第1章 目覚め
五月十二日、午前十時三十八分。
田中美咲は、目を開けた。
最初に見えたのは、白い天井だった。蛍光灯はついていなかった。代わりに、窓の外から、薄い春の光が、斜めに差し込んでいた。光の中で、埃が、ゆっくりと、動いていた。
ここはどこだろう、と、美咲は思った。
思おうとして、思考そのものが、ひどく重かった。瞼を閉じれば、また眠ってしまいそうだった。それでも、彼女は、目を、開けたままにした。
右の腕に、点滴の管が、まだ繋がっていた。
左の腕は、痩せていた。指を、ゆっくり、動かそうとした。動いた。少しだけ、動いた。
病院だ、と、ようやく気づいた。
体を、起こそうとした。起こせなかった。腹に力が、入らなかった。何度か息を整えて、肘を、ベッドのうえに、ついた。肘が、骨と布のあいだで、こすれた。
二ヶ月——あとから、彼女は、そう聞かされた。
病室は、二人部屋だった。
隣のベッドには、誰もいなかった。シーツは、めくれていた。何かを、急いで運び出した跡のように、めくれていた。
病室のドアは、半分、開いていた。
半分開いたドアの向こうの、廊下は、暗かった。
美咲は、目だけを、動かして、病室を見回した。
点滴のスタンド、心拍数を測る機械、酸素のチューブ。すべてが、止まっていた。
電気が、来ていなかった。
彼女は、その意味を、しばらく、考えた。
考えても、答えは、わからなかった。
答えがわからないまま、しかし、ひとつだけ、はっきりしていた。
誰も、来ていない。
誰も、彼女を、見ていない。
春の光が、病室の床に、長い、四角を作っていた。
四角は、しずかに、動いていた。たぶん、雲が、空を、横切っていた。
遠く、廊下のずっと奥のほうで——
何かを、引きずるような音が、した。
*
音は、しばらくして、止んだ。
止んだあとに、別の音がした。今度は、靴音だった。早足の、少しだけ慌てたような、人の足音。
足音は、病室のドアの前で、止まった。
ドアが、もうすこし、開いた。
看護師の服を着た、女が、立っていた。
四十代後半くらいの、痩せた女だった。髪は、後ろで、束ねられていた。マスクをしていない。マスクをしていない看護師、というのが、いま、何を意味するのかは、美咲には、わからなかった。
女は、美咲のほうを、しばらく見た。
見て、それから、息を、止めた気がした。
止まった息のあとで、彼女は、両手で、自分の口を、覆った。
「——田中さん」
女は、声を、絞り出すように言った。
「田中さん——」
「……」
「目、覚めとうとね」
「——」
「田中さん、わかると? わたしのこと、わかると?」
美咲は、ゆっくり、瞼を、瞬かせた。
女の顔は、見たことがあるような気もしたし、ないような気もした。二ヶ月——あとから知ったその二ヶ月のあいだ、たぶん、彼女は、ずっと美咲のそばにいたはずだった。
「……どなた、ですか」と、美咲は、ようやく声を、絞り出した。
自分の声は、思ったよりも、かすれていた。
「真里。看護師の、真里」
「——まり、さん」
「うん」
「——」
「ようやく目が、覚めたとね」
「……二ヶ月、と?」と、美咲は、訊いた。
二ヶ月、という言葉を、彼女は、なぜか、知っていた。知っていた、というよりは、心の奥のどこかで、計算が、合っていた。
「うん、二ヶ月たい」
「事故、やったとよね」
「うん、事故」
「——お父さんと、お母さんは」
「お見舞いには、来ようらしたよ。先月までは」
「——先月までは」
「うん、先月まで」
真里は、それ以上、言わなかった。
言わなかったが、その「先月までは」の意味は、はっきりしていた。先月から、来られなくなった。来られない事情が、あった。来られない事情、というのが、いま、病院の外で、起きていた。
「——翔太さんは」
美咲は、訊いた。
「翔太さん、お見舞いには、ようさん、来とんしゃったよ」
「いつまで」
「四月の終わりまで」
「——四月の終わりまで」
「うん」
「いまは、五月——」
「五月十二日、たい」
美咲は、口を、しばらく、閉じた。
閉じた口の奥で、いくつもの数字が、回っていた。事故が三月の中ば。昏睡が二ヶ月。今が五月十二日。父母は先月まで、翔太は四月の終わりまで。
計算をしているあいだに、真里は、ベッドの脇の椅子に、腰かけた。腰かけて、美咲の、左の手を、両手で包んだ。包んだ手は、温かかった。温かいということが、美咲には、しばらく、ふしぎだった。長いあいだ、温かい手を、握っていなかった気がした。
*
「真里さん」
「うん」
「ここ、何が起きとうと?」
真里は、しばらく、答えなかった。
答えないあいだ、彼女は、美咲の手を、軽く、撫でた。撫でながら、何かを、決めるような顔をした。
「——田中さん」
「みさき、でよかよ」
「みさきちゃん」
「うん」
「——たぶん、いっぺんには、説明できんとよ」
「うん」
「でも、いま、いちばん大事なことだけ、言うね」
「うん」
真里は、ひとつ、息を吐いた。
「——いま、病院は、ほとんど、機能しとらん」
「機能しとらん」
「うん。電気がね、来とらんと。水も、もう、上の階までは届かんし、薬も、ほとんど切れた」
「——」
「先生たちも、看護師も、もう、ほとんどおらんと」
「——みんな、どこに行ったと?」
「逃げたか、亡くなったか、感染したか、たい」
「——感染」
「うん」
感染、と、真里は、はっきり言った。
はっきり言ったことが、美咲には、しばらく、飲み込めなかった。
「感染……何の」
「みさきちゃん、ニュース、見とったとよね、事故の前」
「——うん。たしか、海外で、変な事例が、増えとう、って、ニュースが」
「あれが、来た」
「——来た」
「うん、ここにも、来た」
「いつ」
「三月の終わりたい」
「——三月の終わり」
「みさきちゃんが、事故にあって、入院した、すぐあと」
「——」
「最初は、ぽつぽつ、たい。福岡市内に、何人か。それが、四月の頭には、何十人になって、四月の中ばには、何百人、四月の終わりには——もう、数えきれんごとなった」
美咲は、目を閉じた。
閉じた目の中で、いくつもの記憶が、ばらばらに流れた。事故の前、テレビで見た「海外で変な事例」。三月十日、彼女は出張先で、車に巻き込まれた。痛みの記憶。救急車のサイレン。それから、長い、暗い時間。
目を、開けた。
真里の顔は、まだそこにあった。
「——人が、人を、襲うとね」と、美咲は、低く、訊いた。
「うん」
「死んだ人が」
「うん、死んだ人が、起き上がって」
「——」
「噛まれたら、感染するとよ。それで、何日かしたら、死ぬ。死んで、また、起き上がる」
「……」
「いっぺんでは、信じきれんやろうけど、それが、ほんとうのことたい」
「——うん」
「うん、って、ようすぐに、言えたね」
「——」
「みさきちゃん、しっかりしとう」
「——わからん。でも、いま、ここの空気が、わたしの知っとうのと違うとは、わかる」
美咲は、それだけ、言った。
言ってから、また、目を閉じた。
*
真里は、薄い紙コップに、水を、注いで、美咲の口元に、運んでくれた。
水は、ペットボトルの水だった。蛇口の水ではなかった。蛇口は、もう出ない、と、真里は説明した。
美咲は、両手で、紙コップを、持とうとした。持てなかった。真里が、紙コップを、ゆっくり、傾けてくれた。一口、二口、口に運んだ。喉の奥が、ようやく、ほぐれた。
「——おとうさんたち、北九州たい」と、美咲は、ふと、思い出して、言った。
「うん、知っとう」
「無事と?」
「——」
「無事、なの?」
「——わからんとよ」
「わからん」
「うん。北九州とも、もう、連絡は、つかんと」
「翔太さんは」
「——翔太さんも、四月の終わりに、最後に病院に来てから、連絡が、つかんようなったと」
「翔太さんは、救命士たい」
「うん、たい」
「——だから、たぶん、現場にずっと、おる」
「うん、たぶんね」
「——」
「みさきちゃん、いまね、市内のあちこちが、もう、人が住めるごとなくなっとう」
「——」
「翔太さんは、たぶん、いままで、ほうぼうに、出動しとんしゃった」
「うん」
美咲は、しばらく、天井を、見ていた。
天井は、相変わらず、白かった。蛍光灯は、相変わらず、点いていなかった。
いま、自分の体が、起き上がれもしないこと。世界が、自分の知っているものとは、別物になりつつあること。両親と、婚約者の安否が、わからないこと。——それらが、ひとつの、巨大な、重さとして、美咲のうえに、降りていた。
降りているのに、彼女は、まだ、泣かなかった。
泣くには、まず、体に、力を、戻さんといかん——そう、彼女は、思った。
*
「真里さん」
「うん」
「真里さんは、なんで、ここにおると?」
「——」
「先生たちは、おらんって、言ったろ?」
「うん」
「真里さんは、なんで」
真里は、しばらく、答えなかった。
答えないあいだに、彼女の目が、すこしだけ、潤んだ。潤んだまま、彼女は、それでも、目を、伏せなかった。
「うちの担当の患者さん、ね」
「うん」
「動けん人、まだ何人か、おうとよ」
「——」
「逃がそうにも、車も、もう、出せん。階段は、上から下まで、たぶん、危ない」
「——」
「だから、ね、わたしは、ここに、残ろうと、思っとう」
「——」
「みさきちゃんが、目、覚めてくれたとは、ね、わたしには、ちょっとした、奇跡」
「真里さん」
「うん」
「真里さんも、一緒に、逃げよう?」
真里は、その問いに、しばらく、答えなかった。
代わりに、彼女は、ふっと、笑った。笑った笑みは、四十五年分の、いろんなものを、含んでいた。
「みさきちゃん」
「うん」
「わたしはね、ここで、終わらせていいとよ」
「——」
「終わらせる、というのは、ちがうかもね。ここで、最後まで、いるとよ」
「真里さん」
「——」
「いっしょに行こう」
「うちには、もう、家族もおらんしね」
「——」
「弟は、十年前に死んだし、両親も、もう、おらん。患者さんたちが、いまの、わたしの家族たい」
「——」
「だから、置いていけんと」
美咲は、口を、閉じた。
閉じた口の奥に、いくつもの言葉が、つかえた。つかえた言葉は、出てこなかった。
真里の手が、また、美咲の手を、撫でた。撫でた手は、相変わらず、温かかった。
*
真里は、ベッドのそばのカーテンを、すこしだけ、開けた。
窓の外に、午前の福岡の景色が、広がっていた。美咲が知っている景色とは、もう、別物だった。
窓の下の、駐車場には、車が、いくつか、めちゃくちゃに、停まっていた。一台は、横転していた。横転した車の、ボンネットには、何かの、赤黒い、染みが、ついていた。
通りには、人影が、見えた。
人影は、ふらふらと、動いていた。
動き方が、人ではなかった。
「あれ、なん?」
「あれが、ね、いま、街に、いちばん、多いとよ」
「——」
「歩く死体、と、テレビは、呼んどったかな」
「テレビは、もう、ないと?」
「先週、最後の局が、放送、止めた」
「——」
「ラジオは、まだ、いくつか動いとう。でも、内容は、ほとんど、政府の繰り返し」
「政府」
「うん、避難勧告と、注意喚起の、繰り返したい」
美咲は、窓の外を、しばらく、見ていた。
ふらふらと、動く人影は、一人、二人、三人——数えていたら、もっと多くなった。気づくと、駐車場の、向こうの通りには、十数人の人影が、見えた。みんな、同じような動き方をしていた。
彼らは、目的のない動きを、していた。
目的のない動きは、しかし、なぜか、こちらに、向かってくる気配を、含んでいた。
美咲は、目を、逸らした。
「真里さん」
「うん」
「わたし、立てると?」
「——たぶん、いますぐは、無理かな」
「いますぐは」
「うん、いますぐは。リハビリ、しとらんけんね」
「——歩けるごとなるまで、どんくらいかかると?」
「みさきちゃんなら、二、三日で、立てるごとなるかもしれん」
「二、三日」
「うん」
「ちょっと長いね」
「長いね」
「真里さん、一緒に、二、三日、待ってくれる?」
「——」
「待ってくれたら、わたし、立てる。立てたら、真里さんと、いっしょに、ここを、出る」
「みさきちゃん」
「うん」
「気持ちは、わかった。だけど、わたしは、たぶん、出ん」
「——」
「でも、二、三日、待つくらいなら、待っとう」
「——」
「みさきちゃんが、立てるまでは、わたしも、ここにおる」
*
午後、真里は、いったん、部屋を、出ていった。
他の患者さんの様子を、見に行く、と、彼女は言った。出ていく真里の背中は、痩せていた。看護師の白い制服が、何か所か、薄く汚れていた。汚れの色は、よく、見えなかった。
部屋に、一人で残されて、美咲は、窓のほうを、見ていた。
春の光は、すでに、午後のものになっていた。光は、長く、斜めに、床のうえに、落ちていた。
彼女は、自分の、腹のあたりに、手を、置いた。
二ヶ月分、痩せた腹だった。骨が、布越しに、わかった。
二ヶ月。三月から、五月。
春のはじまりに、彼女は、事故にあった。
春の終わりかけに、彼女は、目を、覚ました。
その二ヶ月のあいだに、世界は、もう、別物に、なっていた。
窓の外の、人影は、まだ、ふらふらと、動いていた。
動いているうちの、一人が、ふと、こちらを、向いた気がした。
顔は、よく見えなかった。それでも、顔の角度が、こちらを向いた。
美咲は、目を、ゆっくり、逸らした。
*
夕方、真里が、戻ってきた。
手に、紙皿を、持っていた。紙皿の上には、乾いた菓子パンが、半分と、ペットボトルの水が、置いてあった。
「ご飯、たい」
「——食べていいと?」
「うん、ゆっくりね」
「——」
「最初は、すぐには、消化できんけん、ちょっとずつ」
美咲は、菓子パンを、一口、噛んだ。
パンは、乾いていた。乾いた粉のようなものが、口の中で、ばさばさと、広がった。それでも、彼女は、それを、ゆっくり、噛んで、飲み込んだ。飲み込むのに、いつもの三倍くらい、力が、いった。
飲み込むあいだ、真里は、ベッドのそばで、紙袋から、何かを、出していた。
出していたのは、別の患者の、薬と、おむつと、簡単な水だった。これから、上の階の、動けない患者のところに、配りに行くらしかった。
「真里さん」
「うん」
「上の階、危ないと?」
「——危なくはない。けど、ね、もう、長くは、もたんかもしれん」
「もたん」
「うん」
「——」
「みさきちゃん、聞いてね」
「うん」
「もし、わたしが、戻ってこんかったらね」
「——」
「廊下の、二つ向こうのドアに、リハビリ室がある。そこに、車椅子と、杖と、わたしの私服が、置いとうけん」
「真里さん」
「うん」
「戻ってきて」
「——うん、戻る」
真里は、立ち上がった。
立ち上がる前に、彼女は、もう一度、美咲の手を、撫でた。撫でた手は、相変わらず、温かかった。
「ゆっくり、寝とりんしゃい」
「うん」
「夜になったら、また、来る」
「うん」
真里は、部屋を、出ていった。
ドアが、しずかに、半分、閉まった。
*
午後の光が、徐々に、薄くなっていった。
美咲は、ベッドのうえで、目を、半分、閉じて、自分の呼吸の音を、聞いていた。呼吸は、二ヶ月分、たぶん、機械が、代わりに、してくれていた。今は、自分で、している。自分で、息を、している。自分で、息ができる、ということが、こんなにも、たいへんなことだとは、彼女は、二ヶ月前まで、知らなかった。
遠くで、ときどき、また、引きずるような音が、した。
その音を、彼女は、もう、こわい、と思わなかった。
いや、こわい、のだけれど、こわさにも、序列があった。今の彼女には、自分の体が、立てない、ということのほうが、もっと、こわかった。
立たんといかん、と、美咲は、思った。
立たんと、真里さんも、お父さんも、お母さんも、翔太も、誰も、探しに行けん。
立たんといかん。
夕方の光が、窓辺を、橙色に、染めた。
橙色は、ゆっくり、紫になり、すぐに、青に、変わっていった。
暗くなる前に、美咲は、何度か、自分の脚を、布団の中で、動かそうとした。動いた。少し、動いた。
動いたという事実だけが、彼女に、希望のような、希望ではないような、何かを、与えた。
夜が、来た。
夜、廊下のずっと奥のほうで、また、いくつかの、音が、した。
今度の音は、複数だった。
複数のうちの一つは、引きずる音ではなかった。
悲鳴の、ような、人の声に、聞こえた。
声は、短かった。短かったあと、すぐに、止んだ。
止んだ夜の中で、美咲は、目を、開けたまま、しばらく、天井を、見ていた。
天井は、暗かった。暗い天井のなかに、彼女は、自分の呼吸の音だけを、置いた。
春の終わりの、最初の夜が、こうして、訪れた。
彼女の、目覚めの、最初の夜だった。




