「最初の記憶」
――少女は、二人を待っていた。
黒い月の内部。
そこには、時間も空間も存在しなかった。
ただ一人の少女だけが、静かに立っている。
「やっと来たね」
その声を聞いた瞬間。
直人の胸が痛んだ。
「……どうしてだ」
「何が?」
「初めて会ったはずなのに……」
直人は胸を押さえる。
「君を知っている気がする」
少女は微笑んだ。
「それは当然だよ」
「当然?」
「だって――」
少女は自分の胸に手を当てた。
「私は、あなたたちが忘れたものだから」
天音が一歩前へ出る。
「……あなたは何者なの?」
「私は名前を持っていない」
「じゃあ、どう呼べばいい?」
少女は少し考えてから答えた。
「昔、二人が私を呼んでいた名前ならあるよ」
「何て名前?」
「――ミオ」
その瞬間。
世界が揺れた。
直人の脳裏に、一枚の映像が浮かぶ。
まだ幼い天音。
まだ少年だった直人。
そして――
二人の間で笑う少女。
「……ミオ」
直人の口から、自然に名前がこぼれた。
天音も目を見開く。
「私も……知ってる」
「うん」
ミオは頷いた。
「二人とも知ってるよ」
「でも、忘れた」
「違う」
ミオは首を横に振る。
「忘れさせられたの」
直人の表情が変わった。
「誰に?」
「あなたたち自身に」
「……俺たちが?」
「そう」
ミオは二人を見る。
「世界を最初に書き換えたとき、二人はある約束をした」
「約束……?」
「世界が壊れても、どちらか一人だけは必ず覚えているようにする」
天音が息を呑む。
「じゃあ……」
「それが私」
ミオは自分を指した。
「私は、二人の記憶を保存するために作られた」
「保存するため……」
「でも、予想外のことが起きた」
ミオの表情が曇る。
「記憶を保存しているうちに、私は『記憶』そのものになった」
直人は言葉を失った。
「つまり……」
「私は、二人が生きてきた証」
ミオは微笑む。
「あなたたちが忘れても、私だけは全部覚えてる」
天音の目から涙が落ちた。
「……全部?」
「全部」
「私が初めて直人に会った日も?」
「覚えてる」
「直人と喧嘩した日も?」
「覚えてる」
「私が……死んだ日も?」
ミオの笑顔が消えた。
「……覚えてる」
その一言で。
天音は崩れ落ちた。
「……私、死んだんだ」
「うん」
「何度も?」
「何度も」
直人は拳を握った。
「そのたびに俺が世界を書き換えた」
「そう」
「……じゃあ、ミオ」
「なに?」
「俺は何回、お前たちを救えなかった?」
ミオは静かに答えた。
「二千三百七十二回」
直人は目を閉じた。
もう驚かなかった。
ただ。
悔しかった。
「でも――」
ミオが続ける。
「二千三百七十三回目は違う」
直人が顔を上げる。
「何が?」
「まだ始まってない」
「……?」
「今までの世界は、全部『やり直し』だった」
ミオが指を上げる。
すると。
黒い月の内部に、巨大な時計が現れた。
針が逆回転している。
「でも、今の世界は違う」
「第三の世界……」
「そう」
ミオは頷く。
「これは、やり直しじゃない」
「じゃあ何なんだ?」
「――新しい世界」
直人の目が細くなる。
「それなら、過去を変える必要はない」
「そう」
「俺たちは、ここから始められる」
「そうだよ」
天音が涙を拭う。
「じゃあ、どうして過去への扉があるの?」
ミオは黙った。
その表情を見て。
直人は気づいた。
「……何かあるんだな」
「うん」
「過去に戻らなきゃいけない理由が」
「ある」
「何?」
ミオは二人を見つめる。
そして。
静かに告げた。
「あなたたちが世界を作り直した原因は――天音の死じゃない」
「……え?」
「本当の原因は、その前にあった」
空間に一つの映像が浮かぶ。
病室。
ベッドに横たわる天音。
その隣にいる直人。
しかし。
これまで見てきた映像とは違っていた。
天音は生きている。
笑っている。
そして、その隣には――
小さな少女がいた。
「……ミオ?」
天音が呟く。
少女は幼いミオだった。
その手には、一冊のノートがある。
ノートの表紙には。
――《世界設計書》
と書かれていた。
直人の顔が凍る。
「……世界設計書?」
ミオが答える。
「それが、すべての始まり」
「誰が書いた?」
ミオはしばらく黙った。
そして。
直人を見た。
「あなた」
「……俺?」
「そう」
直人の背後に、さらに映像が浮かぶ。
そこには――
まだ何者でもなかった直人がいた。
そして彼は。
一冊のノートに、最初の一行を書いていた。
――『天音が死なない世界を作る』
直人は愕然とする。
「……俺が最初だった?」
「そう」
「天音の父親じゃない?」
「違う」
「じゃあ、全部……」
ミオが頷く。
「あなたが始めた」
天音が直人を見る。
責める目ではなかった。
ただ、驚いていた。
「直人……」
「俺は……」
直人は自分の手を見る。
「俺は何のために、そんな世界を作ろうとしたんだ?」
ミオは答えない。
ただ。
過去への扉を指差した。
「それを知るために、ここまで来たんだよ」
扉の向こうから。
誰かの声が聞こえた。
「――直人」
その声に。
直人の身体が凍りついた。
聞き覚えがある。
忘れるはずがない。
何千回、何万回と聞いた声。
「……俺の声?」
扉の向こうにいたのは。
若い頃の――直人だった。
そしてその隣には。
まだ生きている天音がいた。
二人は笑っている。
まるで何も知らないように。
若い直人が言う。
「天音」
「なに?」
「俺、世界を作ることにした」
天音が笑う。
「どんな世界?」
若い直人は答えた。
「――誰も死なない世界」
現在の直人の表情が変わる。
「……誰も?」
ミオが頷く。
「それが、最初の願いだった」
そして。
映像の中の若い直人が、もう一言を口にした。
「だって――」
その言葉が。
すべての始まりだった。
「――俺は、誰かが死ぬのが嫌なんだ」




