第3話 君は何者?【フォル視点】
始まりは、左腕と顔の左半分が真っ黒に変色したことだった。黒変は僅か一週間で、全身を覆い尽くそうとしていた。その頃にはもう、太陽の下に出れば全身が焼かれるように痛み、部屋から出られなくなっていた。
事態を重く見た国王は、王家のお抱え医師、教会の大司教や高位神官、宮廷魔術師、国の叡智をかき集めて原因をつきとめようとした。
「これは病ではないように思います。このような症例は見たことも聞いたこともございません」
「この黒変に、治癒術は全く効果がないようですな。古くから伝わる呪法の類には、人体に影響を与えるものもあると聞いたことがあるが……」
「呪術は禁術とされて久しく、技術継承も途絶え、書物も多くが失われております。ゆえに、解析するにしても、術者を炙り出すにしても相当な時間がかかるかと」
「呪術であれば、呪詛返しという方法があるはずだが、今となっては……」
「呪術は影に棲まう闇の精霊との契約によって得られる魔術。穢れを取り扱う術のはず。治癒術ではなく、浄化の儀を応用してみてはいかがでしょう?」
「しかし軽率に執り行って、フォルティス殿下の身に何かあっては……」
できればこの理由のわからないものに関わりたくない。責任は持ちたくない。何かあれば自身の沽券……いや、命にすら関わる。医師、宮廷魔術師、そして大司教や神官たちまで、全員が顔色悪く互いを見つめ合っていた。
「藁をも縋る思いなのだ。責任は問わぬ。どうか最善を尽くして、息子を救ってくれ……!」
国王であるフォルティスの父が訴えると、彼らはますます渋い表情をした。よくわからない症状、手探りと不確かな知識で導き出した予想。行動に移すにはあまりにも決定打に欠け、実験的に試す相手として『王太子』はあまりにも存在が重すぎた。
大司教の命で、神官たちは浄化の儀に使用する法陣を準備していく。その顔色はまるで処刑を待つ罪人のようだったことを覚えている。
準備が終わると、痛む体でなんとか浄化の儀の法陣の中に立った。大司教を中心に神官たちは、穢れを祓う術式を黒変に蝕まれた体へと施す。法陣が神々しく淡い光を放ち始めた瞬間──
「……っ……ぁ、ああぁぁぁァァッッ……!!」
体が四方八方に引き裂かれていくような鋭い痛み。その小さく引き千切れた体が灰へと焼き尽くされていくような灼熱。どこから出ているのかもわからない声があふれ、ゆっくりと視界が沈む。
痛みが引いたとき、フォルティスは周囲を囲んでいた者たちの足が見えていた。荒い呼吸のまま視線を下に向けると足はなく、黒い泥のような物の中に下半身が沈んでいた。いや……感覚からして、この黒い泥が下半身だった。
その場にいた者が驚愕と恐怖の悲鳴をあげ、後退る。そうして誰一人として黒変を止めることは叶わず、皆匙を投げた。これに対応するのはとても無理だ、と。
* * *
国王……フォルティスの父は泣いて謝罪しながら、フォルティスを離宮にあるフォルティスの私室に閉じ込めるしかなかった。フォルティスに仕えていた騎士や従者が、警護や身の回りの世話をしてくれていた。けれどそんな彼らの献身も虚しく、一か月後には言葉を失い、三か月が経つ頃には人の形さえ完全に失っていた。
段々と瘴気を放つようになった体は、残ってくれていた僅かな忠臣たちさえも遠ざける。そんな彼らが危険を冒してまで、フォルティスに囁いた。
『俺の声が届いているのなら、どうかお逃げください。このままでは、殿下は魔物として処分され、病死として処理されてしまいます。陛下は悩んでおられますが、もう時間の問題かと……』
嘆きと悲しみの情を滲ませて。瘴気を放つ存在を外部に流出させることの罪を負って、扉の鍵を外した。
僕は……死にたくない。
人のいないところでなら、まだ生きることを許してもらえるだろうか。
すでに半液状化していた黒泥の体を痛みをこらえて動かし、扉の鍵は閉めた。彼らの意思で逃がそうとしたことを知られないように。
扉の隙間から液体化させた体で床を舐めるように部屋へ戻り、窓を開け、壁をどろどろと伝って逃げ出した。行く当ても、逃げる先もなく、ただ人的被害は出せないと森の方へと逃げた。
「フォル~!」
薄い壁を一枚通したように遠くに聞こえるものの、その声が明るい女性のものであることは伝わってくる。パタパタという軽快な足音と共に近づき、フォルティスの上に彼女の影が落ちた。
「これ持てそうかな?」
フォルティスが手を伸ばそうとすると、丸い体からしゅるりと触手が生える。彼女から大きめのバスケットを受け取り、頭の上に乗せるとズシリと少しだけ体へ沈み込むのを感じた。今日は薬に使うものを取りに行くと言っていたから、きっと中身は薬草などでいっぱいになっているのだろう。
「すごい! フォルは小さいのに力持ちだね」
ノルン、僕は少しくらい君の役に立てているだろうか。
バスケットの影から、そっと上を窺い見る。水の中から水面の向こうを見るように、ぼんやりしていてよく見えない。太陽の光が木漏れ日のように揺らめいて、眩しい。
ノルンはきっと、太陽と同じ色の髪をしているのかもしれない。滲んだ世界に色づく二輪の花のような薄紅色は、彼女の瞳の色かもしれない。その優しい色が、フォルティスに微笑みかけてくれているようだった。
歩いていると言っていいのか、這っているというべきかわからないが、移動もだいぶ早くできるようになった。ノルンが穢れを祓ってくれるようになってから、慢性的に体を苛んでいた痛みがほとんどなくなっている。
「今日採ったのは、塗る用の薬草水に使う薬草なんだよ。浄化が早まるように、たっぷり塗ってあげるからね」
薬草水……塗ってあげる……?
誰が、誰に。
まさかノルンが、僕に!?
こんな『形を保ったまま炭化した丸パン』みたいな見た目のせいか、ノルンは人間だと認識してくれていても成人男性とは思っていない。いや、こんな姿でも人間扱いしてくれることを感謝すべきだが、論点はそこではない。
無礼だなどと言うつもりはない。ただ、ノルンが真実を知ったときに、衝撃を受けて傷ついてしまわないかだけが心配だった。
フォルティスと名乗るわけにはいかないけど、フォルって名前で性別くらいは察してほしかったな……
ノルンは『ぷにさん』と呼ぶのをやめて、『フォル』と呼んでくれるようになったものの、接する態度は相変わらず『ぷにさん』と変わらない。
まるで子供に接するような気さくな態度は、フォルティスにとってほとんど経験がなく、もうそんな年齢でもない。くすぐったさと気恥ずかしさ、けれど少しだけ悪くないかもと思う気持ちもあり、自分でも処理しきれない戸惑いを抱えていた。
でも、どうしてノルンは瘴気が平気なんだ?
瘴気は人の体を音もなく蝕み、命を奪う恐ろしいものだ。初めて会ったときのフォルティスは瘴気まみれで、とても人が触れるような存在ではなかった。
ノルンはなぜ、瘴気の影響を受けにくい体質なのだろうか。ノルンはなぜ、王宮の医師や魔術師、神官たちですら頭を悩ませていたものを呪いだとすぐに見抜けたのか。そしてなぜ、対処法まで知っているのだろうか。
森の奥に一人で住んでいる、不思議な女性。彼女が一体何者であるのか、フォルティスには見当もつかなかった。それでもたった一つだけ、彼女の正体の手がかりを掴んでいる。
『私はノルン・フェーリ』
ノルンはフォルティスにそう名乗った。フェーリ……その姓は、フォルティスの剣の師であり、かつて国王の両翼を護っていた護衛騎士の片方、ヴィダル・フェーリと同じ。
十年前、突然自ら命を絶った騎士と同じ姓でもあった。
ノルンはヴィダル殿の親族なのだろうか?
だとしても、体質や呪いに詳しいことに説明はつかない。
なら、なぜこんなところに?
ノルンが何者なのか。もう幾度目になるかわからない疑問を頭の中に浮かべていた。
バスケットを乗せてノルンの隣を歩いていると、不意に背後から妙な気配を感じた。それは音ではなく、振動でもない。
──視線……あるいは殺気のようなものだった。




