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春の終わりに目覚める  作者: モモンガ太郎


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3/9

第3章 街

 病院の駐車場を、左に曲がった先で、美咲は、初めて、街を、まともに、見た。

 大通り——百道のあたりから、天神に向かう、片側三車線の、いつもの道だった。

 いつもの道、ではなかった。


 信号機は、ぜんぶ、消えていた。

 ガードレールの一部が、何かにぶつかったように、ひしゃげていた。

 路面のうえに、車が、何台も、好き勝手に、停まっていた。停まっている、というよりは、捨てられていた。運転手の姿は、どの車にも、なかった。あるいは、運転手がいたかもしれない場所には、何かの、赤黒い、染みだけが、残っていた。

 車のあいだを、紙くずが、ふわふわと、風に、流れていた。

 紙くずのなかには、コンビニのレシートが、混じっていた。

 レシートの日付は、四月のものだった。

 四月——美咲が、まだ、眠っていた頃の日付だった。


 彼女は、杖をついて、ゆっくりと、歩道を、進んだ。

 杖の先が、路面の小石を、ときどき、はじいた。はじいた音が、いつもより、ずっと、大きく、聞こえた。

 大きく聞こえる、ということが、街が、本当に、しずかになっている、ということを、彼女に、教えた。



 二ヶ月前、この時間の、この大通りには、夕方の通勤の車と、行き交う人と、レストランのざわめきがあったはずだった。

 今は、車は、ぜんぶ、止まっていた。

 人は、いなかった。

 レストランは、半分以上、シャッターを下ろしていた。下ろしていない店もあった。下ろしていない店の、ガラスは、割れていた。割れたガラスの、内側は、暗かった。

 空は、青かった。空だけは、いつもと同じ青さだった。

 空のいちばん高いところを、カラスが、二、三羽、横切った。

 カラスは、生きていた。


 美咲は、まず、自分の家のほうへ、向かおうとした。

 彼女のマンションは、中央区の、警固のあたりにあった。病院は、早良区の百道近辺。距離は、二、三キロ。

 歩いて、二、三十分の距離。

 いまの彼女には、二、三時間、かかるかもしれない、距離だった。


 彼女は、ゆっくり、大通りを、東へ、進んだ。

 杖を、ついた。一歩、つく。一歩、進む。一歩、つく。一歩、進む。

 その動作だけで、息が、すぐに、上がった。

 二ヶ月、寝ていた、自分の体が、こんなにも、軽くて、こんなにも、重いとは、彼女は、知らなかった。



 大通りを、二百メートルほど、進んだあたりだった。

 路地のひとつから——

 人影が、出てきた。


 美咲は、足を、止めた。

 人影は、最初、こちらに、気づいていないようだった。背中を、こちらに、向けて、ふらふらと、別の方向に、歩きかけた。

 歩き方が、おかしかった。

 膝の伸ばし方が、まちがっていた。腰の捻りが、変だった。腕は、だらりと、両脇に、ぶら下がっていた。

 二ヶ月、リハビリ室で、たくさんの患者を、見てきた——ような気が、美咲には、した。実際には、彼女自身が、二ヶ月寝ていた、患者の一人だった。それでも、彼女の感覚は、はっきりと、わかった。

 あれは、生きている人の、歩き方ではなかった。


 美咲は、息を、止めた。

 止めた息のあと、ゆっくり、後ろに、下がろうとした。

 杖の先が、路面の、ガラスの破片を、はじいた。

 はじいた音は、わずかだった。わずかなのに、人影は、その音を、聞いた。

 人影は、ふっと、首を、こちらに、回した。


 顔は、よく、見えなかった。

 影になっていた。それでも、目の、輪郭だけは、見えた気がした。目には、目が、なかった。あるはずの瞳が、灰色の何かに、染まっていた。

 人影は、こちらに、歩き出した。

 最初は、遅かった。

 二歩目で、急に、速くなった。


「——」

 美咲は、声を、出せなかった。

 杖をついて、後ろに、下がろうとした。下がっても、人影のほうが、ずっと、速かった。

 彼女は、もう、走ることが、できなかった。

 走ることが、できないということが、いま、この瞬間に、すべてを、決めようとしていた。


 人影は、十メートル。

 八メートル。

 六メートル。

 五メートル。


 美咲は、目を、閉じかけた。

 閉じかけた瞬間、空気が、横から、切り裂かれる音がした。

 次に、人影の頭が、急に、横に、ぶれた。

 ぶれた人影は、二歩、ふらついて、それから、路面に、崩れた。

 崩れたあと、もう一回、何かが、振り下ろされた。

 骨が、砕ける、低い、にぶい、音がした。


 人影は、動かなくなった。



 美咲は、目を、開けた。

 目の前に、男が、立っていた。

 手に、木の、何かを、持っていた。長い、棒のようなものだった。

 よく見ると、それは、剣道の、木刀だった。

 木刀の先には、何かの、湿った跡が、ついていた。

 男は、しばらく、人影の体を、見下ろしていた。見下ろして、それから、こちらに、目を、向けた。


 四十前くらいの、男だった。

 背は、高くも低くもなかった。痩せていた。Tシャツのうえに、薄手のジャケットを、着ていた。ジャケットの胸元には、何かの、汚れがついていた。汚れの色は、よく、見えなかった。

 彼の目は、しっかり、こちらを、見ていた。乱れていなかった。

 乱れていない目を、見て、美咲は、息を、ようやく、戻すことが、できた。


「——大丈夫ね?」と、男が、訊いた。

 博多弁だった。

「——」

「噛まれとらん?」

「——うん」

「立てると?」

「——うん」

「ようやった、立っとうやないか」


 男は、ふっと、息を、吐いた。

 吐いてから、彼は、もう一度、地面の人影を、見た。

「——気の毒に」

 彼は、低く、つぶやいた。

 つぶやいたあと、彼は、木刀の先を、地面に、こすりつけて、汚れを、簡単に、落とした。

「あんた、どっから来たと?」

「——病院」

「百道の?」

「うん」

「歩いて?」

「うん、歩いて」

「——ようきたね」

「——」

「あんた、その杖、どうしたと?」

「——二ヶ月、寝とった」

「二ヶ月、寝とった」

「うん。事故で、昏睡で」

「——」

「いま、目、覚めたばっかり」


 男は、しばらく、美咲の顔を、見ていた。

 見て、それから、軽く、口元を、緩めた。緩めた口元は、笑みではなかった。笑みに、近い何か、だった。

「あんた、運がよかね」

「——うん、よう、言われる」

「ふっ」

 彼は、わずかに、笑った。

 笑った笑い方が、なんとなく、年配の教師の、笑い方に、似ていた。



「あんた、名前は?」と、男は、訊いた。

「みさき。田中みさき」

「みさきさん、ね」

「うん」

「俺は、建一。佐藤、建一」

「建一、さん」

「うん」

「——」

「みさきさん、いま、どこに行くと?」

「——うちの家」

「家、どこ?」

「中央区の、警固のほう」

「警固か。けっこう、距離あるね」

「うん」

「車は、ないと?」

「ないと」

「歩きで、いけると?」

「——たぶん、いけると思う」

「たぶん、ね」

「——」

「あんた、たぶん、いけんと」

「——」

「ここから、警固まで、二キロくらいやろう。普通の人で、三十分。あんた、その状態で、たぶん、二時間。途中、奴ら、たくさん、おう」

「——」

「いまの一回、たまたま、俺が、近くにおったから、よかった。次は、運次第」


 美咲は、しばらく、黙っていた。

 黙っているあいだ、建一は、彼女の杖を、ちらりと見た。

「みさきさん、ね」

「うん」

「俺の家、ここから、五分くらい。今日、もう、暗くなるけん」

「——」

「うちで、一晩、休まんね?」

「——」

「俺の家、別に、何もないけど、いちおう、人がおらん、安全な場所、たい」

「建一さん、独り?」

「うん、独り」

「——」

「みさきさん、安心して」

「——」

「俺は、変なことは、せん」

「——」

「あんたが、立てるごとなったら、明日の朝、いっしょに、警固まで行こう」

「——いっしょに?」

「うん。あんた、家、たどり着けたら、確認したいこと、あろう?」

「うん、ある」

「俺は、ひまたい」

「ひま」

「うん、ひま。教師、もう、できんけん」


 建一は、しばらく、自分の言葉に、自分で、笑った。

 その笑い方も、なんとなく、教師っぽかった。



「建一さん」

「うん」

「——お言葉に、甘えていい?」

「うん、よか」

「ありがとう」

「——」

「うちには、なんも、ない。でも、寝るとこと、水と、ちょっとの食料は、ある」

「——」

「歩けると?」

「歩けると思う。さっきよりは」

「うん」


 建一は、木刀を、肩に、担いだ。

 担いだ姿が、刑事ドラマの何かのように、似合っていなかった。似合っていないのに、それでも、頼もしかった。

 二人は、ゆっくりと、大通りを、進んだ。

 歩きながら、建一は、ときどき、後ろを、振り返った。彼の歩く位置は、美咲の、すこし斜め後ろだった。彼女が、奴らと、出くわしたとき、彼が、すぐに前に出られる位置だった。


「建一さん」

「うん」

「教師、って、なんの先生?」

「中学の体育」

「中学の体育」

「うん」

「——」

「いま思ったら、笑えるね」

「——なんで」

「中学の体育で、剣道、教えとった。授業で。生徒に、面打ちと、胴打ちを、毎週、教えとった。そのときは、こんな日が来るとは、思っとらんかった」

「——」

「俺は、剣道部の顧問もしとった。竹刀の振り方を、教えとった」

「——」

「いまは、木刀で、奴らの頭、打っとう」

「——」

「教えとったことが、こんな形で、役に立つとは、思わんかった」


 建一は、それを、淡々と、話した。

 淡々と話していたから、ますます、その意味が、美咲には、伝わった。



 建一の家は、大通りから、二本入った、住宅街の、古いマンションの一階だった。

 マンションの入口の、自動ドアは、もう、開かなかった。建一は、慣れた手つきで、ドアの、横の、機械的な解錠装置に、鍵を、入れて、回した。ドアが、手動で、すこし、開いた。

 マンションの中は、薄暗かった。

 建一の部屋は、入って、すぐの一室。1Kだった。

 部屋には、テレビと、机と、ベッドと、本棚があった。

 本棚には、教科書のようなものが、何冊か、それから、剣道の本が、何冊か、並んでいた。

 壁には、剣道の段位の、額が、かかっていた。「五段」と、書かれていた。


「五段、たい」と、美咲は、つぶやいた。

「うん」

「強いとね」

「うん、いまは、もう、強くないけど、たぶん、若い頃は、強かった」

「——」

「あ、コーヒー、ある。ちょっと、待っとって」


 建一は、台所のほうへ、いった。

 台所からは、水が、出る音が、しばらくして、聞こえた。

「水、出るとね」

「うん、まだ、ね。たぶん、もうすぐ、止まるけど」

「——」

「給湯は、ガス。ガスは、まだ、たぶん、つく。ガス会社が、止めたら、終わり」

「——」

「電気は、もう、二週間前から、止まっとう」

「——」


 彼は、ガスコンロで、お湯を、沸かしてくれた。

 インスタントコーヒーを、二つ、淹れてくれた。

 美咲は、両手で、紙コップを、持った。コップの温かさが、両手のひらに、伝わった。

 二ヶ月ぶりに、人が淹れてくれた、温かい、コーヒーだった。

 美咲は、ひとくち、飲んだ。

 飲んだ瞬間、目の奥が、勝手に、熱くなった。

 涙が、勝手に、頬を、伝った。

 彼女は、それを、止めなかった。


 建一は、何も、言わなかった。

 ただ、自分のコーヒーを、ゆっくり、飲んだ。



「みさきさん」と、建一は、しばらくして、言った。

「うん」

「あんた、家に、誰かおうとね?」

「——」

「家族か、誰か」

「——婚約者が、おる、はずやった」

「婚約者」

「うん」

「——」

「翔太、って、いう」

「翔太さん、ね」

「うん」

「翔太さんは、どこに、おるかわかると?」

「——救命士、たい」

「ああ、救命士」

「うん、消防の」

「——」

「四月の終わりまで、毎日、病院に、見舞いに、来てくれとった、らしい」

「——その後は」

「連絡、つかんって」

「——そうか」


 建一は、しばらく、黙った。

 黙ったあと、彼は、低く、言った。

「みさきさん、ね」

「うん」

「救命士は、ね、たぶん、いちばん、大変な仕事しとった、思うとよ」

「——うん」

「四月の終わりからは、病院も、消防も、もう、機能しとらんかった。ほうぼうで、たぶん、出動して、ほうぼうで——」

「——」

「いや、いかん。これは、勝手な、推測たい」

「——うん」

「みさきさん、明日、警固まで、行ってみよう」

「——うん」

「翔太さんの家も、たぶん、近くやろ?」

「うん、近く」

「家に、何か、残しとうかもしれん。手紙、メモ、なんでも」

「うん」

「みさきさんが、生きとうって知ったら、翔太さんは、必ず、なんか、残しとう」

「——うん」


 建一は、それを、はっきりと、言った。

 はっきり言ったことを、美咲は、信じることに、した。

 信じることに、しないと、明日、立ち上がることが、できなさそうだった。



 夜。

 建一は、自分のベッドを、美咲に、譲った。

 自分は、床に、毛布を敷いて、寝た。

「あんた、痩せとうけん、ベッドのほうが、よか」

「——」

「俺は、いつも、剣道部の合宿で、床に寝とったけん、慣れとう」

「——」

「合宿、なつかしいね」と、彼は、つぶやいた。

 つぶやいたあと、彼は、すぐに、毛布の中で、寝息を、立て始めた。

 早く寝てしまえる、というのも、ひとつの、強さだった。


 美咲は、ベッドのうえで、しばらく、目を、開けていた。

 窓の外で、ときどき、何かの音が、した。引きずるような音だった。遠かった。

 遠い音は、しばらく、止まなかった。

 止まないうちに、彼女は、いつのまにか、眠った。

 眠ったあと、夢を、見た。

 夢のなかで、彼女は、警固の、自分のマンションの、玄関の前に、立っていた。

 玄関のドアの内側から、誰かが、こちらを、見ている気が、した。

 ドアを、開ける勇気が、出なかった。

 出ないまま、彼女は、立っていた。

 目が、覚めた。


 夜中だった。

 建一は、毛布のなかで、規則正しく、息を、していた。

 外で、また、引きずるような音が、した。


 明日、警固に、行く。

 明日、翔太の、何かを、探す。

 探して、それから、自分は、また、歩き始める。


 美咲は、目を、閉じた。

 閉じた目のなかで、真里の、温かい手の感触を、彼女は、思い出した。

 思い出した手の感触の温かさが、しばらく、彼女の眠りを、支えた。


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