「三百年生きた男」
――三百年。
その言葉だけが、直人の頭に残っていた。
「三百年……」
直人は目の前の男を見る。
顔は自分と同じ。
声も似ている。
だが、その目だけが違った。
長すぎる時間を生きた者の目。
そこには、疲労も、諦めも、そして――怒りもあった。
「お前は……誰だ?」
男は答える。
「名前はない」
「またか」
「三百年も生きていれば、名前なんて必要なくなる」
男は笑った。
「皆、私を『最後の人間』と呼んだ」
天音が眉を寄せる。
「最後の……人間?」
「ああ」
男が指を上げる。
黒い月の内部に、かつての世界が映し出された。
誰も死ななくなった世界。
人々は永遠に生きている。
しかし。
街には誰もいない。
建物は崩れ。
道路は植物に覆われ。
海は黒く濁っている。
「世界が壊れても、人間は死ななかった」
男の声は静かだった。
「病気になっても」
「身体が腐っても」
「餓えても」
「最後まで、生き続けた」
天音は目を伏せる。
「……それは、生きていると言えるの?」
「分からない」
男は答えた。
「三百年間、それだけを考えていた」
「そして?」
「分からなかった」
直人は拳を握る。
「じゃあ、お前は俺を恨んでいるのか?」
「もちろん」
即答だった。
「私の世界を作ったのは君だ」
「……」
「私は君の願いの犠牲者だ」
男は直人へ近づく。
「だから私は、君に聞きたい」
「何を?」
「なぜ、人間を死なせたくなかった?」
直人は答えられなかった。
「……怖かったから」
「何が?」
「失うことが」
直人は天音を見る。
「大切な人がいなくなることが怖かった」
「それだけ?」
「……それだけだ」
男はしばらく黙っていた。
やがて。
「それなら、君は優しかったんだろう」
直人が顔を上げる。
「でも――」
男の表情が変わる。
「優しさだけでは、世界は救えない」
空間が震えた。
黒い月の奥から、無数の声が響く。
『生きたい』
『死にたい』
『怖い』
『消えたくない』
『終わりたい』
すべての感情が混ざり合っていく。
直人は耳を塞ぐ。
「……うるさい!」
「これが世界だ」
男が言った。
「人間の願いは一つじゃない」
「だから……」
直人は顔を上げる。
「俺は選べなかった」
「そうだ」
「だから世界に選ばせようとした」
「それも間違いだった」
「……なぜ?」
「世界は答えを出せない」
男は黒い月を見上げる。
「世界は、人間の集合体だからだ」
直人は黙る。
「人間一人一人が違う答えを持っている」
「だから世界も一つの答えを持てない」
男は直人を見る。
「だから最後に残ったのは――」
男の胸に黒い光が集まる。
「私だった」
「……?」
「三百年間、誰も死なない世界を見続けた私だけが」
黒い光が巨大になる。
「『死』というものを知っている」
直人の目が細くなる。
「お前は何をするつもりだ?」
「世界に死を戻す」
天音が息を呑む。
「でも、それをしたら……」
「今までの世界も、この第三の世界も消える」
「なぜ?」
「三つの世界は、すべて同じ願いから生まれた」
男が手を広げる。
「だから一つを残すなら、二つを壊さなければならない」
「……」
「私はそれをやる」
直人が前へ出る。
「させると思うか?」
「止められるか?」
「止める」
「どうやって?」
「俺は――」
直人は言葉を止めた。
今までなら。
ここで世界を書き換えていた。
だが。
もう権限はない。
ミオが言った。
――必要なのは答え。
直人はゆっくり息を吸った。
「……俺は、世界を変えない」
男が眉を動かす。
「何?」
「もう、世界を俺の思い通りにはしない」
「ならどうする?」
「世界が選べるようにする」
天音が直人を見る。
「直人……」
「死ぬことも」
「生きることも」
「誰かを愛することも」
「誰かを失うことも」
直人は男を見る。
「全部、自分で選べる世界にする」
男の表情が初めて揺らいだ。
「……それが君の答えか?」
「ああ」
「だが、人間は間違える」
「知ってる」
「後悔する」
「知ってる」
「誰かを傷つける」
「それも知ってる」
直人は天音の手を握る。
「それでも、自分で選んだ人生なら――」
直人は静かに言った。
「その人生を生きる意味はある」
沈黙。
やがて。
黒い月が震え始めた。
ミオが叫ぶ。
「……世界が反応してる!」
空間いっぱいに文字が浮かぶ。
《新しい世界原則を検出》
《生命の選択権》
《死の選択権》
《記憶の選択権》
《運命の選択権》
直人は息を呑んだ。
しかし。
最後の一行だけが赤く点滅していた。
《警告》
《自由には代償が必要です》
「……代償?」
天音が呟く。
文字が変わる。
《世界を自由にする代償――》
直人と天音の名前が表示された。
《管理者二名の存在権》
直人の顔が強張る。
「……俺たちが消える?」
ミオが俯いた。
「そう」
「それが……代償?」
「うん」
天音は直人を見る。
直人も天音を見る。
そして。
二人とも笑った。
「またか」
「まただね」
直人が手を差し出す。
天音がその手を取る。
「でも今度は違う」
「うん」
「俺たちが世界を救うんじゃない」
直人は前を向く。
「世界が、自分で生きるんだ」
その瞬間。
黒い月が、完全に砕けた。
無数の記憶が世界へ降り注ぐ。
そして。
三百年生きた男が、初めて涙を流した。
「……やっと」
その声は震えていた。
「やっと、終われる」
男の身体が光になっていく。
直人が叫ぶ。
「お前……!」
「ありがとう」
「何を……」
「私に、もう一度――」
男は笑った。
「死ぬという選択肢を思い出させてくれて」
そして。
三百年を生きた男は。
静かに消えた。
――しかし。
直人と天音の身体にも、同じように光がまとわり始めていた。
世界の新しい原則が、完成しようとしている。
ミオが叫ぶ。
「直人! 天音!」
二人は振り返る。
「どうした?」
「まだ、最後の一行が残ってる!」
空に、最後の文字が浮かぶ。
――《自由を与える者は、自由を失う》
直人の身体が透け始める。
天音も同じだった。
「……そういうことか」
直人は静かに笑った。
「俺たちは、管理者じゃなくなる」
天音が頷く。
「普通の人間になるんだね」
「……ああ」
ミオが涙を流す。
「それでもいいの?」
直人は笑った。
「それが一番いい」
そして二人は。
世界から最後の権限を手放した。
――その瞬間。
世界に、初めて朝が来た。
誰かが生まれる。
誰かが笑う。
誰かが泣く。
誰かが愛する。
そして。
誰かが、静かに死ぬ。
それは悲しいことだった。
それでも。
世界は続いていた。




