記憶を食べる月
――白い世界に、月が浮かんでいた。
夜ではない。
空は青い。
太陽もある。
それなのに。
巨大な黒い月だけが、そこに存在していた。
「……あれが、俺たちの記憶を?」
直人は空を見上げる。
天音も同じように月を見つめていた。
「うん……」
「怖いか?」
「少し」
天音は笑った。
「でも、直人がいるから大丈夫」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
直人の胸に、奇妙な違和感が生まれた。
――直人。
その名前を呼ばれた。
ただ、それだけなのに。
なぜか懐かしい。
なぜか苦しい。
まるで。
自分がその名前を、何千回も聞いてきたような感覚だった。
「……天音」
「なに?」
「俺たちって……」
言葉が止まる。
「いつから一緒だった?」
天音も黙った。
「……分からない」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に気づいた。
――もう、記憶が消え始めている。
「私……」
天音が自分の胸に手を当てる。
「直人と初めて会った日のことが、思い出せない」
「……俺も」
「でも」
天音は直人の手を握る。
「あなたが大切な人だってことだけは分かる」
「……俺も同じだ」
黒い月が、ゆっくりと回転する。
その表面に、無数の光が吸い込まれていく。
それは二人の記憶だった。
初めて出会った日。
一緒に笑った日。
喧嘩した日。
泣いた日。
そして――
互いに「大切だ」と伝えた日。
ひとつ。
またひとつ。
月の中へ消えていく。
「……やめろ」
直人が空へ叫ぶ。
「それ以上、持っていくな!」
月は答えない。
ただ、さらに大きくなる。
天音の手から力が抜けた。
「直人……」
「どうした?」
「私……あなたの声、好きだった気がする」
「……気がする?」
「うん」
天音は悲しそうに笑った。
「でも、どうして好きだったのか……思い出せない」
直人の胸が締めつけられる。
「なら、また好きになればいい」
「……え?」
「全部忘れても」
直人は天音を見る。
「また最初から始めればいい」
天音の瞳が揺れた。
「……そうだね」
二人は歩き始めた。
新しい世界。
新しい人生。
すべてを失ったとしても。
もう一度、作り直せばいい。
――そう思った。
そのとき。
空から声がした。
『違う』
二人が立ち止まる。
『記憶は、消えているのではない』
「……誰だ?」
『移されているだけだ』
黒い月が、大きく脈打った。
そして。
月の表面に巨大な文字が浮かぶ。
――《記憶保管領域》
「……保管?」
『お前たちが失った記憶は、すべてここにある』
「じゃあ……」
天音が月を見る。
「取り戻せるの?」
『可能だ』
「どうすればいい?」
声は答えなかった。
代わりに。
月の中央に、一つの扉が現れた。
黒い扉。
その上には文字が刻まれている。
――《過去への入口》
直人が扉へ近づく。
「ここに入れば、記憶を取り戻せるのか?」
『一つだけ』
「何を?」
『過去を変えることができる』
直人が止まった。
天音も息を呑む。
「過去を……変える?」
『そうだ』
『ただし――』
声が低くなる。
『過去を変えれば、現在も変わる』
「……どういう意味だ」
『お前たちが初めて出会った日を変えれば』
月がさらに巨大になる。
『お前たちは、二度と出会わない』
天音が直人を見る。
「……それは」
「分かってる」
直人は扉を見る。
そこには。
二人の名前が刻まれていた。
――佐伯直人。
――天音。
「過去を変えれば、今の世界は救える」
「でも……」
「俺たちは出会わない」
天音は黙った。
しばらくして。
小さく笑った。
「直人」
「ん?」
「私たち、ずっと同じことを繰り返してるね」
「……そうだな」
「世界を救うために、何かを捨てる」
「でも今回は違う」
「うん」
天音は扉に手を触れた。
「今度は、何も捨てない方法を探そう」
――カチッ。
扉が開いた。
その向こうには。
真っ暗な空間が広がっていた。
そして。
そこに一人の少女が立っている。
長い黒髪。
白い服。
見覚えのない少女。
なのに。
直人の心臓が、激しく鼓動した。
「……誰?」
少女は答えた。
「あなたたちの――」
ゆっくりと振り返る。
「――最初の記憶よ」
天音が息を呑む。
少女の顔は。
天音と直人。
二人の面影を、同時に持っていた。
そして少女は微笑んだ。
「やっと来たね」




