第2話 黒いぷにぷにの名前
ぷにさんを保護して、今日で五日。崩れていた体は、まるで焼きたての丸パンのようなふっくらとした半球状まで戻ってきていた。
暮らしていて気づいたのは、ぷにさんはよく扉の端や部屋の角に体をぶつけること。けれどあまり痛そうな素振りもなく、何事もなかったようにのそりのそりと這っていく。目も鼻もつるりと溶けてしまっているせいか、痛覚まで含めて感覚が鈍く、視界もぼやけているのかもしれない。
口もないから、体全体が口みたいなものってことでいいんだよね、これ。
手の代わりにしている触手も、感覚の鈍さからかスプーンを落としてしまう。そのため、食事は体にブスッと刺し入れて毎食食べさせてあげていた。口がわからずそれっぽい場所に刺していたが、特に問題はなさそうだった。
「ぷにさん、朝食できたよ」
ぷにさんは体の中に溜め込んでしまっている呪いの穢れを抜かなくてはならない。浄化効果のあるハーブ水と、野菜のスープとパンという質素な食事をずっと続けている。
本当は肉や魚も取り入れてあげたいが、呪われて穢れを溜め込みすぎた体には、生き物の死を体内に取り入れても自浄する力がない。呪いが解けるまではこの食事で我慢してもらうしかなかった。
適温まで冷めたスープの器を手に、スプーンで掬って一口刺す。もぎゅっと飲み込まれ、引き抜くとスプーンの上の野菜はきちんとなくなっている。次を掬おうとすると、触手が手首に絡められた。
「どうしたの、ぷにさん。パンが良かった? それとも水が飲みたい?」
ぷにさんはもう片方の触手をぺちぺちと二回床を叩いて鳴らす。それは「いいえ」の合図だ。手首の触手が離れ、スプーンへと巻きつく。
「自分で食べる練習をするの?」
そう尋ねると、ぷにさんは頷くようにぺちっと一回だけ床を叩いた。スプーンから手を離し、両手でスープの皿を支えて、ぷにさんの体へ近付ける。ぷにさんはぎゅうぎゅうにスプーンに触手を巻きつけてからスープを掬い、ふるふると震わせながらも自分で食事を体に刺して食べ始めた。
少しずつ少しずつスープを飲み込んでいくが、震えるスプーンからぽたぽたと零れてはつるんとした体を汚していく。それに気づいたぷにさんは、発酵に失敗したパン生地のように萎み、スプーンを握りしめていた触手が緩む。
「大丈夫、大丈夫! ぷにさん、すごく上手だよ。疲れたなら、私が替わろっか?」
ぷにさんは慌てたようにポコンと元の丸パン型に戻ると、ぺちぺちと二回床を叩いた。まだ練習を続ける気力は残っているようだ。
一度スープの皿をトレイへ戻し、ぷにさんの体についたスープをタオルで拭う。下ろされていたスプーンに触手をくるくると巻きつけ、きゅっと両手で包み込んで握らせた。
「ぷにさんは頑張ってるよ! 自分でやろうって気持ちも偉い! だから、焦らなくていいからね。ゆっくりやってこう?」
よしよしと丸パンのような天辺を撫でると、ぷにさんは上を向くように少し体を縦に伸ばしながら後ろに反った。ぷにさんが何を考えて、何を感じているのかはわからない。口が戻れば会話ができるはずだが、まだそれが戻りそうな気配はなかった。
「早く喋れるようになるといいよね。そのときは、本当の名前を教えてね」
ぷにさんは人間だ。いつまでも「ぷにさん」なんて呼ばれたくもないだろう。本名はその人をその人と定義づける錨のようなものだ。それがなくては自分が何者かが薄れてしまう。
特に形を失うタイプの呪いを受けているぷにさんにとって、本名が薄れるというのはあまり良いとは言えない。自分というものを見失えば見失うほど、より人ではないものになってしまうからだ。
ぷにさんは慎重に、上手に食事をしている。手が空いたことで、薬湯の準備に取りかかれそうだ。もう一枚新しく用意したタオルをナフキン代わりに体にかけてから、材料を準備した。
隣のテーブルで浄化を促進するための薬湯作りにとりかかる。月灯草という薬草の根と葉をナイフで細かく刻んで鍋に入れ、アルコールランプの火にかけてぐつぐつと煮込んでいく。中の湯の色が茶色へ変色し、さらに煮続けることで鮮やかな緑色へと変わる。
それを合図に月灯草の白い花びらを手揉みして叩いてから加え、精霊蝶の鱗粉と満月を浴びた夜露を一匙。くるくるとかき混ぜながら、最後に朝告げの花蜜を一滴入れると、冴え渡るような青い空の色になる。それが、浄化薬の完成の合図だ。
浄化薬と言っても様々な種類があるが、効果と素材の入手のしやすさを追求すると、現時点ではこれが最善だと考えている。特に浄化薬一本で済まないほど根深いぷにさんの呪いは、揺り戻しを考慮すればゆっくり時間をかけていく方が後遺症も残りにくいはずだ。
「薬湯は苦いけど、頑張って」
ぷにさんが食事を終わらせる頃には、薬湯も温くなっていた。必要な分を小皿へ移し、残りは瓶に移して保存して少しずつ使っていく予定だ。
「よし……いくよ!」
小皿ごとぷにさんの体に突き刺した瞬間、ぷにさんの黒い体がビビビッと震え、全身が毛のように逆立つ。毛の短いイガ栗のような姿は、苦くてまずいのを必死にこらえている証だ。
何回見てもかわいい……って不謹慎なこと考えちゃって申し訳ないなぁ。
小皿を引き抜くと、ぷにさんのトゲトゲも徐々に鋭さを失い、元のつるんとした表面へと戻った。
「よし、全部飲めたね。偉い!」
労うために丸パンのような天辺を撫でると、ぷにさんはひょこっと触手を伸ばす。そうしてそのまま、撫でられたところを遠慮がちにさすっていた。
* * *
ぷにさんの浄化は少しずつ進み、昨日少し太陽の光を浴びられたことから、外套を羽織るという条件つきで今日から日向ぼっこを解禁にした。もうほとんど痛みはないのか、日の光の下でのんびり過ごしている。
すぐ隣の泉で洗い物を濯ぎ終えて戻ると、ぷにさんは木の枝に触手を巻きつけて熱心に何かを描いているのが目に留まる。暇つぶしをしているのかわからないが、どうも描いているものが気に食わないのか、描いてはじっと確認してから消してを繰り返していた。
洗濯物が半分ほど干し終わりかけた頃、木の枝を握りしめたままのぷにさんがすぐ傍まで来て、じっと……たぶんこちらを見上げていた。
「どうしたの? 何かあった?」
手を止めて屈んで尋ねると、ぷにさんは慌てたように触手を左右にフリフリとする。だばだばっと丸パンの底のあたりを忙しなく波打たせながらこちらへ近づき、急いで洗濯籠の中に触手を入れ、タオルを洗濯紐にかけてくれた。
「あぁ、手伝ってくれるんだね。ありがとう!」
タオルのような簡単な形状のものをぷにさんに任せ、自分はハンガーが必要なものを担当した。
それがあっという間に終わると、ぷにさんはこちらの手首にしゅるりと触手を巻きつけて、グッグッと軽く引っ張る。
「ついてきてってことかな?」
ぷにさんはぺちっと一回地面を叩くと、のそりのそりと先導し始める。向かったのは、先程ぷにさんが熱心に何かを描いていた場所だ。土の茶色がむき出しになった場所に、抉るように何かが書いてある。よくよく見ると、それが文字であることに気づいた。
そこには、歪で拙い字で『ノルン』『フォル』と書かれている。
ぷにさんは触手でぺちぺちと『ノルン』の文字を叩いたあと、ちょんちょんとこちらを指す。そのあと『フォル』の文字を叩き、自分を指した。
「もしかして、あなたの名前が『フォル』ってこと?」
するとぷにさんはぺちんと一回叩き、次に二本の触手をピンと伸ばす。その端と端が頭上でピタリとくっつき、大きな丸を作った。どうやらぷにさんの本当の名前は『フォル』というらしい。
何度も書いては消しをくり返していたのは、読める形になるまで書き直していたからだろう。何度も近づいて見ていたのは、目がよく見えないから読める形になっているかを懸命に確認していたからかもしれない。その努力の形跡が、地面の擦れ具合から伝わってくる。
「そっか、じゃあ今日からはちゃんとフォルって呼ぶね。改めてよろしく」
ぷにさん改め、フォルは、名前が伝わったことが嬉しかったのか、ぽよんと弾むように縦に伸び縮みする。それからまた木の棒を手に取り、地面に体を寄せて一生懸命文字を書き始める。フォルの傍らで、その完成をゆっくりと待っていた。
──しばらくかかったあと、体を除けたそこには「ありがとう」と書かれていた。
じわりと、口の中で甘い砂糖菓子がほどけるように胸が熱くなる。別に感謝されたかったわけではなかったのに、無性に嬉しくてたまらなくなった。
私は解呪専門の呪術師。
呪いで困ってる人を助けるのは、当たり前のことなのに。
「お礼なんていいのに! フォルって、ホント健気でかわいいんだから!」
ギュッと抱きしめると、フォルはキューッと身を細くして縮こまらせ、ぷるぷると震え始める。
「私ももっと頑張るね。フォルの呪いが無事に解けるように」
フォルの形状は黒泥からつるんとした丸パンに変わっただけだ。まだまだ人間と呼ぶには程遠い見た目をしている。穢れが悪化すれば、泥状に戻るだけでなく、本人の意識や思考までもが蝕まれてしまう可能性だってある。
気を抜かずに、見守っていかないと……
胸の内の小さな呟きは心の奥深くに落ち、小さな波紋を広げていく。この子は私が守らなきゃ、という使命感と共に。




