「黒い月の欠片」
――新しい世界。
それは、何も起こらない世界だった。
空は青い。
道路には車が走り、人々は笑い、街にはいつもの生活がある。
誰も知らない。
この世界が、一度すべて消えたことを。
そして。
もう一度、作り直されたことを。
直人と天音も知らなかった。
自分たちが、かつて何千回も世界を繰り返したことを。
ただ一つ。
二人の胸の奥には、説明できない感覚だけが残っていた。
――ずっと前から、知っている。
そんな感覚。
「……変な気分だな」
カフェを出た直人が言った。
「何が?」
隣を歩く天音が振り返る。
「君と会うのが、初めてじゃない気がする」
「私も」
天音は笑う。
「でも、初めてなんだよね」
「ああ」
「じゃあ――」
天音は空を見上げた。
「これから、知っていけばいいんじゃない?」
「……そうだな」
二人は歩き出した。
その背中を。
遠くから見つめる少女がいた。
ミオだった。
「……よかった」
ミオは小さく笑う。
「今度こそ、普通に生きられる」
しかし。
空を見上げた瞬間。
その笑顔が消えた。
青空の中央。
誰にも見えない場所に。
黒い小さな欠片が浮かんでいる。
「……まだ残ってる」
ミオが呟く。
黒い月の欠片。
それは、ゆっくりと脈打っていた。
――ドクン。
「まさか……」
ミオは走り出した。
直人と天音のいる方向とは、反対へ。
街の外れ。
誰もいない廃工場。
その地下。
古い鉄の扉がある。
ミオは鍵を取り出した。
しかし。
鍵を差し込む前に。
扉が――
内側から開いた。
「……!」
ミオが後退する。
「誰?」
返事はない。
暗闇の中から。
一人の少年が出てきた。
黒い髪。
白いシャツ。
年齢は十六、七歳ほど。
そして。
左目だけが、黒く染まっている。
「……あなた」
ミオが震える。
「どうしてここに?」
少年は笑った。
「ずっと待ってた」
「何を?」
「世界が完成するのを」
ミオの顔から血の気が引いた。
「あなたは……」
少年は自分の左目に触れる。
「これ?」
黒い瞳の奥で。
何かが動いた。
「これは、あの月の欠片」
「……!」
「三百年前の世界から、ずっと残ってた」
ミオは首を振る。
「ありえない」
「どうして?」
「第三の世界を作ったとき、すべて消えたはず」
「全部は消えなかった」
少年が笑う。
「一つだけ残った」
その瞬間。
少年の背後に、黒い文字が浮かんだ。
――《旧世界残存データ》
ミオが息を呑む。
「あなた……人間じゃない」
「違うよ」
少年は首を振った。
「人間だった」
そして。
「今は――世界の記憶だ」
地下全体が震えた。
黒い月の欠片が、空中へ浮かび上がる。
少年の左目と共鳴する。
――ドクン。
――ドクン。
世界のどこかで。
何かが目を覚ました。
ミオは少年を睨む。
「何をするつもり?」
「決まってる」
少年は笑う。
「世界を、元に戻す」
「……!」
「前の世界へ」
「そんなことをしたら……」
「知ってる」
少年の笑顔が消える。
「また、全部が壊れる」
「だったら、どうして!」
「壊れた世界には――」
少年は静かに言った。
「俺が生きていたから」
ミオは言葉を失った。
「俺は、あの世界で生まれた」
「三百年を生きた男が消える直前に」
「最後に残した願いから」
ミオが震える。
「……あの人の?」
「そう」
少年は頷く。
「最後の人間が願ったんだ」
少年の左目から黒い涙が流れる。
「――『誰か一人でも、あの世界を覚えていてほしい』って」
ミオの目が見開かれる。
「だから俺が生まれた」
「世界の記憶として」
「そして今まで眠っていた」
少年は地下から外へ向かって歩き出す。
「でも、もう目が覚めた」
ミオが叫ぶ。
「待って!」
少年は振り返らない。
「世界を戻したら、直人も天音も消える!」
少年の足が止まった。
「……分かってる」
「なら――」
「でも」
少年は振り返る。
「俺は、あの世界で三百年生きた」
その目には。
深い孤独があった。
「俺にも――生きていた世界を守る権利があるだろ?」
ミオは答えられなかった。
その頃。
直人と天音は。
何も知らずに街を歩いていた。
突然。
「……直人」
「ん?」
天音が立ち止まる。
「今、何か聞こえなかった?」
「何が?」
「……泣いてる声」
直人が耳を澄ます。
何も聞こえない。
「気のせいじゃないか?」
「……そうかな」
天音は空を見上げる。
青空の中央。
一瞬だけ。
黒い影が見えた。
「……月?」
「昼間なのに?」
直人が空を見る。
もう何もない。
「……変だな」
二人は歩き続ける。
しかし。
直人のポケットに入っていたノートが。
突然、勝手に開いた。
ページがめくれていく。
最後のページ。
そこには、今までなかった文章が書かれていた。
――《第三の世界は、間違いだった》
直人の足が止まる。
「……天音」
「どうしたの?」
直人はノートを見せる。
二人で文字を読む。
その下に。
新しい一文が浮かび上がった。
――《旧世界が、帰還を開始します》
その瞬間。
空が――
黒く染まった。




