「原初の子」
――黒い月が、笑った。
直人には、そう見えた。
ほんの一瞬。
赤ん坊の瞳の奥に浮かんだ、黒い月。
それはすぐに消えた。
だが。
直人の胸には、嫌な予感だけが残った。
「……ミオ」
「うん」
「今の、見たか?」
「見た」
ミオの顔は青ざめている。
「この子は……ただの子じゃない」
天音が赤ん坊を抱き上げる。
「でも、この子は生きてる」
「……」
「ちゃんと泣いて、ちゃんと笑ってる」
赤ん坊は天音の胸元で、小さな手を動かしている。
そして。
直人を見る。
「……なおと」
直人はゆっくり近づいた。
「俺を知ってるのか?」
赤ん坊は答えない。
ただ。
小さく笑った。
その瞬間。
直人の頭の中に、一つの映像が流れ込んだ。
――何もない場所。
完全な暗闇。
その中央に、一人の幼い少年が立っている。
少年は直人に似ている。
だが、直人ではない。
少年の前には無数の扉があった。
第一世界。
第二世界。
第三世界。
境界世界。
そして。
まだ存在しない第四世界。
少年が扉に触れる。
すると。
すべての世界が消えた。
「……!」
直人は息を呑んだ。
「どうしたの?」
天音が心配そうに尋ねる。
「今……見えた」
「何が?」
「この子が……世界を消した」
天音の表情が変わる。
しかし。
ミオが首を振った。
「違う」
「何が?」
「消したんじゃない」
ミオは赤ん坊を見る。
「戻したんだよ」
「……戻した?」
「世界が分かれる前に」
ミオは震える声で続けた。
「全部が一つだった場所へ」
直人は黙った。
少年の姿。
無数の扉。
そして。
何もない世界。
もしミオの言う通りなら。
この赤ん坊は――
世界が生まれる前の記憶を持っている。
「じゃあ、この子は……」
「世界の始まりそのもの」
ミオが答えた。
そのとき。
第四世界の空に、巨大な亀裂が走った。
――ズズズズズ……。
大地が揺れる。
人々が空を見る。
「また何か来る!」
少年が叫ぶ。
直人は赤ん坊を天音から受け取った。
「何だ?」
亀裂の向こうから。
一人の男が歩いてくる。
黒い服。
白い髪。
そして――
見覚えのある顔。
「……また俺?」
直人が呟く。
しかし。
その男は直人ではなかった。
顔は同じ。
だが。
目が違う。
両目とも――真っ黒だった。
「久しぶりだな」
男が言う。
直人の背筋に寒気が走る。
「誰だ?」
「私は――」
男は赤ん坊を見る。
「最初に世界を作った直人だ」
直人の表情が凍る。
「……何?」
「君が知っている『最初の直人』は、まだ幼かった」
男は続ける。
「そのさらに前がいる」
「俺より前の俺?」
「そう」
男は笑う。
「私は、すべてを知っている」
天音が前に出る。
「だったら教えて」
「何を?」
「この子は何なの?」
男は赤ん坊を見る。
そして。
初めて表情を変えた。
「……恐ろしいものだ」
「どういう意味?」
「この子は、世界を作れる」
「それだけ?」
「違う」
男が首を振る。
「この子は――」
黒い瞳が赤ん坊を捉える。
「世界を必要としない。」
直人の顔から血の気が引く。
「……世界を必要としない?」
「そう」
男は言う。
「世界が存在するためには、時間が必要だ」
「時間がなければ、過去も未来も存在しない」
「空間がなければ、生命は存在できない」
「記憶がなければ、存在を認識できない」
男は赤ん坊を指差す。
「この子は、そのすべての外側にいる」
ミオが震える。
「そんな存在……ありえない」
「だから――」
男が笑った。
「原初の子と呼ばれている」
赤ん坊が男を見る。
その瞬間。
男の身体が震えた。
「……なぜ」
男が後退する。
「なぜ私を見る?」
赤ん坊は。
ゆっくり手を伸ばした。
男の黒い瞳から。
涙が一滴落ちる。
「……怖い」
男が初めて怯えた。
「その目だけは……」
赤ん坊が微笑む。
「……やめろ」
次の瞬間。
世界が止まった。
風が止まる。
人々も止まる。
直人も。
天音も。
ミオも。
少年も。
すべてが動かなくなった。
ただ一人。
赤ん坊だけが動いていた。
赤ん坊は天音の腕から抜けると。
ゆっくり地面へ降りる。
そして。
何もない空間に向かって歩き始めた。
「……待って」
直人は動けない。
声すら出ない。
赤ん坊は。
一つの場所で止まった。
何もない空間。
そこに。
一本の線を描く。
小さな指で。
空中に――
扉を描いた。
扉が現れる。
その向こうから。
何かがこちらを見ている。
直人の身体が震えた。
なぜか。
その存在を知っている。
ずっと昔から。
そして。
扉の向こうから声がした。
「――やっと会えたね」
直人の心臓が止まりそうになる。
その声は。
自分の声だった。
しかし。
もっと幼い。
もっと純粋で。
もっと寂しい声。
「……誰だ」
直人は必死に声を出す。
扉の向こうから。
「僕だよ」
「……」
「君が忘れた――」
扉がゆっくり開く。
その向こうにいたのは。
小さな少年。
直人と同じ顔。
そして。
その少年の隣には――
幼い天音。
さらに。
幼いミオ。
三人が手を繋いでいる。
直人は言葉を失った。
「これは……」
少年が笑う。
「最初の日」
「何の?」
「世界が生まれた日」
少年が一歩、こちらへ出る。
「そして――」
その瞬間。
第四世界の空が真っ黒に染まった。
「世界が生まれた理由を――」
少年が直人を見る。
「君はまだ思い出していない。」




