四
本当はあの日、居待に問いかけたい事も話すべき事もいっぱいあった。
『こっちには何年も前からの約束がある』
そう言ってくれた事に関してが主だが、あの時のわたしは、心配してもらえた事に満足して、すっかり忘れてしまった。
一度タイミングを見失うと、いつまでたってもその切り出し時が分からなくなるものらしい。
春の日差しがどんどんとあたたかくなり、爽亭も賑わいを見せてきて、陽気な顔のお客が増えていった。だけど、わたしのため息は減る事もなく続いてゆく。
居待と村雲くんが俵屋天神で勝負をしたあの日から、十日はたたない頃だろうか。村雲くんが店にやって来た。
勝負の日以来会っていなかったから、一体どんな顔をしたらいいのか分からないわたしに比べ、村雲くんは以前と同じ様子だった。
「やー、いい天気だねえ」
へらりと笑って、頭をかく村雲くん。手の動きに合わせて彼の尻尾みたいな髪が揺れる。
とにかくわたしは営業スマイルを心がけ、村雲くんの注文をとり他のお客の相手もしつつ店を回した。
団体客がどっと出て行って、一息ついた頃に村雲くんも席を立った。
この日は他のお客さんもいた事から、村雲くんとはあんまり話をしなかったが、帰る頃になって彼は店の外にわたしを連れ出した。
「オレ、そろそろ江戸をはなれるんだ。だからまあ、今日はお別れ言いに来たっていうか」
「そうなんですか……」
そういえば村雲くんは普段は一体何をしているんだろうか。江戸にはこの前初めてきた様だったけど、もう離れなきゃならないのなら、旅が基本の仕事なのか。
「あっ、この間の勝負の事は関係ないよ? 負けたの悔しかったは悔しかったけどね!」
わたしの沈黙を違う風に受け取ったのか、村雲くんは弁明してくる。
そうか、わたしは仮にも村雲くんに恋人にしてほしいという態度を取られたのだから、もっと何か別の事を言うべきだったのか。
「それから……優月ちゃんには、いろいろ振り回してちょっと悪い事したなって思って、さ」
村雲くんがふいに神妙な顔になる。
「そんな、別に……」
少々強引に俵屋天神までつれ回した事や恋人いないのかと聞いてきたりした事だったら、そこまで改まる必要はない。
「ううん。実際オレ、優月ちゃんの事、利用した」
振り回した、よりも強い言葉だ。わたしは目をしばたかせる。
村雲くんは射的をしていた時みたいに真っ直ぐにわたしを見つめてくる。だから、普段気さくな表情の多い人の真顔は、何かの予兆めいていて心臓に悪いって。
村雲くんが、息を吸った。
「実はオレ……あの居待って男を知ってたんだ。だから友人のキミを利用して居待に近づいた」
わたしは少し眉をひそめた。
「居待を知って……?」
元々の知り合いだったのだろうか。それならばあの初対面のような態度はおかしいし、かといってわざわざ他人を利用して近づいた、っていうのもよく分からない。
「ほんとは言わない方がいいんだろうけど……この話をしないとオレが言いたい事が言えないから、話すよ」
一度村雲くんは視線を逸らし、ふうと息を吐いた。そしてまた、わたしに目を向ける。
「浅葱居待は、“裏の顔”を持ってる。ちょっと……危ない仕事をしてたはずだ。正直な話、オレとはほとんど同業者だった。活躍の場は違ったから直接会った事はなかったけど、オレはアイツを知ってた」
居待が、江戸を離れていた間に何をしていたのか――わたしも考えた事があった。
そもそも居待の家は江戸の将軍様に仕える旗本だった。そんな彼がまったく政に関わらないで生きていく事はなかったはずだ。そうなると、江戸城関係の仕事をしていたとも考えられる。しばらく江戸にいなかったのも仕事上の理由があっての事だと思えば納得いく。
それから――わたしは居待の姉立待のこぼした言葉から、なんとなく居待の仕事は安全とは言えないものなのだと察していた。
これらの理由があったからこそわたしは、再会する前は居待が死んでしまったという噂を鵜呑みにしそうになったのだ。
居待の“裏の顔”というのが、わたしの推測する彼の仕事なのだとしたら、村雲くんの言葉にそこまで驚く必要はない。
ただ、やっぱりかと思うのだ。
居待の仕事は、明るい道ではなかったのだろう。
本当になんとなくだけど、長年のうちに分かるようになってきた事。ずっと江戸に戻ってこなかったのも、仕事関係の理由で、戻れない状況にあったからかもしれない。
「まさかここで顔を合わせるとは思わなくて、つい好奇心からアイツを調べたくなってさ」
いつの間にか、村雲くんの表情がわたしを伺うようなものに変わっていた。わたしは自分の眉が強く寄せられていたのを知る。なんとか表情をほぐそうとしたのだけど、上手くいかなかった。
「だから、つまりさ」
村雲くんは少し困ったように見えた。
「居待と一緒にいると、オレみたいなやつが他にも出てくるかもよ? それも、オレとは違う形で優月ちゃんを利用しようとするかもしれない」
つまり、村雲くんは好奇心からわたしに片想いをしたフリで、標的に近づいた。
「もっと、穏便じゃない方法で」
でも、次に居待に近づこうとする者は、好奇心ではなく違う目的のためにやって来るかもしれない。村雲くんはそう言いたいのだ。
今度は居待によくない感情を持った人間が近づいてくるかもしれない。周りにいる人間を利用して居待をおびきだしたりするような存在が。その時標的になるのは、本人ではなくその家族や友人。村雲くんがわたしにしたように。
「……だから、居待と行動を共にするのはやめた方がいいと?」
もし居待を呼び出すために周りの人間を連れ去ったり傷つけたりするような存在が、居待に恨みを抱いていたら――。
「まあ、極論を言えば……そうなるけど。これはごく真っ当な警告だよ、優月ちゃん」
確かにわたしが自分の身を守る事を第一に考えるのなら、村雲くんの警告を受け入れるべきだろう。でもわたしは、我が身かわいさに誰かとの縁を切るような人間じゃない。
「ご忠告、ありがとうございます。でもわたしは……」
もし本当にわたしが居待を理由に危ない目に遭うとしても、それは居待が悪い訳じゃない。
「彼を見放す事はないので」
きっぱりと言うと、村雲くんは少し切なげに笑った。
「……あーあ。ほんとに妬けるな」
村雲くんがまるでわたしと居待が恋人同士かのように言うので、わたしはちょっと恥ずかしくなった。ただの片想いなのに、偉そうな事を言ってしまっただろうか。
「最初は、ほんとに純粋に優月ちゃんかわいいなーお近づきになりたいなーあわよくばカレシになりたいなーって思ってたんだよ?」
拗ねたような声の村雲くん。そのあとに居待と偶然出会ったからちょうどいいところにいたわたしに恋をしたフリ、をはじめたのだろう。
「って、利用したあとに言っても信じてもらえないよな……」
肩を落として一人ごちる村雲くん。わたしとしては、村雲くんの賛辞はほとんどの女性に使われそうな気がしたのであまり真面目に受け止めてはなかっただけなんだけど。たまに距離が近いのには、困ったけど。
それにしても――随分と話が長くなってしまった。あんまり店に戻るのが遅いと、父が痺れを切らして調理場から出てきちゃうかもしれない。
「とにかくそういう事だから……悪かったよ」
わたしが店の中を気にしていたのを、村雲くんは察したのだろう。話をまとめようとした。
「また江戸に来る事があったら、今度は優月ちゃんの力になるから」
彼が言うほど、わたしは迷惑をこうむった訳じゃない。でも、また会う事があれば普通の友人として再会する方がずっといいに決まってる。
わたしは頷いて、村雲くんに笑顔を向けた。
こうして、わたしは江戸を離れる村雲くんを見送った。
江戸の桜は散り、爽亭もゆっくり出来るようになった。
「あの尻尾男、最近も来てるのか?」
射的勝負から半月以上たった頃、爽亭にやって来た居待がそんな事を言い出した。名前を知らないのか、あえて言わないのかは分からないが、たぶん村雲くんの話をされているのだろう。
「……村雲くんのこと? 江戸を出るって言ってたから、もう来れないと思うけど」
箸を握る居待の目が細められる。
「言ってた? お前あの後も会ったのか」
なんだろう、居待の持つ箸がただの食事用の道具に見えなくなってきた。
「あのあと一回だけご飯食べに来て、その時に言ってたから……」
「ふうーーん」
何故か納得いってない者の出す声になる居待。よく分からないけど居待と村雲くんの相性はよくなさそうなので、この話題は続けない方がいい。他愛もない話にわたしはすり替えた。
居待が帰る頃には店のお客は誰もいなくなっていたので、わたしは途中まで居待をお見送りをする事にした。それは、店が空いているからだけじゃなく、人には聞かれたくない話をしたいから、でもあった。
夕暮れの近い街を歩き、すれ違う人の気配が去ったその時に、わたしは立ち止まる。
ワンピースの裾を、両手でぎゅっと握る。
なんだか喉が乾いてきた。
「あ、あのさ……話が、あるんだけど」
自分の爪先を見ながら、今更居待が立ち去ってない事を相手の足で確認する。
「実は、わたし」
射的勝負をした日。居待は、わたしの昔お願いした事を覚えていると告げた。だからきっと、少しくらいは期待していいはず。
「あの……」
まったく、微塵も望みがないなんて事は、もしかしたら万が一にもなきにしもあらずなのかもしれない。
あれもうわたしマトモな事考えられない。
てゆうかもう何がしたいのか分からない。
でも沈黙にも耐えられない。居待なにか話して。やっぱなにも言わないで。
わたしが何か言わなくちゃ。何か。
最近思った事とか――
「な、名前」
居待が動こうとした気配で、わたしは一気に閃いた。
「名前で呼んでほしいなって思って! この間からお前とかこの馬鹿とかばっかり言われてるしなんか友達なのに変かなーって」
わたしはワンピースがしわになるくらい、両の拳で服を掴んだ。
しばし、乾いたような静けさがわたしたちを包んだ。
「……言いたい事はそれだけか?」
居待の声からは感情がはかれなかった。
「う、うん」
とりあえず頷いたけど、思えば本当に数えるほどしか居待には名前で呼ばれてない。きっと、これでよかったんだ。わたしは無理矢理そう思う事にした――のだけれども。
「分かったよ……優月」
その破壊力までは想像出来ていなかった。
心臓が飛び出しかけたのでわたしは近くの塀に片手を預け体を支えなければならなかった。当然、残りの手で心臓を押し込んだ。
なんですかこれ。想像以上に恥ずかしいっていうか照れくさいっていうかむずがゆいっていうか落ち着かなくて耐えられない……?!
「何してんだ」
突然壁に手をついたわたしに、居待の訝しむ声が近づく。
「な、なんでもないです……っ」
わたしが何にびっくりしたのか、さとい居待は察したのだろう。そもそも居待がわたしの名前を呼んだ瞬間びっくりしたのだからすぐに分かるに決まってる。
「なんか面白いな、優月」
狩りの獲物を見つけた狩人みたいな顔して、微笑まれた。
「面白くないっ」
ぜったい、からかわれてる。
この人ほんとにわたしで遊んでる!
睨みつけても、にやりと笑う顔は変わらない。
こんなはずじゃ、なかったのに。本当はもっと違う未来をえがいていたのに、全然違う。
でも居待が、好きな人が目の前で笑っていてくれるから――いつまでもむくれているのも難しくって。
わたしは、仕方なく頬を持ち上げたのだった。
射的勝負からひとつきたった頃。わたしは居待立待の浅葱姉弟と出かけていた。
道中で、蕎麦屋から出てきた人とお見合いになった。わたしは避けようとしたのに、相手が動かないので不思議に思って視線を向けると、知った顔だった。
「優月ちゃーん、久しぶりぃ。それにそっちのコ前に一緒に居たよね? 美人さんだから忘れられなくて~」
「……む、村雲くん」
それは、半月前に江戸を経ったはずの青年、村雲くんだった。挨拶代わりにさらっと立待に口説き文句を言っているので相変わらずだなと感じずにはいられなかった。
「貴様何故まだ江戸にいる」
どす黒いオーラを放って立待を手で庇うは浅葱居待。
そういえば村雲くんには、立待と話しているところを見かけられた事もあった。その時から彼は立待を美人と褒めあげていたっけ。
「いや予定じゃもう江戸出てるはずなんだけどさ、事情変わっちゃってー。だからまだしばらく江戸にいるよー」
居待の不機嫌全開の態度をものともせず、村雲くんは軽く言ってのける。その様子すら気に入らないのだろうか、居待のまとう空気がどんどんと重くなる。
「またよろしくね、優月ちゃんに……可憐な娘さん」
目じりを少し下げさせて、にっこり笑う村雲くん。たぶん、そんなに悪い人ではないんだろうけど、居待との相性は本当によくないらしい。
居待は彼を無視して「あんな害虫視界に入れてはいけない、姉上行きましょう。優月も」と同行者に呼びかける。
わたしはちょっと苦笑して村雲くんに会釈で別れの挨拶をした。
歩きながら、まだ怒った顔の居待を盗み見る。
わたしも村雲くんのように相手への思いをストレートに告げられたら。彼ほどまでじゃなくても、もう少しだけ。
今度こそ、今度こそ。
わたしは幾度目かも分からない決意をした。
『今度会ったら、聞いてほしい話があるんだ』
いつかのその日のために。
わたしは強く拳を握った。




