「最初の願い」
――「俺は、誰かが死ぬのが嫌なんだ」
その言葉が、黒い月の内部に響いた。
直人は動けなかった。
目の前に映し出されているのは、過去の自分。
まだ何も失っていない。
まだ世界を書き換えていない。
ただ、大切な人たちと笑っている少年だった。
「……これが、本当の始まり」
直人が呟く。
ミオは頷いた。
「そう」
「俺は天音だけを救おうとしたんじゃない」
「最初はね」
「最初は……?」
ミオは少し悲しそうに笑った。
「君の願いは、もっと大きかった」
映像が変わる。
学校。
街。
病院。
公園。
世界中の人々。
そして――死。
病気で亡くなる人。
事故で亡くなる人。
戦争で亡くなる人。
老いて眠るように死ぬ人。
幼い子供。
若者。
老人。
無数の命が、消えていく。
「……俺は、これを見ていたのか」
「うん」
「それで……」
「世界から『死』をなくそうとした」
天音が息を呑む。
「そんなこと……できるの?」
「できなかった」
ミオが答えた。
「だから世界を書き換えた」
直人は映像を見る。
若い自分が、ノートに文字を書いている。
――死という概念を削除する。
その瞬間。
世界が白く染まった。
人々が倒れる。
病院から警報が鳴る。
街の時計が止まる。
そして。
死ななくなった人々が、永遠に生き始める。
「……成功した?」
天音が尋ねる。
「一度だけ」
ミオは首を振る。
「でも、それは世界の終わりだった」
「どうして?」
「死がなくなれば、生命は終われない」
ミオの指先に、一人の老人の映像が浮かぶ。
百年。
二百年。
三百年。
それでも生きている。
肉体だけが朽ちていく。
「人は死ねなくなった」
「……」
「病気になっても死ねない」
「事故に遭っても死ねない」
「身体が壊れても、意識だけが残る」
天音が口元を押さえる。
「そんな……」
「そして、世界は人で満たされた」
映像が切り替わる。
地球全体が、人間で埋め尽くされていく。
食料がなくなる。
水がなくなる。
空気が汚染される。
それでも誰も死ねない。
世界はゆっくりと壊れていった。
直人は目を閉じた。
「……俺がやった」
「そう」
「俺は……救おうとして」
「世界を壊した」
天音は黙っていた。
責めることもできなかった。
なぜなら。
その願いが生まれた理由を知っているから。
「それでも、君は諦めなかった」
ミオが言う。
「死をなくすのではなく――」
映像が再び変わる。
ノートのページ。
若い直人が、新しい文字を書く。
――《死を選べる世界》
直人が目を見開く。
「……死を、選ぶ?」
「生きることを強制しない」
ミオは続ける。
「生きたい人は生きる」
「死にたい人は死ねる」
「そして、自然に寿命を迎えることもできる」
「それなら……」
「完璧に見えた」
ミオが笑う。
「でも、また失敗した」
「なぜ?」
「人間は、自分の死を選べなかった」
「……?」
「本当に死ぬ瞬間になると、誰もが生きたいと思う」
直人は黙る。
「だから世界は、また矛盾した」
「生きたいという願いと」
「死を受け入れるという願い」
天音が小さく呟く。
「どちらも、人間の心なんだね」
「そう」
ミオは頷く。
「だから君は、最後に一つの答えを出した」
「……何?」
「世界に答えを決めさせる」
空間に巨大な文字が浮かんだ。
――《世界意思》
直人は息を呑む。
「それが……今の世界?」
「違う」
「じゃあ?」
「今の世界は、その実験の最後に生まれた」
ミオは直人を見る。
「世界そのものに意思を持たせる」
「人間一人では答えを出せないなら――」
「世界全体に選ばせる」
直人は黒い月を見上げる。
「だから世界が、俺の名前を呼んだ」
「そう」
「俺を選んだんじゃない」
「正確には――」
ミオが言葉を止める。
「世界は君に、最後の質問をしている」
「質問?」
その瞬間。
黒い月が割れた。
無数の記憶が、星のように周囲へ広がっていく。
そして。
世界中の人々の声が重なった。
『――生きるとは何か』
直人は答えられなかった。
『――死ぬとは何か』
天音も黙っている。
『――人は、何のために存在するのか』
ミオが二人を見る。
「これが最後の問題」
「……最後?」
「うん」
ミオは静かに笑った。
「世界を書き換える権限は、もう必要ない」
直人が眉をひそめる。
「じゃあ何が必要なんだ?」
ミオは答える。
「答え」
「……誰が答える?」
「あなたたち二人」
天音が目を見開く。
「私たち?」
「そう」
ミオが二人の手を重ねる。
「あなたたちが答えを出せば、世界はその答えを受け入れる」
「もし間違えたら?」
「世界が終わる」
「正解なら?」
「世界は、初めて自分の意思で存在できる」
直人は長く息を吐いた。
「……随分と重い質問だな」
天音が隣で笑った。
「でも、私たちらしいかも」
「どういう意味?」
「ずっと世界のことばかり考えてきたから」
天音は直人を見る。
「今度は、自分たちの答えを出そう」
「……ああ」
二人は手を握った。
その瞬間。
黒い月の奥から、一人の男が現れた。
白い髪。
黒い服。
そして――
直人と同じ顔。
だが。
その男は、これまでの「もう一人の直人」とは違っていた。
ミオが初めて怯えた。
「……来てしまった」
「誰だ?」
男は静かに笑う。
「私は――」
一歩、前へ出る。
「君が最初に『死をなくした世界』で生まれた人間だ」
直人の表情が凍る。
「……俺が作った世界の?」
「そう」
男は頷いた。
「そして私は、その世界で――」
直人を見つめる。
「三百年、生き続けた」




