第83斤
泥の中に沈められた身体が強引に引っ張り出されて僕は呼吸を取り戻す。
「ムギに死なれちゃうとさ、私もちょっとがっかりなんだよね」
空中で宙づりの状態にされ、床が天井になり、謎のVTuberの顔が上下反転に映る。そんな視界でも、歪んだ表情で笑っているのははっきりと理解出来た。
「だってムギは、私が作ったんだもの」
そして彼女は、理解できないことを口にした。
「今からそれを、教えてあげる」
耳元で、彼女の声が響く。
『うぅ……強い雨で結構濡れちゃいましたぁ……あれ?』
これは……母? セーラー服着てるし、一体どういう状況だ……?
『なんでこんなところにパン専用小麦粉が……? 中身は…………!?』
母が驚きの顔を見せ、差していた傘を道路に投げ捨てて僕を持ち上げた。
『すっかり綺麗になりましたね! でもこれからどうしよう……』
母が僕の身体をバスタオルで拭きながら笑った後、悩んだ表情になった。
『あの……もし……もし……良かったら、ぱすたと一緒に、暮らしませんか!』
逡巡した後、母は僕にそう言った。何を言っているんだ?
『名前は……小麦粉の袋に入っていたから……ムギ……うん! ムギくん!』
母は僕を両手で抱き締めた。僕の身体は母の小さな上半身の中に納まるほど、小さくなっていた。
「あ、今見せたのが私が書き換える前のムギの記憶ね」
「は……?」
「だから、ムギは私が捨て猫をベースに作った人間なんだよ。記憶とか容姿とか性格とかも全部、私が全部、考えて作ったんだよ」
一体何を、言ってるんだ。
僕がヒナに作られた人間?
僕が、捨て猫?
そんな、そんなはずは。だって僕は人間で。
人間としての15年間生きてきた記憶があって。
その記憶の中には、ずっとずっと。
『それってこうやって、語りかけてたこと?』
頭の中から、目の前にいる彼女の声が響く。
その彼女に、額を指を軽くつつかれた。すると大型車に撥ねられたかのような衝撃を全身に感じ、聖堂の入り口付近から祭壇まで吹き飛ばされ、ステンドグラスに叩きつけられたと同時に肺から空気が強制的に排出される。割れたグラスの破片が後頭部や背中に突き刺さり、脳が痛みに呼応し、ここから逃げろと警鐘を打ち鳴らす。だけど身体はぴくりとも動かせなかった。
「人の記憶なんてさ、当てにならないものなんだよ?」
再び身体が浮かび上がり、磁石の如くヒナの元に為す術もなく引き寄せられる。
「でもYouTuberやろうって私が誘ったのは本当だよ。一緒に動画撮ったのも本当。まぁ、興味ないって面倒くさがってたから私のことが好きになるように書き換えさせてもらったけど」
「なん……なんだ……何が本当で、何が嘘なんだ」
「全部本当だよ。だって私が全部本当にしたんだから」
そんな、ことって。
できる訳が、できていい訳が、していい訳が、ない。
「もういいや。また書き換えればいいんだからね」
ヒナがそう言うと、僕の身体は悲鳴とも断末魔とも寝息とも嬌声とも言えない音を立てて感覚を失い始めた。
僕は、まだ、僕は。
『舞原くんっ!』
「また猫に戻そ――」
刹那、僕の目の前にあったヒナの顔面が歪み、それを軸に全身が水平に回転した。そして受け身も取れないまま地面に伏した。
「8号パームの心――懸崖猫手」
身体の変化が止まり、床に落ちた僕の双眸は、確かに見た。
「白……わっちん……?」
「来たよ、舞原くん」
画面越しではない、黒和わわの姿を。




