参拾肆――フューチャー・ブレイカー
朝の陽ざしが辺りを照りつける。
ここは洗礼教会対軋轢魔法支部の本部がある近くの都会。
多くのビルが立ち並び、人々の活気で満ち溢れている。世界中を恐怖に陥れる『軋轢魔法』なんて知らないとでも言うように、街は平和で溢れていた。そりゃそうだ、軋轢魔法は即殺される。軋轢魔法がこの街にいないのは道理だった。
洗礼協会対軋轢魔法支部のビルの屋上で、ワイシャツ一枚にパンツ一丁の少女が、空を見上げていた。
澄み渡った青い空は、人々の心の不浄など一切気にも留めずに、変わらず青くあり続ける。人間には到底たどり着けない色だろう。と、少女は自分も含めて憐れんだ。
雪れぎなは、ただ一人でその空を見上げていた。
いつもなら、亜木山将監が後ろにいるはずだったが、今はいない。あの時、魔術師を総動員して軋轢魔法の殲滅へ赴いた直後に失踪したとだけ聞いた。れぎなは、彼が一体どういう理由でいなくなったのか、なんとなく解っていた。彼の過去はデータベースで調べて全て知っている。妻と娘が軋轢魔法に殺された事も、その原因となった、と思われる還崎洋という青年を憎んでいた事も。きっと、将監はその復讐へ向かって、死んだのだ。
れぎなはそんな事は慣れっこだったし、いつもの事だったが、あんなにれぎなを自分の子どものように接して優しくしてくれた人間が永遠にいなくなる事は、純粋に悲しく、寂しかった。
いつも、いつもの事だと理解して、悲しみを抱いて終わる。
どれだけ正義の為に尽くしても、報われた事は一度もなかった。洗礼協会の掲げる『正義』など、血生臭い人殺しでしかないのだが。その道具でしかない自分が行う正義など、どれだけ醜悪なものかは解っていた。ただ、それで多くの人々が救われている事は事実だ。だから、やめる事はできなかった。
「いい天気だな……ねえ、司令官」
呼んでも、誰も答えない。
代わりに風が、後ろには誰もいないのだと教えてくれた。
「いいの……もうすぐ終わるから。残りの軋轢魔法を殺せば一段落つく」
誰にも届く事のない言葉を、ただ紡ぎ続ける。虚空の先へ。
「そうしたら、司令官のお墓、たてるね」
んーっ! と伸びをして、深呼吸を一つ。
心は思っていたよりも晴れやかだった。
不思議と軋轢魔法は憎くない。将監はいつか死ぬだろうと確信していた。あんな危うい生き方をしていたのだ、たとえれぎなが止めたとしても、彼は進み続けただろう。そう思う心のどこかでは、止めていればよかったのかもしれないという後悔が渦巻いていたが、今となってはどうしようもない。
そう、どうしようもない事だ。
どれだけ他人の為に尽くしても、その見返りを得た事は今まで一度もない。大げさな言い方だが、事実そうなのだ。
やりたくてやった訳じゃない。全て自身に課せられた使命だっただけだ。
意思も信念もない。
「……私は、こんなのになりかった訳じゃない」
子どもの頃に夢見た正義のヒーローは、もっと、強くてかっこよくてみんなから慕われてどんなに強い敵に負けそうになっても応援してくれる人がいる。そして、最後には必ず勝つ。なのに、目指した先にあったのはただの体のいい殺し屋。まあ、アレは全て架空の物語なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。そんな都合のいい事が起こる訳がない。
それでも、幼い頃にれぎなが見たとあるヒーローは、そういうものだった。
彼は最後まで自分を貫き続けた。
思えば本当に、間抜けな最期だったと思う。救う必要のない者を救おうとして、間違えて殺された。
それでも、幼い頃にれぎなが夢見たヒーローは、そういうものだった。
「ほんと、ああいう人達って、天邪鬼ばっかだよねー。わざわざみんなとは逆の方向を行こうとするんだもん。たった一人だけの為に、なんであそこまでするかな……分かんないよね。考える事が」
れぎなはみんなの為に頑張っている。みんなの為なら、自分の意思だって殺して見せる。それが、本当に正しい事ではないと分かってはいる。ただれぎなは、あんな無駄な事をして死んだあのヒーローが許せなかった。
「正義は私物じゃないんだ……」
自分に言い聞かせるように、れぎなは小さく呟いた。
と、れぎながいるビルの下、並木通りの方がざわついているのが聞こえた。
屋上から覗き込んでみると、洗礼教会の本部ビルの前で人だかりができていた。一人の人間の周囲を囲むように、人が集まっている。
「――ッ、この感じ……あの軋轢魔法の時と同じ……」
ゾクッ、と背筋が凍り付いた。
前夜戦った礫砕同盟の長、メルシィ・クレンドロスが放っていた殺気……または闘気に似ていた。一切の迷いがない真っすぐな目は、そうではない者を怯えさせる。戦う以前から負けているような気さえしてくるその感覚を、あの少女は放っている。
金髪の少女。見覚えのない顔だが、間違いなく彼女はれぎなに会いにきた事を、れぎな自身は察した。
「軋轢魔法……いや、だとしたら既に知らせが来てるはず」
だとしたら、礫砕同盟の協力者か……?
どちらにせよ、敵である事は明確だ。感覚的なものだが、れぎなはあの少女が自分の敵なのだと直感的に感じ取っていた。
手すりに足をかけ、飛び越えた。
小さな体が中空に投げ出され、やがて猫のように危なげなくビルの屋上から陸地へ着地した。
どよめく野次。だがそれらはやがてざわめきへと変わる。
ここの住人は雪れぎなを知っている。軋轢魔法から人間を守っている事も知っている。そんな正義の味方が現れたという事は、目の前の少女は危険な存在なのだと、気付き始めていた。それでもすぐに逃げ出さない危機感のなさに、れぎなは勇敢さと同時に苛立ちを感じた。
金髪の少女は、れぎなに気が付いたのか振り返る。
「一番偉い人と、話がしたいんだけど」
少女は淡々と告げた。
感情があるのかないのか分からない。まるでそれが定められた事であるかのように、異様な威圧感を放っている。
「おねーちゃん何者? 軋轢魔法?」
「……合ってるような、違うような」
その問答でざわめきは恐怖へと変化した。
動きがなかった野次が少しずつ円を広げ、二人から離れていく。この少女の孕む危険性に気が付いたのか。
そう、それでいい。それが正しい反応だ。反応はなくとも、軋轢魔法である事に間違いはない。この感覚、この身の毛のよだち……間違いなく軋轢魔法だ。
れぎなは、ゆっくりと手を前に掲げる。その手に現れるは無骨な両手剣。決して鋭くはないが、ソレは斬るモノではなく断つモノ。刃に触れた肉を骨を叩き折る刃。それを金髪の少女に向けて、敵意を、殺意を解放する。
「その首を置いていきなさい。ここがお前の墓となる」
「……」
だが、目の前の少女は両手を上に挙げた。
まるで、戦う意思などないと言うように。
ならば殺すだけだと冷酷に、れぎなは不揃いの刃で少女を貫いた。決して鋭くはないソレは肉と骨を開き抉るような音を立てて少女の体を串刺しにする。
「な――」
確かに、貫いたはずだった。
なのに血が出ていない。思わず引き抜いた両手剣の刃には、血が全く付着していなかった。
「軋轢魔法は、ヒトの心の恐怖の象徴」
少女の胸に開けられた空洞はすぐさま塞がれ肉体が再生する。
「ヒトが他人を恐いと思う、本来なら心の奥底にしまわれているはずの感情。こんな事を言っては喧嘩になるかもしれない。こんな事をしては誰かに怒られるかもしれない。そんな思いが、何かを切っ掛けにほんの少しでもささくれ立ち、心無い言葉を言ってしまう。言われた人も、思わず同じように返してしまう。そんな負の連鎖が軋轢魔法。
自分を傷付けようとする他人を恐れ、自分を守る為の防衛反応がまた攻撃を加えてしまう。そうして、どんどんと大きくなり……やがて破壊が生まれてしまう」
そんな事は百も承知だった。
れぎなはずっとそんな人間達を見てきたのだから、軋轢魔法がそういうものだとはなんとなく解っていた。
「だったらなんだっていうの……? 他者への負の感情は決して消える事はない。だったら、破壊を齎す最後の原因たる軋轢魔法を殺し続ければ――」
「それに、意味がないと貴方も解っているでしょ?」
――知るか!! 知るか!! 知るか!!
そんな事は分かってる!!
知ったような口を利くな!!
私は――私は皆の正義の味方でなければいけないんだ!!
その為には……軋轢魔法を殺さないと……殺さない、と……
「ああああああああああああああああああ!!」
感情に任せ、両手剣を振り上げる。刃が金髪の少女の肩に喰いつき、削ぎ落とす。だがやはり、少女は動かない。微動だにせず、痛みを感じる素振りも見せず。ただ真っ直ぐに、れぎなを見つめていた。
――関係ない関係ない関係ない!!
私はその為だけに生きてきた!! 皆の正義の味方でいる為だけに!!
あんな風に、私はあんな風に死にたくない……父さんみたいに死にたくない。
「――ッ」
肩に食い込んだ刃を力任せに斜めに降ろす。
ゴリゴリと音を立てながら肉を裂いていく。
ただ、切られている少女は、苦しみの表情ではなく、れぎなを憐れむような顔をしていた。
まるで、その心を見透かしているような。心の中に巣食う闇を理解しているような。だが、そんな事は有り得ないはずだ。あり得てはいけない。れぎなにとって一番デリケートで、知られたくない感情。
それを見透かされる事が、どれほどの屈辱か。
「なんだよ……なんだよその顔は!!」
「…………」
目の前の少女は絶対に分かっている。
分かっていて、自分が見透かしているのだと気付くと悲しむと思って知らない振りをしている。
れぎなはふと、その行為に優しさを覚えたが――軋轢魔法に対する憎しみが、それを反転させてしまう。
「あああああああ――ッ!!」
一刀両断とは正にこの事。
骨を断つ両手剣は、少女の体を斜めに裂いた。
だが、そんな傷さえも一瞬で元の体に戻ってしまう。目の前の金髪の少女は既に人間ではない。
怪物。だとしたらもはや軋轢魔法とは変わらない。いつもと同じでいい。軋轢魔法の言葉になど一片すら耳を貸す必要はない。
再生能力にも限界はあるはずだ。
いつか魔力がなくなり、蘇生も遅くなる。それまで殺し続ければ問題ない。
冷静になれと、れぎなは自分に言い聞かせる。
そして、無抵抗の怪物を、再び切り伏せた。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も――
その様相は一方的な殺戮に他ならない。ただ、周りの人間は固唾をのんで見守るだけ。それが、当たり前の光景だから。軋轢魔法は、殺さなくてはいけないから。
「はぁ――はぁ――」
だと言うのに、どれだけ殺しても、その少女は絶対に傷付かない。
もしや魔力は無尽蔵なのだろうか――?
そう考えたれぎなは、使いたくなかった最後の手段へと手を伸ばす。通信機のボタンを押した。
それが合図。
「気は済んだ? だったら話を――
「滝反背人は……こちらの手にある。軋轢魔法はまさかあんな所に隠れてたなんてね。驚いたよ」
分かるよな? という旨の笑顔。
本人が決して死なないのであれば、その仲間を利用するしかない。今までだってそうしてきた。メルシィ・クレンドロスだってそうやって殺した。
幸いだったのは、まだ仲間が残ってくれていた事だろう。
あとは、この少女を捕縛してそれで終わり。その後、その少女がどうなるかはれぎなは知らない。どうせ、暗部に連れて行かれて体のいい実験道具として使われるのだろう。死なない事を恨むくらいには辛いめに合わされるのだろう。
「さ、分かったら黙って捕まってくれる?」
「断るわ。私は、話を聴いてもらう為にここに来た。その機会を、失う訳にはいかない」
「へぇ、じゃあ愛しの妹分が死んでもいいんだ」
「…………」
その、如何なる場合にも揺るがない瞳が、れぎなは死ぬほど嫌いだった。
似ていたから。
間抜けに死んだあのヒーローに、父に、似ていたから。
「右手をやれ」
『了解』
インカムから発砲音が響いた。
同時に、轡をされているのかくぐもった少女の声。これでプレッシャーをかけ、て――
「は――!?」
ワケが、分からなかった。
確かに、銃弾はインカムの向こうの少女の手を貫いたはず。発砲音もした。
なのに、血を流していたのは目の前の金髪の少女。こちらからは何もしていないはずのに、少女の右手には赤黒い穴が開いていた。
傷を肩代わりしているのか――? だったら、だったら……!!
「その少女を殺せ――!!」
『ですが、それでは人質の意味が――
「いいから殺せッ!!」
何発もの銃声が聞こえる。
その度に、目の前の少女が蜂の巣に、傷だらけに、黒い血だらけになっていく。その傷はそう簡単には塞がらないようだ。それでも通常の治癒よりも早い速度だが、先のように血も出ないほど一瞬で回復していない。
それでも、そこまでしてでも、少女は死なない。
その日本の足で確かに、地に足をつけて立っている。
「なんで……なんでなの……?」
「軋轢魔法が、結局はヒトの心由来のものだと理解すれば、軋轢魔法は消滅する。そうして、私は軋轢魔法ではなくなった。私のはちょっと特殊だけど、背人はもう、完全に普通の人間のはずよ」
「それは……」
そう、滝反背人からは、軋轢魔法の反応が一切しない。
「知る事自体は簡単でも、理解そのものはそう簡単にできる事ではないかもしれない。けれど、この言葉が相手を傷付けると分かるのなら、それを言わないようにする自制心。起きてしまった争い事があるのなら、それを止める方向に向かわせようとする勇気。それらは、変に努力をしなくても身に着けられるはず。いや、元からあるはず」
「それができないから……争いが起きたままなんじゃないのか」
「それをする事で軋轢魔法がなくなる事を、私は伝えに来たの。何か、本当に些細な何かが原因で、心の開いてはいけないパンドラの箱が開いてしまう。それに、気が付く事ができれば、箱の蓋、そのカギは閉められる」
「そんな……簡単な事……気が付かない訳が――
だが、れぎなは自分の言動を反芻した。
本当に気が付けていただろうか?
この少女に対する憎しみが先行して、冷静な判断ができていなかったのではないか?
もし、それで本当に軋轢魔法が消えるのなら、もしそんな簡単な事で、これ以上誰も殺さずに済むのなら――
でも、それが本当なのだとしたら、
そんなくだらない事で死んだ、私の父さんの、死の意味は?
本当に、人間とは愚かな生き物だ。
既に、周囲の野次は少女の言葉に感化され始めている。
なんて自分勝手なんだ……今まで、なんの為に殺してきた。なんの為に父は死んだ!!
「分かった」
「本当!? じゃあ、他のみんなにも――
少女の言葉は本部にも届いているはずだ。
そして、多くの人間の心が変わるのなら、いずれ洗礼教会も変わらざるを得ないだろう。
軋轢魔法に対する感情を利用した人心掌握も、諦めざるを得ないだろう。
だが、そんなものは関係ない。最初かられぎなは知った事ではない。
れぎなにとって大事なのは、死んだ父の死の意味を、その証を残し続ける事。あんなくだらない事で、あんなくだらない人間を守った。そのくだらない人間を守る事が、れぎなにとって一番大切な事。
それを、心無い言動をしてはいけないと気が付けていればよかった――そんな事で覆される訳には、いかなかった。
「矛盾しているわ、貴方は。その守りたい人間を殺しているじゃない。どんな人間だって生きる理由は存在する」
「黙れ黙れ黙れ――!!」
みんな同じだ。
軋轢魔法だとろうと、そうでなかろうと。人間は皆同じだ。
「大丈夫。どのような事になっても、貴方のお父さんの死が、無駄になる事はない。私だって、貴方のお父さんの事は尊敬しているもの。正義の味方、そんな言葉が一番似合う人だと思うわ、あの人は」
「うるさい……」
分かっていた。
これらの感情全てが、自分の為だという事は。自分の生きてきた意味を保ちたいだけの感情だという事は、れぎなも分かっていた。
それでも、認めたくはない。
れぎなはホルスターの拳銃に手をかけた。
それを自分のこめかみに当てて引き金を引く。それが何を意味するのか、れぎな自身理解しながら。
目の前の少女の頭を鉛玉が貫通した。
黒い血が横から噴き出した。
「あ――ぐ、大丈夫。貴方がもう苦しむ事はない」
「――ッ!!」
また、引き金を引いた。
幾度も繰り返した。
もう、自分が何をやっているのか分からない。
それでも、自分の足跡を破壊されたくないという感情だけは、確実に、確かに存在した。
「大丈夫――」
「あ……あぁ」
抱きかかえるように、金髪の少女はしゃがんで、れぎなの背中に手を回した。
その感触は、久しく感じていない母のものにとても似ていた。
その感触で目が覚める。右手の拳銃を思わず零し、自分がやっていた事を理解し、目の前の少女の状態を見て、後悔した。
頭から黒い血を流している。
そして、眠るように――




