「普通の世界」
――朝。
世界に、初めて静かな朝が訪れた。
鳥が鳴いている。
風が吹いている。
木々が揺れている。
どこにでもある。
当たり前の朝。
それなのに。
直人には、それが何よりも新鮮だった。
「……朝か」
ベッドの上で、直人はゆっくりと目を開けた。
天井。
カーテン。
窓から差し込む光。
どれも普通だった。
身体を起こす。
痛みはない。
違和感もない。
そして――
「……俺、生きてる」
そう呟いた瞬間。
胸の奥に、何かが引っかかった。
何か大切なことを忘れている。
そんな感覚。
「何だったんだ……?」
直人は考える。
しかし。
思い出せない。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
画面には、一つの名前。
――天音。
「……天音?」
知らない名前だった。
なのに。
なぜか、指が震えた。
直人は電話に出る。
「もしもし?」
『……直人?』
声を聞いた瞬間。
心臓が強く跳ねた。
「……誰?」
向こう側が沈黙する。
『……そっか』
少しだけ寂しそうな声。
『まだ、思い出してないんだね』
「……え?」
『ううん。何でもない』
電話が切れた。
直人は画面を見つめる。
「……なんなんだよ」
それでも。
胸の奥に、確かな温かさが残っていた。
――この声を知っている。
そう思った。
同じ頃。
別の場所で。
天音もまた、目を覚ましていた。
「……ここは?」
見慣れない部屋。
机の上に一冊のノートがある。
天音は手に取った。
表紙には、何も書かれていない。
開く。
最初のページ。
そこには一行だけ、文字があった。
――『誰も死なない世界なんて、作らなくていい』
天音の胸が痛くなった。
「……誰が書いたの?」
答えはない。
ページをめくる。
次のページには。
――『大切な人がいなくなるのが怖い』
その次には。
――『それでも、人は生きていかなきゃいけない』
天音の目から涙が落ちた。
「……どうして泣いてるんだろう」
理由は分からない。
けれど。
ノートを閉じることができなかった。
そして。
直人の部屋にも、同じノートがあった。
直人はページを開く。
そこには、見覚えのない文字。
しかし。
確かに自分の筆跡だった。
――『もし、全部忘れてしまっても』
直人は息を止める。
次の行。
――『もう一度、出会えばいい』
「……」
直人の指が震える。
さらに下には。
――『そのときは、世界を救おうとしなくていい』
最後の一文。
――『ただ、一緒に生きればいい』
直人は長い間、その文字を見つめていた。
「……誰なんだ」
その答えを求めるように。
直人は外へ出た。
街を歩く。
人々が普通に暮らしている。
誰も世界を管理していない。
誰も運命を書き換えていない。
誰も「世界の声」を聞いていない。
――普通の世界。
それだけだった。
交差点で信号が赤になる。
直人は立ち止まる。
向かい側。
一人の少女が立っていた。
長い髪。
白い服。
「……ミオ?」
直人の口から、その名前が出た。
少女が顔を上げる。
「……え?」
直人自身が驚いた。
「今、俺……何て?」
少女は困ったように笑う。
「私の名前、知ってるの?」
「……いや」
直人は首を振る。
「初めて会った気がする」
「そう」
少女は笑った。
「じゃあ、初めまして」
信号が青になる。
少女は歩き出す。
その背中を見ながら。
直人は呟いた。
「……ミオ」
少女は振り返らなかった。
そのまま、人混みの中へ消えていく。
直人はしばらく立ち尽くした。
そして。
スマートフォンが再び鳴った。
今度はメッセージだった。
《駅前のカフェに来て》
《話したいことがある》
送信者。
――天音。
直人は少し迷って。
駅へ向かった。
カフェの窓際。
天音は一人で座っていた。
直人が入ってくると。
天音は顔を上げた。
二人の目が合う。
その瞬間。
――世界が、ほんの一瞬だけ静かになった。
「……久しぶり」
天音が言った。
「……初対面だよな?」
「そうだね」
天音は笑った。
けれど。
その笑顔には、涙が混じっていた。
「なのに……」
「うん」
「どうしてだろう」
天音は胸に手を当てる。
「あなたを見ると、ずっと待ってた気がする」
直人は何も言えなかった。
そして。
ポケットの中のノートを握りしめる。
「俺も……」
直人は言った。
「君を、ずっと探してた気がする」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて天音が笑う。
「じゃあ……」
「ん?」
「もう一度、最初から始めようか」
直人も笑った。
「ああ」
その瞬間。
カフェの窓に、一瞬だけ文字が浮かんだ。
――《世界再構築:完了》
直人は気づかなかった。
天音も気づかなかった。
しかし。
街のどこかで。
一人の少女が、その文字を見ていた。
ミオ。
彼女は静かに呟く。
「……まだ終わってないよ」
そして。
空を見上げた。
そこには――
黒い月の欠片が、一つだけ浮かんでいた。




