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春の終わりに目覚める  作者: モモンガ太郎


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第2章 病院

 五月十三日、朝。

 窓の外が、白くなる前に、美咲は、目を、覚ました。

 昨夜の悲鳴のことを、覚えていた。覚えていたが、夜のあいだに、それ以上の音は、しなかった。眠ったのか、起きていたのか、よくわからない時間が、何度か、行ったり来たりした。

 体を、起こした。

 昨日よりも、わずかに、力が、戻っていた。腹の底に、小さな芯のようなものが、できかけていた。


 ベッドのうえで、肘を、ついた。

 肘で、上半身を、支えた。支えてから、首をめぐらせて、窓のほうを、見た。

 窓の外は、まだ暗かった。けれど、空のいちばん端のほうに、薄い、青みが、混ざっていた。空は、自分の知っている空のままだった。空だけは、変わっていなかった。


 ドアが、ノックされた。

 二回、軽く、叩く音だった。

 真里が、入ってきた。

「みさきちゃん、おはよう」

「——おはよう」

「眠れた?」

「うん、ちょっとは」

「ちょっとは、ね」

「真里さんは」

「うちも、ちょっとは、眠った」


 真里は、紙コップに、水を、ついで、ベッドの脇に、置いた。

 それから、彼女は、ベッドの足元にあった、布の鞄を、開けた。中から、ジャージのような、服を、出した。

「これね、わたしの私服。サイズ、合うとよかけど」

「——」

「リハビリ用に、すぐ着替えられるごとしとくね」

「真里さん、自分の服、貸していいと?」

「うん、よか。わたしは、看護師の制服があるけん」


 美咲は、しばらく、その私服を、見ていた。

 ジャージの胸に、小さなロゴが、ついていた。福岡ソフトバンクホークスの、古いロゴだった。

「——真里さん、ホークスファン?」

「うん、たい」

「お父さんも、好いとう」

「お父さんも?」

「うん、たい」

「みさきちゃんは、興味ない?」

「——ない、というか、よう知らん」

「ふうん」

 真里は、軽く、笑った。

 笑った笑みは、昨日のと、すこしだけ、違った。

 今日の笑みのほうが、ほんの少し、軽かった。



「みさきちゃん、立てるか、やってみよう」

「——うん」


 真里は、ベッドの片側を、下げた。

 美咲は、足を、ベッドの外に出して、下ろした。床の冷たさが、足の裏に、伝わった。

 立ち上がろうとした。

 立てなかった。膝が、思うように、伸びなかった。

 真里が、両手で、美咲の脇を、支えた。

「ゆっくり、ゆっくりで、よかよ」

「——うん」

「足の裏、ちゃんと、床、感じる?」

「うん」

「いい。じゃ、ゆっくり、立つ」


 美咲は、もう一度、力を、入れた。

 膝が、ぐらついた。腰が、すぐに、落ちそうになった。真里が、しっかり、支えてくれた。彼女の腕は、痩せた老婦人のようだったが、力は、思ったよりも、強かった。

 美咲は、立った。

 二ヶ月ぶりに、両足で、床を、踏んだ。


「立っとう、たい」と、真里は、言った。

「立っとう」

「うん、立っとう」

「——」

「みさきちゃん、すごい」

「——すごくない。真里さんが、支えてくれとうから」

「うん、でも、自分の脚で、立っとう」


 美咲は、十秒ほど、立っていた。

 十秒で、もう、立っていられなくなった。腰が、ぐにゃっと、抜けるように、座った。座ったベッドのうえで、彼女は、しばらく、肩で、息をした。

「——もう、すこし」

「うん、もうすこし」

「——あと一回」

「あと一回、して、それから、休もう」



 午前のうちに、美咲は、ベッドのそばで、立ったり、座ったりを、五、六回、繰り返した。

 最後の二回は、真里の手を、借りずに、自分で、立った。立っただけだった。歩くのは、まだ、できなかった。それでも、立った、という事実は、昨日の夜の、自分には、想像できなかった事実だった。


 昼前に、真里は、美咲を、車椅子に、移した。

 車椅子は、廊下のリハビリ室に、置いてあった、古いものだった。

「みさきちゃん、上の階の、患者さんたちに、会ってみる?」

「——いいと?」

「うん、よか。みさきちゃんが、目を、覚ましたとは、たぶん、みんな、知らんけん」

「——」

「会いに行こ」


 真里は、車椅子を、押してくれた。

 病室を、出て、廊下を、進んだ。

 廊下は、薄暗かった。蛍光灯は、ひとつも、点いていなかった。窓のある場所だけが、明るく、光っていた。窓のないところは、本当に、暗かった。

 歩いているうちに、美咲は、廊下の、いくつかの場所が、いつもの病院と、違うことに、気づいた。

 壁の、ある一か所には、何かの血のような、跡が、こすれていた。

 別の場所の、ドアは、内側から、何かで、押さえられたまま、止まっていた。

 もう一か所には、椅子が、横倒しになって、転がっていた。


 真里は、それらを、いちいち、説明しなかった。

 ただ、車椅子を、押し続けた。



 エレベーターは、動いていなかった。

 階段で、上の階に、行くしかなかった。車椅子では、無理だった。

 真里は、車椅子を、二階のナースステーションのそばに、止めた。

「みさきちゃん、ここに、ちょっと、おっとってね」

「——」

「すぐ、戻る」

「うん」


 真里は、階段を、上っていった。

 彼女が、上の階に、消えてから、美咲は、車椅子のうえで、ナースステーションの中を、見回した。

 ナースステーションの机のうえには、書類が、散らばっていた。書類の半分は、患者のカルテだった。もう半分は、何かのメモのようなものだった。「水、最終確認」「薬、五階分まで」「電池、残り少」——ばらばらに書かれた、急いだ字の、メモだった。

 奥の壁に、ホワイトボードが、あった。

 ホワイトボードには、誰かの、走り書きが、残っていた。

「四月二十八日 残り 医師二 看護師三 患者 約三十名」

「五月二日 残り 医師一 看護師二 患者 約二十五名」

「五月七日 残り 医師〇 看護師一 患者 約十八名」

 その下には——

「五月十二日 残り 看護師一 患者 約十四名」

 書かれていた。

 医師は、もう、いない、ということだった。

 看護師は、一人——真里、しか、いない、ということだった。


 美咲は、ホワイトボードを、しばらく、見ていた。

 見ているあいだ、彼女の喉の奥に、何かが、つかえた。何かが、何かは、わからなかった。

 わからないまま、それは、つかえたままだった。



 真里が、戻ってきた。

 戻ってきた真里の、後ろから、誰かが、ゆっくり、ついてきた。

 高齢の女性だった。八十くらいだろうか。歩行器を、押していた。

「みさきちゃん、紹介する。三〇五号室の、藤本さん」

「——藤本さん」

「藤本さん、こちら、田中みさきちゃん。一階に、入院しとんしゃった」

「ああ、ああ、たい」と、藤本さん、と呼ばれた女性は、頷いた。

 彼女の声は、しゃがれていた。それでも、目だけは、まだ、しっかりしていた。

「目、覚めたとね」

「——はい」

「よかった、よかった」

「——」

「真里さんが、ね、ずっと、みさきちゃんのこと、気にしとうたとよ」

「——」

「毎日、ね、一階に降りていって、見舞いに、行きようた」

「——」

「あんた、運がよかね」

「——うん、運がよか」


 藤本さんは、それ以上、長くは、話さなかった。

 すぐに、ナースステーションの椅子に、腰かけて、しばらく、休んだ。歩行器を、押すだけで、すでに、息が、あがっていた。

 真里は、藤本さんに、ペットボトルの水を、渡した。藤本さんは、礼を、言って、ひと口だけ、飲んだ。

「みさきちゃん」と、真里は、美咲のほうに、戻ってきて、言った。

「うん」

「藤本さんは、ね、もう、ここを、動けんと」

「——」

「ご家族は、北海道にね、おらすとよ」

「——」

「連絡は、もう、つかんし、ご家族にも、迎えには、来てもらえんと」

「——」

「だから、ね」

「——うん」

「わたしは、藤本さんと、もうすこし、おらんといかんとよ」


 美咲は、藤本さんを、見た。

 藤本さんは、椅子のうえで、目を、半分閉じて、休んでいた。彼女の顔は、たくさんの皺で、できていた。皺のひとつひとつが、彼女の八十年を、刻んでいた。

 その顔を、見ながら、美咲は、もう、わかった。

 真里さんは、出ない。

 出ないことが、決まっている。

 決まっていることを、説得しようとすることは、もう、できない。



 昼すぎ、真里は、美咲を、また、一階の病室に、連れて戻ってくれた。

 病室で、二人は、しばらく、何も、話さなかった。

 美咲は、ベッドのうえで、また、立ったり、座ったりを、繰り返した。今度は、真里の手を、借りずに、四回、立てた。立ったあとで、すこしだけ、足を、前に、出した。

 歩いた、と、呼んでよいかどうかは、わからなかった。

 でも、足が、前に、出た。

「みさきちゃん、ようがんばっとう」

「——」

「明日には、すこし、歩けるかもしれん」

「——明日には」

「うん」

「明日、出ようかな」

「——」

「真里さん、わたし、明日、出る」

「——」

「真里さんは、ここに、残る。わたしは、出る」

「うん」


 真里は、頷いた。

 頷いたあと、彼女は、しばらく、立ったまま、窓のほうを、見ていた。



 その日の、午後三時ごろだった。

 窓の外で、低い音が、した。

 美咲が、最初に、その音に、気づいた。引きずるような、というよりは、何かが、地面を、こするような、低くて、連続する音だった。

 真里も、すぐに、気づいた。

 彼女は、立ち上がって、窓のところへ行った。

「——どうしたと?」

「——」

 真里は、しばらく、外を、見ていた。

 見ていた目の、いろが、すこし、変わった。

「みさきちゃん」

「うん」

「下の、一階のロビーのほうに、何人か、入ってきたごたあ」

「——人?」

「うん、人。けど、人やない、ね」

「——」

「奴ら、たい」


 美咲は、ベッドのうえで、息を、止めた。

 止めた息のあと、彼女は、ゆっくり、ベッドの端に、足を、下ろした。


「真里さん、わたし、行く」

「——」

「立てる」

「——」

「立てる」と、もう一度、美咲は、言った。



 真里は、すぐに、動いた。

 車椅子を、病室に、運び入れた。それから、リハビリ室から、杖を、もう一本、持ってきた。袋に、ペットボトルの水と、菓子パンを、いくつか、詰めた。さらに、薬を、いくつか、別の袋に、まとめた。

「みさきちゃん」

「うん」

「リハビリ室の、裏に、職員用の、非常階段がある」

「——」

「あの階段は、一階の、職員用の出口に、つながっとう」

「——」

「いまの段階なら、たぶん、ロビーの奴らは、こっちまで、来とらん」

「——」

「みさきちゃん、行ける?」

「行ける」

「——よし」


 真里は、美咲を、車椅子に、座らせた。

 ジャージを、上から着せて、靴を、履かせた。靴は、真里の予備の、運動靴だった。サイズが、すこし、合わなかった。それでも、履けた。

「みさきちゃん」

「うん」

「これ、わたしの財布。中に、現金が、ちょっとと、わたしの保険証と、家の鍵が、入っとう」

「——」

「家の鍵は、たぶん、もう、要らんかもしれんけど、いちおう」

「——真里さん」

「うん」

「いっしょに、来て」

「——」

「来て」

「みさきちゃん」

「——」

「藤本さんと、ね、ほかの患者さんが、上の階に、まだ、十二人、おう」

「——」

「みさきちゃんは、自分の足で、外に、出られる」

「——」

「あの人たちは、出られんと」

「——」

「わたしが、いま、出てしもうたら、あの人たちは、一人ずつ、夜のあいだに、死ぬ」

「——」

「だから、わたしは、出られんと」


 美咲は、しばらく、真里を、見ていた。

 真里の目は、潤んでいなかった。潤んでいないことが、彼女の、覚悟の、証だった。

「真里さん」

「うん」

「藤本さんに、よろしく、伝えて」

「うん、伝える」

「ありがとう、って」

「うん」

「真里さん」

「うん」

「——」

「あなたは、行きなさい」と、真里は、言った。

「——」

「あなたは、行きなさい、たい」



 真里は、車椅子を、押して、廊下を、リハビリ室の方へ進んだ。

 途中、廊下の、奥のほうから、低い、引きずるような音が、聞こえた。下の階の、奥のほうから、聞こえていた。

 真里は、足を、止めなかった。

 リハビリ室に、入った。リハビリ室の、裏の、非常階段のドアの前で、真里は、車椅子を、止めた。


「みさきちゃん、ここからは、自分で、歩いて、降りなさい」

「——」

「車椅子では、階段、降りられん」

「——」

「杖を、つかって、ゆっくり」

「うん」

「下の出口は、職員専用の、自動ドア。電気は、止まっとうけん、もう、手で押すと、開く」

「うん」

「開けて、外に出たら、駐車場の脇を、まっすぐ進んで、左に曲がるとよ。そしたら、大通りに出る」

「——わかった」

「大通りには、たぶん、奴らも、おう。気をつけて」

「——うん」


 真里は、ドアを、すこしだけ、開けた。

 非常階段は、暗かった。窓は、なかった。

 真里は、ポケットから、小さな、ハンドライトを、出した。電池が、半分くらい、残っている、と、彼女は、説明した。電池の残りを、考えて、なるべく、つけたまま、降りなさい、と。

「——」

「真里さん」

「うん」

「ありがとう」

「——」

「ありがとう」

「みさきちゃん」

「うん」

「あなたは、生きなさい」

「——うん」

「生きなさい、絶対」

「——うん」

「絶対」


 真里は、車椅子の脇から、美咲を、立たせた。

 立った美咲の、両手に、杖を、持たせた。それから、彼女は、ぎゅっと、美咲を、抱きしめた。

 抱きしめた腕は、四十五年分の、いろんなものを、含んでいた。

 美咲も、真里を、抱きしめた。抱きしめながら、ようやく、涙が、彼女の頬を、伝った。涙は、今日になって、初めての涙だった。


「——」

「みさきちゃん、行きなさい」

「うん」

「行きなさい」



 美咲は、非常階段の、ドアの中に、入った。

 ハンドライトを、点けた。階段は、コンクリートの、冷たい段だった。一段ずつ、ゆっくり、杖をつきながら、降りていった。

 降りるたびに、振り返った。

 最初の、踊り場で、振り返ったとき、まだ、リハビリ室のドアの隙間から、真里の姿が、見えた。真里は、こちらを、見ていた。

 二つ目の踊り場で、振り返ったとき、もう、真里の姿は、見えなかった。

 ドアが、しずかに、閉まったのが、わかった。

 彼女は、もう一度、ゆっくり、降り始めた。


 階段の途中で、彼女は、ふと、立ち止まった。

 立ち止まって、息を、整えた。

 整えた息のあと、彼女は、心のなかで、つぶやいた。

「真里さん、ありがとう」

「真里さん、絶対、もういちど、会おう」

「会えるごと、わたし、生きるけん」



 非常階段の、いちばん下に、職員用の出口が、あった。

 ドアは、たしかに、電気が、止まっていた。手で、押した。重かった。

 全体重を、かけて、押した。ドアが、すこし、開いた。

 外の空気が、流れ込んできた。

 外の空気は、もう、二ヶ月前の空気とは、ちがう、匂いを、していた。

 甘いような、酸っぱいような、何かの、匂いだった。


 美咲は、ドアの隙間から、外を、見た。

 外は、駐車場だった。横転した車。割れた窓。誰かの、靴片方が、地面に、転がっていた。

 通りに、人影は、いま、見えなかった。

 いまなら、行ける。


 美咲は、息を、ひとつ、整えた。

 整えた息で、ドアの隙間から、外に、一歩、出た。

 杖で、地面を、ついた。

 地面は、固かった。固いことが、二ヶ月ぶりの、外の、地面の感触だった。


 春の終わりの、夕方の光が、駐車場の、地面のうえに、長い影を、落としていた。

 影は、彼女の、影だった。

 二ヶ月ぶりに、見る、自分の影だった。


 彼女は、振り返らずに、駐車場を、進んだ。

 左に曲がった。

 大通りが、見えた。

 大通りには、いま、誰もいなかった。

 いない、というのは、目に見える範囲には、誰もいない、ということだった。

 彼女は、一歩、一歩、ゆっくりと、大通りに、向かって、歩き始めた。


 病院の、いちばん高い窓のひとつから、誰かが、こちらを、見ている気がした。

 振り返ろうとして、彼女は、振り返らなかった。

 振り返ったら、戻りたくなる気がした。

 戻りたくなれば、戻ってしまう気が、した。

 だから、振り返らずに、彼女は、歩いた。


 春の、夕方の、最初の街の光のなかへ、彼女は、一歩ずつ、進んでいった。


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