②櫓時計
(仮)さんへ捧げます
本編とはまったく関係のない江戸城勤めの女史とネガティブ男子の話。
行燈の光に照らされる時計の針は巳の文字を指している。
二挺天符式の櫓時計がその部屋には置かれていた。本がたくさん置かれた空間だった。多くの人間が出入りでき、そこに置かれた本を利用する事ができた。その時、利用者はなく室内は静かだった。窓のない部屋であるため外部からの音は届きにくい。櫓時計の天符が時を刻む音だけが響いていた。
その部屋に一人の娘がやってきて、狭い書架と書架の間に滑り込む。何の目的もなさそうに一冊の本を取り上げると、ぱらぱらと頁をめくる。彼女の興味を引かなかった本はすぐに書架に返された。次に取り上げた本は先ほどのものより分厚いものだった。今度も娘は気のなさそうに頁をめくっていたが、ふいにその手は止まった。かけている眼鏡の端を押し上げて、書面に食い入るような姿勢になる。その本を読む眼差しは真剣そのもの。
直立したまま娘はその本を読み続けていたが、ある時何かに気が付いたように顔を上げる。周囲に視線をさまよわせ、本を持っていない方の手で自分の体のあちこちを叩く。床に膝をつくとポケットから取り出した筆と紙で何かを書き始める。その部屋の端には机もあったが、彼女は床を机と椅子にして、本を見ながら書留を続ける。
彼女の他にその部屋には人がいなかったため、年頃の娘が長い髪を床につけてうずくまって本に夢中になる姿を、とがめる者はなかった。
ただ櫓時計だけが彼女の近くに居た。
時計の針の先は申の字を指すようになった。
部屋の戸は開いていたために廊下を通る人からは、その娘の姿が見えた。しかし彼女があまりにも静かなので、誰もその部屋を覗こうという者はなかった。そして廊下をゆく者はみな、目的地を目指して急いでいた。ゆっくりとした足取りで歩く一人の青年がその部屋を振り返るまで、世界は娘の事を忘れていた。
青年は理由があって顔を向けた訳ではなかった。部屋の中にはうずくまる一人の娘がいる。姿勢から最初は彼女の体調が悪いのではと思い、青年は戸口に近寄った。だが娘は筆を持つ手を動かし、時折眼鏡に触れ、顔を少し動かして本を眺めたりしている。何か問題がある訳ではなさそうだ、と分かると青年は心の内で安堵した。ただ彼女はひとつの事に強く惹かれているだけなのだ。
一定の間隔で動く時計の天符が音を鳴らす。
青年も物音ひとつたてなかったので、室内の娘が彼に気づく事はなかった。もっとも、小さな物音をたてたぐらいでは、彼女の集中力に阻まれて聞き逃されてしまっただろうが。ありえそうな未来だ、と思うと青年の口元はほころんだ。彼女は今、彼女だけの世界にいる。
青年は少しすると、また歩き出した。
櫓時計が指すのは寅の文字。
娘はまだその部屋に居た。彼女が部屋に来てもう半日以上たつ。だがその床に伏すような姿勢はほとんど変わらず、彼女はいまだ一冊の本に意識を奪われていた。
天符の音と時折紙がめくられる音がするだけの空間。彼女は外界の存在を必要としていなかった。だから、この喧噪のない場所が心地よかった。
娘の手が止まった。じっと、開いて折り目のついた本を見つめる。見つめ続ける。その間に彼女の頭の中ではさまざまな思考が飛び交っていた。
当然、彼女がふたたび戸口にあらわれた青年の存在に気付く事もなかった。
青年はただ通りがかっただけのその場所で、以前と同じような光景を目にするとはあまり思っていなかった。娘の座り込む場所は夕方に見た時と同じで、本も同じもののように見えた。青年は彼女がずっとあの場所に座っていた場合、飲食や睡眠はどこにいったのだろうかと考えた。消えてしまった可能性は低くない。彼は小さく眉を寄せる。
青年はあたりを見渡すように視線を動かすが、けっきょくまたあの娘のところに戻ってくる。娘はしばし本を睨んでいたが、とんとんと指で床を叩くと頁をめくり始めた。またひとつの頁の前で考えこむ。
何かひとつの事に夢中になると、あんまりに他に頓着しない。そんな彼女にふうとため息をつくと、青年は部屋の前から立ち去って行った。
だが青年は四半刻もしないうちにその部屋の前に戻ってきた。当初は廊下の周りをうかがうように首を動かしていたが、時刻は明け方近く。みなまだ寝入っている頃合いで、誰かに見つかるような事はなかった。
今度の彼はすぐに立ち去るような事はなかった。廊下の奥の、窓がある場所が白んでくるまでずっと、その部屋の戸口に立っていた。
いつの間にか青年の頭が落ちていた。彼は自分が壁に背を預けうたた寝してしまった事を知る。少し長い髪を耳にかけて、娘の方を向く。彼女は、相変わらずの姿勢だった。
青年は目元を指でもみこむと、眠気を振り払うように首を振った。
もう夜は明けていた。寝不足の瞳で、困ったように娘を見やる。
しかし彼はそこで待つ以外の事をせず、息を吐くと瞼を伏せた。
娘がその部屋にやってきて、二度目の巳の刻が訪れた。
櫓時計はじっと動かず、時々思い出したように針を動かしていた。
また浅い眠りに陥っていた青年は、かたんという小さな音で目を覚ました。明け方のあわい光ではなく、明るい光が目に痛かった。そのまま目をしばたくか閉じ続けていたかったが、視界の端に動くものがあったのでそちらに顔を向けた。寝起きであったため青年は自分が目にしているものが何なのか、すぐには分からなかった。
怪訝そうな顔になったかと思うと、青年はぱっと駆け出していた。
あの娘が、踏み台に足を載せ、書架の高いところに手をのばしていた。
彼女の体の均衡は、あっけないほど簡単に崩れる。まるで糸の切れた絡繰り人形のように、力が抜けている。
青年の胃の腑はふるえた。
だが彼は、娘の背を手で支える事が出来た。
急な事で意識のない者を抱きとめたせいで、片膝をついた青年はそのまま彼女の足を踏み台からおろした。念のため娘の全身をうかがう。小さな吐息と、上下する胸。寝不足で眠ってしまっただけらしい。睡眠不足で急に動いて眩暈でもしてしまったようだ。
長い安堵の息をついた青年だったが、表情はまだこわばったままだった。
かすかな寝息を唇からこぼす娘。
櫓時計が一定の間隔で、時を刻む音がする。
青年は娘を抱き上げた。
次に娘が目を覚ました時は、自分のために用意された部屋にいた。体を起こすと、手さぐりで眼鏡を見つけて装着する。改めてあたりを見回すと、自分が布団の間にはさまっていた事を知る。見慣れたはずの、あんまりにも片付いていない部屋がどこか変わったように思える。そもそも布団の上には物を置いていたはずが、それもない。気のせい程度なら、ほんの少し部屋がきれいになったような。
娘は首をかしげた。
そういえば、と思い出す。しばらく眠っていなかったような気がする。だから寝ついた記憶がないのに目覚めたのだと納得する。だが一体誰が自分をここへ運んだのだろう。
しばし考え込んだ娘だったが、答えなど出なかった。布団から出ると、立ち上がって伸びをする。
眠る前の続きをしようか、別の事をしようか、娘は顎に手をあてて思案する。
また彼女の一日がはじまる。
そこにはない櫓時計は、戌の刻を示していた。
けれど彼女は昼にも夜にもとらわれず、時間にも縛られていない。
ひらり、長い髪をひるがえして、城を舞う。
こちらのイラスト
http://1445.mitemin.net/i149807/
を描いてもらえたうれしさで勢いにのってぐわーっと書きました。
アンサーソング的なものです(?)
ほんとは私も漫画かきたかったけど無理だったのでセリフなしのとこだけ揃えて文章にしました。
セリフなしの漫画って情緒があってすごくいいと思います。でもその雰囲気を私は出せなかった……;;
(仮)さん、ありがとうございました!




