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第78斤

 出来る限り面倒なことは避けて、楽に生きていたい。


 ストレスがかかりそうな場所には近づかない、仮にやって来てしまってもすぐに逃げる。気が合わない人間とは関わりをもたない。やがて気が合う合わないの判断も面倒になったので人と関わること自体を避けるようになった。


 幸せになることはできなくても、不幸にさえならなければいい。


 それが僕、舞原麦也のモットーだった。


 彼女に、出会うまでは。


 目の前の現実を受け入れられず、意識が朦朧とし始める。


 何もしていなくとも汗が滲み始める暑さになった6月のある日の授業中、僕は教室の端の窓から青く澄み切った空とその下に広がるグラウンドを縦横無尽に駆け回っている他の生徒を眺めていた。授業で先生が何を喋ったのか、そんなことは覚えていない。まあ、覚えたとしてもどうせ何の役にも立たないだろうけど。


 板書もそこそこに、やがて授業終了を告げるチャイムが鳴り、休み時間になった。先生が教室を去った途端、がやがやとした音と椅子が床を引きずる音が教室が包む。


 僕の周りの席は、空席となっている。


 きっと人によっては、これは危機的状況だとか、周りに壁を作られているのではないか、作ってしまっているのではないかと考えるのかもしれない。


 だけど僕にとっては、どうでもよかった。


 所詮人間は1人で生まれて1人で死ぬ生き物だ。だから40人近くいるはずの教室で1人になってしまうことも、至って自然なことだ。


 周囲に壁があったところで、僕には壁を破壊するほどのパンチ力もないし、第一自分の手が痛くなるようなことはわざわざしたくない。壁があるなら、できることはせいぜいそれに沿って歩くことくらいだろう。


 むしろ自分の周りにだけ結界が張られているようで少しかっこよくも思う。大勢人が集まっている中で、他者が近寄らない、認識しない、僕だけの居場所。


 なんて素晴らしいんだろ「ねえ!」うか。


「え?」

「え? じゃなくて、何で死んでもないのに死んでるみたいな目してるの?」

「は?」

「ひ? ふ? へ? ほ? はい! 答えて!」


 突如、結界に足を踏み入れてきた人が僕の席と窓の間の僅かな隙間から、僕の顔を身を屈めて覗きこみながら訳がわからないことを聞いてきた。確か名前は……黒和……陽咲だったっけか。入学直後の自己紹介で私は魔法が使えるのですみたいなことを堂々と言い放って盛大に空気を凍らせていたのははっきりと覚えている。


 そっちこそ、威嚇してきてる猫みたいな目で僕を見ないでほしいんだけど。


「自分で自分の目なんて、顔洗うときくらいしか見ないし……」


 なんてことは言えず、そりゃそうでしょうねというような返答しかできなかった。


「ならほら! 鏡!」


 黒和さんは僕の返答を聞くとすぐさま制服の胸ポケットからコンパクトミラーを取り出して、頬を膨らませた顔で僕に鏡面を見せつけた。そこには2時間目が終わり少し疲れた様子の僕の顔が映し出されていた。2時間目でこれなら6時間目になる頃には一体どんな顔になっているのか少し心配になる。


「ね? そうでしょ?」

「死んでるかはどうかわからないけど……疲れてるな、とは思う」

「よね! ダメだよピッチピチの中学生がそんな顔してちゃ!」

「って言われても……」


 どうしろって言うんだ。顔なんて生まれ持ってのものだし、自分じゃ整形でも受けない限りどうしようもないだろう。と僕が口に出さないで脳内で思っていると、黒和さんはその思考を読み取ったかのように僕の頬を両手で掴み取って、言った。


「だったら私が、君の顔をピッチピチにしてあげる!」


 これが僕と――ヒナが出会った瞬間だった。


 それから美顔トレーニングでもさせられるのかと思ったら、YouTubeに投稿する動画制作に付き合わされたり、家に引っ張り込まれたり、押し入れられたりしただろうか。当然常に明るく何でもやりたがる彼女とは正反対の僕は彼女のテンションについていけず何度も彼女から逃げようとした。だけど彼女は僕を逃がしてくれなかった。


 それはなぜなのか、最後まで答えがわかることは無かった。


「どう? 結構思い出したんじゃない?」


 耳元で、彼女の声が、知らない人の口から囁かれる。

 

 ヒナの声を持つその人は、鮮やかなマゼンタ色のショートヘアで、耳の上からはその髪を貫いて闘牛のような歪曲した角が二対生えていた。そして、露出が多い上下の衣装を隠すかのように裾が床につく程の長さの厚く黒いローブを身に纏っていた。こんな見た目の人も、VTuberも、見たことなかった。


「この姿は知らなくても無理ないよ。だってもうアカウント消えちゃってるし」

「どうして……」

「そのどうしてが何についてるのかわかんないけど、私もVTuber始めてみたくなってさ、イラストとかモデル作ってくれる人に依頼したの。でもVTuberって怖いね。正体不明の人が出てきたら、みんなして正体を暴こうとするんだもん。まさかバレないと思ってたけど、バレちゃってさ。男2人と動画撮ってるとかビッチかーって言われちゃってさ、大変だったんだよっ!」


 ヒナの声をした人が言葉を言い切ったと思った途端、顔面に強い衝撃が走り、僕は激しく聖堂の床を、等間隔で配置された教会椅子をドミノのようになぎ倒しながら転がり、床に叩きつけられた。視界が明滅し、状況を把握できない。うごたは、他の人はどうなったんだ。


「他の人は邪魔だったから、消しておいたよ。私たちの邪魔でしかないし」

「あ……?」


 何を、言っているんだ。消した? いつ? どうやって?


「あ、お兄ちゃんには推測されちゃってたっぽいけど、YouTuber消滅事件の犯人は、私だから。私が消えたのも、全部自作自演。この、魔法の力でねっ!」


 起き上がろうとした途端腹部に強い圧力がかかり、僕は再び宙に浮かぶ。

 

 どうして。どうして。どうして。


 それだけが、空中に浮かんで拠り所のない全身を包む。


「私には、夢があるの」


 ヒナがそう言いながら、僕を覆うようにジャンプして、僕に足を向ける。ステンドグラスの鮮やかな光が、後光のように彼女を包む。


「この世界と、現実の世界を、ひっくり返したいの」


 そしてその言葉を聞いた瞬間、胸を重力や脚力という言葉では言い表せない程の力で蹴り飛ばされ、僕は聖堂の床に沈んだ。


「私にとって向こうの世界は、退屈すぎるから」

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