一
母さんは月が好きな人だった。冬に江戸で会った時も、変わらず月が好きだと言い、夜空を見上げていた。わたしの名前の由来となった、満ちては欠ける空の月。
母さんが水渡に帰る前日の夜。母さんと月を見ながら少し話をした。母さんは黄金色に輝く月を、ただそのまま見上げているのではないという。
月に別のなにかを重ねて、焦がれるように手を伸ばすのだと。
分かるような、分からないような。ただ母さんは、水渡に居る間も同じ月を見ているのだと言った。あの大きくてふしぎな魅力を持つ月は、どれだけ離れた場所にいても変わらず夜空にのぼる。
変わるものもあれば、変わらないものもある。
月はいつも姿を変えるけれど――
昨年の、反羅刹派による蜂起が未遂に終わって以来、大きな騒ぎは起きなかった。年が明けてから寒さが厳しくなり、江戸の町人は自分たちの事で手一杯になった。
羅刹と和平が結ばれた事を、江戸の庶民が思い出したのは、“羅刹城”の話がきっかけだった。今度の動きも、江戸の町とは直接関係のない場所で起こった。
和睦の証として、羅刹の王は“ヒトの領地に羅刹の拠点を作る事”を望んだ。江戸城はそれを受け入れる姿勢を見せ、その拠点を作る場所として、賽ノ地に目を向けた。
賽ノ地。狭間の地、軽くない犯罪が横行する町、羅刹のみならず妖怪までそぞろ歩きをする場所だとか。わたしの友人浅葱姉弟は何度か訪れた事があるそうだ。浅葱姉弟の賽ノ地の知人に、一度だけ会った事がある。その男性、中村景雲さんは、賽ノ地は変わりつつあると言っていた。賽ノ地に訪れた事のないわたしだが、景雲さんと出会って話を聞いたためか、今回の事が自分にまったくの無関係とは思えなくなっていた。
賽ノ地の住人は、今回の羅刹城の事をどう思っているんだろうか。長い間いがみ合ってきた相手が突然隣に越してきたら、心穏やかではいられないはず。わたしが巻き込まれたこの間の事件のように、羅刹との和平による影響が賽ノ地にも出るだろう。あるいは既に影響が出ている。
それはいつか江戸にまでおよぶものなのではないか。わたしはそこまで考えていたのだが、周囲の――主に爽亭のお客さんで、時に噂話を運んできては論議する――反応はもっと単純なものだった。自分たちの近くに羅刹城が建つのでなくてよかった、と。それでいいのだろうかと疑問に思ったが、わたしもわたしで、日々の暮らしに埋没していると思考はそこで止まってしまった。
寒くて客足の遠のく冬が終わりを迎え、花見の時季が近づくと途端に食事処は忙しくなる。去年提供していた花見弁当はまだ出さないのかとお客に言われ、渋々ながら父さんは花見用の弁当を準備しだした。弁当箱につめる中身も少し変え、去年とは違う臨時従業員を雇って、わたしも少しだけ手伝いをした。
何かひとつの事で慌ただしく立ち回っていると、考えておきたい事も忘れてしまう。
梅雨に入って、ふたたび客足がまばらになったその頃、わたしはやっと一息をつく事が出来た。
ある事に気がついてわたしは目をしばたいた。春先に、一度浅葱姉弟に会って以来、もう随分と彼らに会っていない。しかもその春先の一度は、小春日和のいい天気で店が混雑していた時だったから、手短に挨拶しただけ。
以前朝陽が町で偶然会ったという話をしていたが、最近ではそんな話も聞かない。元々住む場所が、身分が違うのだから出会わないのもおかしくないかもしれないが。まるで江戸にはいないみたいに思える。
それに気づいてからは、爽亭の戸が開かれるたびに振り返ってしまう。
あの姉弟が、というよりもそのうちの一人が、やってこないかと。
いつだったか、母さんが言っていた。月に別のなにかを重ねて見上げているのだと。思い出すと夜空を見上げたくなるのに、あいにくの梅雨空。なんだかいつかも出くわした状況だった。一昨年だったかの、月を見上げたいと思えど冬の曇り空という状況に、似て。こちらもいつだったかの秋、遠い人を待つ渡り鳥の歌を聞いた時の気持ちにも、似ていた。
その日の外は土砂降りで、本格的に降りだす前にやって来た常連客以外のお客はなかった。本当に親しい常連客三人だったから、わたしはつい気が抜けてしまった。貸本屋で借りた読本も開いたのに頁はずっと同じ場所。今夜も月は見えないと思うと、ため息が出た。
「おいおいなんだい優月ちゃん、ため息なんかついちゃって。恋わずらいかい?」
四朗さんが何か言っている。もう見飽きてしまった読本の頁を、眺めるでもなく見下ろした。
「……うん……」
夏が近いとあっても、雨が続くと肌寒い。今更ながら自分の冷えやすい体質を思い出して、腕まくりしていたシャツをおろす。
「えええええッ?!」
「なんでお前が驚くんだよ翔」
店内のどこかで長さんと翔くんが話をしていて、四朗さんの呆れたような唸り声のような吐息が聞こえた。
自分が生返事をしていたなんてまったく気づかず、わたしは読本を閉じると立ち上がった。
梅雨の湿気が、次第に蒸し暑さに変わっていった頃。日差しは日ましに眩しくなり、どんどんと夏が主張をしはじめた。
雲ひとつない空。苛烈なほどの日差しが江戸の町を焼く。一度お客さんを見送った際に空を見上げたら、南西の遠い山々がはっきりと見えた。
本格的に暑くなってきたので、春までは長袖だったシャツを半袖に変えた。
夏の日はいくら晴れても冬の晴れ間のように店が賑わったりはしない。暑すぎて誰も外出する気にならないのだ。夏が近づくと夕七つ頃からが勝負だ。
この日も暑さがやわらぎ、空が色褪せる頃に、お客さんが入りはじめた。もう少ししたら店先の提灯に明かりをつけなければならない。まだお客さんも大勢はいないし、ついでに外で簡単な掃除もしよう。
注文をさばいた後、店内から箒と火を持って店の外に出る。昼間は透き通るきれいな天色をしていた空も、今では枯れた荻のような色をしている。うすめられた空の色。わたしは先に提灯に火を入れる事にした。爽亭のような食事処だけじゃなく、民家からも夕飯のにおいが漂ってくる。そんなにおいに惹かれてか、道行く人は足早になったり立ち止まったりする。
少し目立つ一行が目に入ったのはその時だ。遠く、まだ互いの顔も分からないぐらいの距離なのに、わたしはあの人だと錯覚した。見間違い――見知った顔を探そうとするから、共通点ひとつあればつなげてしまう。そんないつもの勘違いだと思っていた。躑躅色の着物を見るたびに、居待くんだと思ってしまうわたしは、随分と長い間彼に会っていない。だからか、いざ本人が来るとなると、かえって疑わしく思えた。それも見知らぬ顔を伴っている。
そのうち本物だと分かった。途端に心臓が縮まる。躑躅色の丈の短い着物。韓紅の大きめなリボン。居待くん、だ。傍らにはいつも一緒にいるお姉さんの立待ちゃん。
それからわたしの知らない三人がいる。一人は髷を結った四十ほどの男性。身なりからして武士のようだから、もしかすると武家つながりで浅葱姉弟の親戚か何かかもしれない。もう一人は赤い着物が印象的な十代の少年。薄暗いのと遠目とではっきりしないが眼帯をつけているみたいだ。最後の一人は、黄色と赤の派手な上着がよく目立つ小柄な少年。
居待くんの結った髪が揺れるのが見えるくらいに近くなる。物理的な距離は近づくのに、わたしの見知らぬ誰かと一緒に歩いているのを見せつけられて――彼がかえって遠く感じた。自分の知らない相手と話している姿。わたしは居待くんを何も知らないのだと言われたような気がした。
くじけそうになる気持ちを抑えるために、わたしはぎゅっと箒を掴んだ。
息を、ゆっくり吐いて、吸う。
心臓はまだうるさい。重いようでいて、ゆらゆらと揺れている。
知らないから、知りたい。
せっかく久しぶりに会えたのに、声をかけないまま終わりなんて、いやだ。
自分の気持ちに気づいてしまった今では、おびえと同時に、ふしぎな程の勇気がわいてくる。唇を湿らすと、わたしは口を開いた。
「あれ、立待? と……居待」
誰よりも先にその存在に気づいていながら、簡単にはその名前が言えなかったけれど。
夕七つ……だいたい17時前
この回の最後の部分の別視点を、
早村友裕さんの『賽ノ地青嵐抄 【江戸編】』(http://ncode.syosetu.com/n1707cc/)
の第一話で読む事ができます!




