十
“さる大名家の陰謀?! あわや江戸城大惨事”
“辻斬り犯捕まる! 正体は闇の中”
“役人配置が未然に防いだ騒動”
翌日の瓦版の見出しはこんなものだった。
わたしの知る真実からはほど遠い情報から、かなり近いものまで瓦版に書かれていた。これだけ情報が錯綜していれば民もすべては信じるまい。主犯のむね……なにがしの名前もどこにも出ていなかった。わたしは何を尋ねられても、ほとんど気絶をしていて分からないとだけ答えた。
羅刹との和平が叶い、世間はよい方向へと向かっていると思ったのに、そうではなかった。和平がきっかけで反乱を起こそうという者がいた。
世の中には、一面だけを見ているのでは分からない事がたくさんあるのだ。
帰宅をしてからのわたしは、とても忙しくしていた。炯さんと連れ立った帰り道、きっとまた父さんや朝陽たちは大慌てをしているのだろうなと思った。心配してくれるのはうれしいけれど、彼らに気苦労をかけてしまった事が心苦しい。だからどんな顔をして爽亭に戻ればいいのかと少々悩んでいた。
想像通り騒がしい面々に迎え入れられた。いつかの夜の繰り返しが続くのかと思いきや、なんとその日の夕方――水渡からはるばる、母さんがやって来た。父さん以外は事前に知らされていなかったようで、わたしの帰宅以上に驚かれていた。
何しろわたしの母の兎衣は体が病弱なために余所で療養中の身だからだ。遠く離れた場所で娘の身に起きた事が心配でいても立ってもいられなかったのかもしれないが、病床の人間がわざわざ訪ねてくる程だと誰も思わなかったのだ。わたしも喜びよりも驚きの方が勝ってしまった。けれど母さんは疲れきったわたしより顔色がよかった。
それで今は無事の生還を果たした娘と、まさかの上京を果たした母親とを囲んで、いつもの常連客とお祭り騒ぎのようになっていた。店は臨時休業中なのに、賑やかだった。
「いやまさか兎衣ちゃんが来ちゃうとは思ってなかったよ。嬉しいけどさ」
四朗さんは机に肘をついて手の平に顎をのせていた。
「まあ、四朗さんたら。大事な娘の窮地に駆け付けない母親がどこにいるというのでしょう」
病がちな母さんは部屋にこもって過ごす事が多いので肌が透き通るように白い。わたしの髪とほとんど同じ淡藤色の髪は長く、丁寧に梳られている。母さん似のわたしだから、顔の造作も似たようなもの。それでも母さんが微笑むと、わたしよりもっと女性的で慈愛に満ちて見える。どこかおっとりとしつつも、優雅な物腰がわたしとは全然違う。
「あたし、よく考えたらあんたのお母さんとちゃんと会うのはじめてかも」
朝陽とは長い付き合いだが、出会った頃から母さんは床に伏している事が多く、娘の友人にお目にかかる機会も少なかった。まして数年前から江戸にはいなかったのだ、朝陽が興味深そうに母さんを眺めるのも無理はない。
「いやー、めでたい! こうして看板息子も無事戻って来たし、兎衣さんも元気そうだし!」
既にお酒の入っている長さんはお猪口を片手に笑い出していた。
「でも本当に大丈夫なの、母さん? 無理だけはしないでよ」
顔色がよいとはいっても、化粧である程度はごまかしがきく。体の弱い母さんにしてみれば水渡からの道のりは短い距離ではないだろうに。着いてすぐこの宴会のような歓迎を受けて、もっと休む必要があるのではないか。
「それはあなたにも言える事ですよ、優月さん」
母さんはにっこりと微笑んだ。
「私は大丈夫です。呉剛さんのお手紙を受け取ってからは、あなたたちのために何かしなくては、と思う事で力が湧いてきたほどです。本当に、体の調子はよいのですよ」
自分の娘に対しても丁寧な言葉づかいをやめない母、兎衣。以前会った時と何も変わらない。その事が何故か、急に目の奥を刺激した。泣いてしまえそうだったのは、すべてを受け入れてくれる母親という存在に甘えたくなったからだろうか。けれどわたしはぐっとこらえた。泣いてしまえばここにいるみんなの顔色が曇るから。今は事件の事も少し忘れて、みんなで楽しく食事をしているのだから、それを壊したくはない。
「ほら、飯でも食って英気養え」
ぶっきらぼうに言いながら父さんが野菜の煮物の載った皿を机の上に置いた。父さんは自分の妻子に料理を用意したつもりだろうが、横から伸びた箸が先に里芋をつまむ。
「そうそう、人間飯食わないと本気で気力わきやしませんからね~」
爽亭のご飯を食べに来ただけみたいな景次さんが母さんに向かって言った。隣にいる父さんは呆れ顔だ。「あ、これ超うめえ」と料理に夢中になる景次さんに、母さんは自分の息子でも見るようないたわりに満ちた顔をしていた。相変わらず、元気な日の景次さんは自由人だ。
初めて母さんに会う景次さんは少し世間話をした後で、少し離れた場所にいる翔くんを見つけて「なにしてんのお前」と言いながら立ち去っていった。
「で、兎衣ちゃんはいつまで江戸に居れるんだい? しばらくは居るんだろう?」
「おっ、久々に女将姿が見れるかな?」
父さんと昔からの知り合いである四郎さん長さんは、当然母さんとも以前からの付き合いがある。再会を喜ぶ気持ちも強いだろう。楽しげに問いかける男たちを見て、父さんは文句をつける。
「馬鹿野郎どもが、余計な事ばっか言ってんじゃねえよ」
「でもあたしもいつまでいるのか気になりますー。優月のお母さんと会うのはじめてだし、水渡の話とか聞きたいですし」
続けて手をあげたのは朝陽だった。長さんは「朝ちゃんに言われちゃあしょうがねえよなあ」としたり顔で父さんを肘で押す。
母さんがいる事以外は、まるっきりいつもの騒がしさ。むしろ、母さんがいる事でずっと昔の爽家の生活に戻ったかのよう。
「ったくお前らは本当に調子がいいんだからよ」
「ふふ、皆様、以前と変わらず私を爽亭の人間と思ってくださるのですね」
「あったり前よお! 兎衣ちゃんの人気は未だ衰えを知らず江戸に残ってるんだぜ?」
「えっ何それ、兎衣さんって伝説の女将?」
「話ふくらますな景次」
「伝説ってなんだかすごそう」
爽亭の中は笑いで満ち溢れていた。
他愛もない事を言い合って、遠慮なく話し、食事する。こっちの方がいい。心配顔でいっぱいだったり泣いたりなんかするよりも、笑って過ごす方が。
みんなが笑って過ごせる方がいいに決まっている。江戸が争いや反乱に巻き込まれる事なく、普通の日常を繰り返せる事を――しあわせだと思う。
いつかの夜と違って、わたしは直接人の死に立ち会った訳ではない。誘拐をされ閉じ込められ、蹴られ投げられしたものの、やっぱり五体満足で家に帰れたのだ。あの夜ほどのショックはなかった。それでも最初の夜は布団の中で泣いてしまったし、二日ほどはすぐに疲れて寝入ってしまい、なんとなく夢見が悪かった。
周囲の反応は前回と違った。朝陽の家ではない瓦版屋がわたしに取材をしたいと申し出てきたり――ちなみに父さんがすべてお断りした――、鳶彦さんが言っていたように狼士組が店の周りを見張ったりしていた。
話がどのように広がったのかは知らないが、お見舞いに来てくれた人の数も増えた。いつもの胡桃ちゃんあんずちゃんももちゃんは言うまでもなく、彼女たちほど頻繁には来ないけれど顔なじみのお客さんや、いつかわたしが恋人の振りをして助け出した光琳橋の女の子も来てくれた。
驚いた事に、ある商家からちょっとした見舞いの品と一筆書きつけられたものまで届いた。名前を聞くのを忘れたから確かではないが、去年の冬に不思議な出会い方をした、毎年雪うさぎを作る青年からの贈り物かもしれない。
店自体はまだ閉めたままだったが、母さんは二日たっても江戸に留まった。父さんの作るご飯の手伝いをしたり、なにくれとなくわたしの世話をしたり。わたしが動きやすい格好をするのが好きだと伝えてあったから、何か言われるような事はなかったが、夜には小袖を肩にあてられて、今度着てほしいと言われたりした。
わたしには気がかりな事がひとつあった。爽亭をいつ抜けだそうかと窺っていたが、母さんがいるためか見張りの目が多く、なかなか抜け出せないでいた。
気になるのは居待くんの事だ。意識のないまま屋敷を脱出して以来、会えていない。無事と聞いてはいるが、直接顔を見て確認したい。わたしのせいで彼は危ない目に遭ったのだから、謝罪もしなければならない。
馴染みのお客は皆、向こうから会いにきてくれるしわたしはその相手をしなければならない。母さんも久方ぶりの娘にうれしそうに話しかけてくる。もちろん嬉しい、身に余る光栄だ。でも、そうやってわたしを案ずる人々の相手をしているうちに簡単に一日が終わってしまう。冬のため昼が短いのもある。見舞客がいなくなるか、母さんが水渡に帰るかしないと、わたしはお出かけにもいけないのかもしれない。急ぐ事でもないのだから、気に病む事はないのだけれど。
せめてもと思って居待くんにお手紙を書いてみた。立待ちゃんも心配していそうだから、正確には二人に向けて。家を出にくいので飛脚の翔くんにでも届けてもらおうと思った。とはいえ翔くんだって何も毎日爽亭に来ているのではない。
けれどその日――偶然にも誰にも見咎められずに店の外に出る事が出来た。翔くんが上手い具合に通りがかる事はなかったが、なんとなく店先に立ちすくむ。
夕方の近い、穏やかな昼間だった。空気は冷えて、遠くの山々が見える。空の太陽は淡い光に変わり、ゆっくりと西へくだってゆく。濃い色の瓦の並ぶ江戸の町並み。こうして立ち止まって江戸の町を眺めるのは久しぶりだった。
今回の事件の事もいずれ町の人の頭の中から出て行くだろう。わたしの記憶もゆっくり薄れるはずだ。
そうして日常に戻って分かる事は、見えているものがすべてではないという事。当たり前かもしれないが、今見える平穏は、そのまま平和なものではない。いつ崩れてもおかしくないという危うさもあるかもしれないが、争いをなくそうと動いている人がいる。そういうもので、今の平和は守られている。わたし自身も、守られている。だからこそ、このなんでもない風景と日常が、大切に思える。
わたしもいつか、どのような形であれ、この江戸を、平和を、守りたいと思う。わたしがそうされたように。簡単な事ではないだろうが、きっと江戸の町を守る力になろう。
ずっと先の未来も笑っていられるように。自分がなした事に自信を持てるように。大切なものを守れるように。わたしはわたしに出来る事をやれるようになろう。何かのためなら、きっと自分一人のためよりも強くなれる。そんな気がする。
なんだか訳もなく力が湧いてきそうだった。
さあ、誰もわたしの外出を咎める者はない。いっそこのまま手紙を持って自分で届けに行こうか。だったら直接会った方が早い。そう思って歩き出した。
その小旅行はあっけなく終了させられる。誰あろう、浅葱姉弟の訪れによって。
目に飛び込んできた光景に、わたしは目を見張る。
「優月さん!」
声を上げたのは立待ちゃんだった。そこにはほとんど同じ顔がふたつ。けれど異なる表情。どこか曇った顔の立待ちゃんは駆けてきて、飄々とした居待くんはこちらを一瞥しただけだった。彼はゆっくり姉のあとを追いかける。
一気に押し寄せるのは安堵と、心臓のうるささ。
無事な姿を見られてうれしい。けれど反対に逃げだしたくもなる。
あの時ひとつの事に気づいてしまったから――。
わたしは必要以上に居待くんを気にして見えないように、心がけた。いつものように完璧な弧を描く長いまつげ、金に似た鶯色の瞳。きれいな肌、丁寧に梳ったぬばたまの黒髪。編んだ二つのおさげ。ぱっと見ただけでは居待くんの体に不調はなさそうだ。もちろん会ってこの目で無事を確認したかった。それなのに何故か、いざこうして目の前にしてしまうと、とても落ち着かない気分だ。
同じ事件に巻き込まれた身として、まず相手を気遣うのが人情ってものなんだろうけど、それすら出来そうにない。ちゃんと、相手の事を心配したいのに。無事だと分かった途端に、急に戸惑いを思い出す。
「ご無事でよかったです……」
立待ちゃんは事件の概要を既に知っているようだったが、それでも顔を見て話したいと思っていたそうだ。いつかの夜の事を心配してくれた時みたいに、立待ちゃんはいろいろ訊ねてきた。怪我はないか、ちゃんと休めているかなどというものだ。わたしも同じ事を彼女の弟に対して思っていたところだ。
「居待さんも、怪我はなかったって聞いてたけど、元気そうでよかったよ」
名を呼ばれ、まるで今わたしの存在に気づいたかのようにこちらを見て、居待くんはひとつ頷いた。
「……ええ、あなたも」
すぐに伏し目がちに余所を向く。
また少し立待ちゃんと話すうちに、わたしはふと思い出した。狼士組が来る前、誰とも知れぬ人物によって事態が急変した時の事を。居待くんは、わたしたちを助けてくれた謎の人物について何か知らないだろうか。訊ねてみたが、「わたくしからは何も見えませんでした」と返ってくるだけ。
「……会ってみたかったな」
立待ちゃんにも簡単に説明すると、彼女は目をぱちくりさせた。普通の人からしてみれば、そんな国賊予備軍の根城で孤軍奮闘する人物を不審に思うのかもしれない。でもわたしは、二度も助けられたような気がして、だからこそ余計に気になった。
「もし近くにいるのだとしたら、会えるといいですわね。会えるものなら」
居待くんには軽く流されたような気がする。
「そういえばですね、居待が爽亭に持って行った器なんですけど、いろいろあって割れてしまったみたいで……」
ぽんと手を打った立待ちゃんが言うには、元にさらわれる前に居待くんが手にしていた爽亭の食器は落としてしまったそうだ。新しいものを用意するか弁償するか迷っていると、立待ちゃん。あの時はそれどころじゃなかったんだし、気にしなくてもと思ったが生真面目な少女は譲らなかった。ただわたしは店で使っている食器については詳しくないし、たとえ弁償してもらう事になってもいくらだなんて分からない。店主である父さんに聞かなければと告げると、立待ちゃんは意気込んだように「それではお詫びと共に弁償についてのお話を」と爽亭に歩を進めた。元々うちの店に寄るつもりがあったのだろう。わたしも立待ちゃんを追って店へと戻る。
居待くんも後についてきているだろうと思っていたから、背後の気配には何の警戒もしていなかった。
「ちょっと」
突然シャツの襟首を掴まれる。強い力ではなかったもののいきなりの事で「うぐ」と間抜けな声をあげてしまう。襟を掴む手はすぐに放された。シャツをおさえつつ振り返ると、どこか退屈そうな居待くんの瞳とかち合う。
「名前。呼び捨てで構いませんわ」
人の首を絞めた時と同じくらいの唐突さで言われたものだから、何がなんだか分からない。
「……へ?」
物分かりの悪い教え子でも見るような目付きで、居待くんは半眼になる。
「さん付けされるなんてなんだか気持ちが悪いですし」
ふいと視線が逸らされたのにも気付かずに、わたしは頭の中で言われた言葉を反芻した。
主語がないけれど多分、居待くん自身の事を言っているのだろう。屋敷に閉じ込められていた時、わたしは居待くんを女の子と見せかけるために居待さんと呼ぶ事にした。それをついさっきもやっていたから、やめてほしい、という事なのか。ていうか、気持ち悪い、って。
「えええ」
戸惑うわたしをしり目に、居待くんは歩き出した。
敬称もなく名前で呼んでいい、っていう事だろうか。わたしも年上の人にさん付けされるとなんだか変な気分になる。彼もそういう意味合いの事を言いたいのだろうか。
でもでも気持ち悪いって。どこかからかうような語調で、本気で嫌がっている様子はなかったけど。なんだか納得いかないのはなんでだろう。呼び捨てでいいっていうのは、少しは気を許してくれている証なはずなのに、なんだろうこのもやもやは。多分気にしすぎなんだろうけど。
「何してるんですの、早く行きますわよ」
ぐるぐるする思考を遮るのは、呆れたような居待くんの声。
ゆっくり歩くのは、わたしを待っていてくれるからか。幾度もそうしてくれたように。
きゅっと、体の奥で何かが引き絞られる。
いつもと変わらないようなやり取り。
「うん……!」
たったそれだけの事で、口元がほころぶ。
ゆるい西日が、目の前を歩く人の輪郭を光らせる。
伸びてゆく影。
変わらない日常。
不安定な思い。でも事件の前と変わらない日常。
自分のくだらない疑問や、向ける気持ちはまた別として。
ずっと、こんな日が続けばいいと思った。
穏やかな日々が、ずっと。




