第64斤
「だぅだ、どっだっあっけっらっだのねほ」
この変な声は、白野さんの声ではない。
白野さんに右足を引っ張られながらトラックを乱れに乱れたフォームで走る僕の口から漏れた謎の言語である。
「もうちょっと速く走ってよ!」
「べふらっ」
白野さんは僕を横目でにらみつつ耳によく通る声で僕に言った。やったわっちんモードだわっちんと二人三脚だガチ恋の夢だなんで考えている余裕は全く無かった。白野さんの脚は僕よりずっと細くて白いのに凄まじい脚力を見せていた。配信者は誰しも運動不足なんじゃなかったのか。わっちんだってそう言ってたじゃないか!
「網!」
白野さんが叫ぶと同時に、勢いを殺すことなく身を屈めた。当然それに引っ張られて僕も同じような姿勢にさせられる。刹那、頭に固く細い網目状のものがぶつかる。それはまさしく網であると脳が背中に伝わる感触から認識したときには既に抜け出しトラックを再び引きずり回されていた。右足が持っていかれないように、左足が限界を超えて駆動する。
気づけば目の前には赤い塗料で塗られた木製の平均台が置かれていてどうしたらいいんだろうと考えていたら右足が勝手に重力に逆らった。咄嗟にその右足を平均台の上に乗せると露になった白野さんの首筋が視界に広がった。無駄の無いうなじのラインが普通に綺麗だ。気づけばそれに見とれて他に何も考えることなく右足に導かれるままに平均台を渡り切っていた。
「次縄跳びだから!」
「えあぅ」
「えあうじゃない!」
白野さんにキレられながらも僕は必死に左半身を動かし続ける。他の生徒にどう見られているかとか、他の競技参加者は今どこにいるのかとか、そういうのを確認する余裕は一切なかった。額から汗が零れて目に入るけど、それを拭う余裕もない。
「持って! 10回ノーミスだって!」
そう言われて何も理解できてないまま縄跳びの縄の左端を持たされる。
「せーのっ!」
白野さんが掛け声を上げる。もうとりあえず右足の意識に全集中しよう。跳ぶ跳ぶ跳ぶてぶとぶとぶふとぶふみふどふ。右足が止まる。どうやら跳び終わったようだ。
「いやぁん、難しいぃ~」
「ふへ、ふへけのろわん」
隣で縄に引っ掛かりながらイチャイチャしているクラゲとブロッコリーを横目にチワワは飼い主を引きずりながら再びトラックをゆく。汗が目に入って視界が滲んで何がどうなっているのかは僕にもわからない。頭もわわらなくてぬってちはを。次は何をすればいいんと!?
「ばかぁ!」
思考が全くできない中、白野さんの動きに必死についていっていたら突然叫び声と同時に骨盤辺りに固いものが当たった。何だと思っていると、白野さんが縛られた足をやや強引に曲げて、頬を紅潮させながら僕と向かいあってきた。
「抱いて!」
そして一言、僕にそう言ってきた。
「はい?」
思わず耳を疑う。
『初めての相手はムギがいいな!』
いやいやいやいや。どう考えてもそっちの意味じゃないだろ。白野さんのことだし。
だから僕は、手に滴る汗をジャージで軽く拭った後、白野さんを力いっぱい抱き締めた。
白野さんの、細くて、柔らかくて、温かい身体の感触を、全身で受け止める。
どこか遠くで悲鳴のような、歓声のような声が聞こえるが、白野さんの心音の方が遥かに大きかった。ASMR配信で聞いたときよりも数億倍、彼女がこの世界に生きているのだと認識させられる。そして生命の神秘と歴史に深々と感謝する。
「生まれてきてくれてありがとう」
気づけば僕の口からは、そんな言葉が溢れていた。細胞の皆さん、ここまでバトンを繋いでくれてありがとう。おかげで世界史に永久に刻まれる素晴らしい存在が誕生いたしました。
「愛してる」
「ねとほとほおねおほおそとほおこおのとへのそおへあはそよそとはもしせけのせたへねよあねはえおそとほとせねとへあほはとはおへとほおほおほとほおほおほあへはやそかほおほたほさおあいなおそむれなこほにへもそとや」
今まで生き抜いた全生命体に向けての敬具を述べると奇怪な音が鼓膜を激しく振動させた。そして両肩を激しく突き飛ばされて転倒しそうになるも右手を強く握られて引き戻される。そして微妙に柔らかい何かに顔面からダイブ。そしてそのまま軽く深呼吸をする。多少汗臭いがそれがまた素晴らしい。
ん?
視線を上に向ける。すると顔を真っ赤に染め上げている、涙目の白野さんと目があった。そして僕の顔を強引に押し退け、僕の顔が乗っかっていた場所に大きく膨らんだ茶色い風船を挿入。風船は当然だと言わんばかりにそのままふわふわと地面に落ちた。
「わああああああじゃふぁふぁああああああああっらあああああああああわわあああ!!」
白野さんは絶叫し、崩れ落ちる。僕は右膝に掛かる負担に耐えながら風船を拾い上げる。そして膨らんだ風船と、その、まあ、なんだ。うん。あんまり触れない方がいいと思って今まで意図的に避けてたけど、これは、うん。
「小さくても、うん。僕は好きだよ、うん」
「わあああああああああああっ!」
白野さんは体操着から一切主張してこない胸を両手で抑えて泣いた。僕は黙って白野さんの腕を掴んで立たせる。
「小さい方がバランス取れるから、うん」
「うんうん言わないでぇ!」
そうして、お互い向かい合い、その間に風船をサンドイッチして僕らは掛け声を出しつつ再び歩き始める。
「えっちぃー」
「ほほ、おぎゃあああああ」
後ろを見ると、茶色いクラゲみたいな髪型女子生徒のたわわな果実を間近に見て産声みたいな声を上げているブロッコリー頭の男子生徒が視界に入った。すると白野さんの視線が突き刺さったので白野さんの方に視点を戻す。
「見ないで!」
「えぇ……」
こっちを見ろってことじゃないのか。やっぱりよくわかんないな。なんて思っていると目の前に移動式鉄棒が現れた。2mほどの高さの鉄棒には、パンが8個紐でぐるぐると結ばれてぶら下げられていた。
「好きなのを選ぶといいっすよー。……ま、選ぶ必要なんて無いと思うっすけどー」
委員長が気怠そうに鉄棒が倒れないように支えながら言った。白野さんは「雪ちゃん……」と呟きながら委員長の胸元を見ていた。それはともかく鉄棒にぶら下げられていたパンは、アンパン、食パン、カレーパン、クロワッサンであり、それぞれ2個ずつ並べられていた。ちなみにぱんぶれ所属のパン系VTuberはこのパンの中ではクロワッサン以外存在しない。だから僕はすぐさま無言でジャンプしてクロワッサンを齧り取った。
「わ、私も!」
白野さんも何度かぴょんぴょんと飛び上がるとやがてもう1つのクロワッサンを齧り取った。両足を揃えて綺麗に着地した。ジャンプの最中に捲れた体操服から白いお腹がちらちらしていたことは黙っておく。
「後はゴールまで一直線っすよー! 頑張るっすー!」
上機嫌な声で委員長に言われ、僕たちは50m程先にあるゴールテープに向かって文字通り足並みを揃えて真っすぐに向かって行った。
そしてそのまま、僕たちはゴールテープを真正面で突き抜けた。
「1着だぁ……!」
白野さんが白野さんモードに戻りながら燃え尽きたように言う。ちなみに他の出場者は、各々変なところでおかしな姿勢でイチャイチャし続けていた。
「ちゅーしろー!」
どこからか聞こえる声を無視しながら、僕は身を屈め、右足を縛る紐を解く。
「する……?」
紐を解き終えて、別々になった瞬間、白野さんが俯きながらそう言った。
「する?」
「ここじゃだめええええ!」
殴られた。
やっぱり白野さんは、相変わらず、よくわからない。




