第5話 新月の夜に灯る
幼い頃に、こんな話を聞かされたことはないだろうか──新月の夜は、影に棲まう闇の精霊が嗤う夜。魔性は真の姿を現し、暗い夜を這い回る。導きの光が沈む前に家へ帰りなさい。黄昏に長く伸びる影が、闇の隙間から伸びる魔の手に捕まる前に。
暗くなる前に家に帰らせたい大人の作り話、そんなふうに嘲笑えるのは、きっと王都や大都市の光に守られた子供たちだけ。
地方の田舎、人のいない街道や森を旅する者は今でも、新月の夜だけは必ず明かりを絶やさない。当然この森の中の家でも、曾祖母の言いつけ通りに守ってきた。おかげで被害もなく今まで生きてこられた。
けれどそんな伝承が、ただの言い伝えではないという現実が寝室の片隅で起きている。
夕日が沈んでから、段々と調子を崩したフォルは、自分で寝室へ戻っていった。
次に街へ向かうときに買い取ってもらう素材の準備をしていたときだった。寝室からドタンバタンと何かを叩きつけるような音がし、慌てて様子を見に行くと、全身から伸びる無数の触手をうねらせて苦しそうにもがくフォルの姿があった。
「フォル、どうしたの?」
駆け寄ろうとすると、フォルは触手の一本を鞭のようにしならせて床を叩きつける。こちらへ近づくなと威嚇すると同時に、怯えるようにますます隅の方で縮こまった。その姿は、初めて会ったときの瘴気が体から吹き出した瞬間の反応によく似ている。
体が上手く制御できてないのかな?
当てちゃうかもって、怖がってるんだね。
苦しくて悶えているのに、理性を手放さず相手の心配をしている。そんな優しい子を、放っておけるわけがない。
「フォル、ちょっと体を診るね」
壁際のフォルへ近づき、毛糸玉のように体表で絡まり、うねり続ける触手に触れてみる。いつもより明らかに熱を持ち、湿り気も帯びていた。薬草水を塗ってあげれば熱冷ましにもなり、浄化の力でこの暴走も落ち着く可能性がある。
「薬草水を塗ってみようか。そしたら少し──」
薬草水を入れた棚へ取りに行こうとして、突然伸びた触手に打たれる。横から肩のあたりに直撃し、痛みと共に勢いのまま床を転がった。
痛っ……でも、大丈夫。
骨も、たぶん折れてなさそうだし。
痛みをこらえながら起き上がると、フォルは窓際へと移動していた。そこから外へ出ようとしているのか、無数の触手が窓に貼りつき、小さく小さく何度も引っ掻くようにキィキィと滑り落ちる。まるで月の光に飢え、少しでも満たされようと必死に縋っているようにさえ見えた。
思えば、閉めていたはずのカーテンが開いている。もしかしたらフォルは寝室に戻ってから、体調を整えるために月光を浴びようとしたのかもしれない。けれど、カーテンを開けたフォルは月光を浴びることができなかった。
──今日は……新月の夜だから。
「怖がらないで。一回叩かれたくらい、別にどうってことないよ。フォルのせいじゃないんだから」
すぐに使ってあげられるよう、棚から薬草水を取り出し、フォルがいつも使っているクッションの傍へと置く。
「大丈夫だよ、フォル。ここにいていい。どこにも行かなくていいんだよ」
窓際に貼りつくフォルを後ろから抱きしめて抱え、もう片方の手で触手をゆっくりと剥がしていく。フォルは少しだけ落ち着いたのか、腕の中でおとなしくなった。そのまま足元にあるクッションの上に乗せても、嫌がるような様子はない。
「月の光の代わりに、薬草水を塗るね。きっと、ひんやりして気持ちいいよ」
薬草水を少し振りかけると、ジュワッと触手の隙間から瘴気があふれ出る。揺り戻しが起こらないよう、慎重に薬草水を手に取り、毛糸のように絡み合う触手をほぐしながら、優しく撫でて塗り広げていく。すると、触手のうねりが緩やかに静まり、一本、また一本と体の中へ消えていった。
「どう? 少しずつ楽になってきたかな? まだ塗ってもいい?」
フォルへ尋ねると、力なく伸びた触手が、ぺちっと一回小さく床を叩いた。ようやく本来の体が見えてきたところにも、薬草水を満遍なく薄く塗っていく。丸パンのような体が、呼吸するように小さく膨らんだり萎んだりを繰り返している。その動きもやがて、ゆっくりと落ち着いたものへと変わっていった。
「落ち着いてきたね。苦しかったのに、よく頑張ったね。フォルは本当に強くて、偉い子だね」
いつものように丸パンの天辺を撫でると、フォルは少しだけ背が低くなり、横へ広がった。ようやく強張っていた体から、余計な力が抜けてきたようだ。
「フォル……あなたはフォル。あなたはまだちゃんと生きてここにいる」
安心して眠れるように、呪いによって自分の心の形まで見失ってしまわないように、フォルを抱きしめて話しかけた。目があまりよく見えてなさそうなフォルにとって、きっと声と感触は何より頼りになると思ったからだ。
魔を祓うために明かりを灯し続けるなら、フォルを蝕むものを祓う明かりに、私がなれたらいいよね。
「フォルは一人じゃないよ。私が必ず、その呪いを解くから……だから、フォルも諦めないでね」
今日はこのまま、フォルに寄り添っていよう。この新月の夜さえ乗り越えられれば、明日からはまた月光が癒してくれる。
目を閉じると、すぐ隣から「ぺちっ」と音がした。そのあとに、ずるずると何か柔らかいものが引きずられる音が聞こえ、ふわりと体に覆い被さる。嗅ぎ慣れた洗剤の香りと重さの感覚から、フォルに貸しているブランケットだとわかった。
「ありがとう、フォル」
お礼を言うと、触手が優しく頭を撫でていった。親が子供を寝かしつけるように、あるいは一仕事終えたことを労うように。いつもフォルにしていることを真似して返しているようにも思えて、少しだけ胸の奥がくすぐったい気持ちになった。




