は、目を、閉じた。
閉じた目のなかで、真里の、温かい手の感触を、彼女は、思い出した。
思い出した手の感触の温かさが、しばらく、彼女の眠りを、支えた。




