第1話 月光に沈む黒泥
「じっとしてて、すぐ楽になるからね」
月明かりに照らされて青白く輝く花の海に沈む、黒泥。砂山のように溶けている体が、怯えたようにビクリと震える。逃げる力なんて、きっともう残っていないのに後退ろうとして、さらに体が崩れて地面に広がる。
こんな姿になっても、呼吸をするように生々しく上下する体。気配だけは、確かに『生きている人間』だった。
「怖くないよ。私はあなたを討伐したいわけじゃない」
黒泥を宥めるように、薬草を揉んだ手でそっと撫でる。ぷにぷにと沈み込む感覚に、ぬめっとした感触。触れたところから黒い靄……瘴気がブシューと音を立てて噴き出てくる。
その瞬間、弾かれたようにビクッと黒い体が跳ね、黒泥はとっさにこちらから離れようとした。しかし思うように動けなかったのか、その場でずるっと仰け反るように崩れただけだった。
「……気遣ってくれたんだ、優しいんだね。でも私、瘴気の影響は受けにくい体質だから」
黒泥はこちらの言葉を信じてくれたのか、傾きをゆっくりと元に戻す。そうしてこちらの影に寄り添うように、そっと身を寄せた。指の太さくらいの細い触手がそろりとこちらへ伸び、外套の端をぎゅうっと握りしめる。
その体から漂う深く昏い『呪い』の気配。脳裏に、呪いによって命を奪われた父の姿がよぎった。
「任せて、私が必ずあなたを助ける」
大丈夫……まだきっと、この子は間に合うはず。
黒泥の仕草がまるで不安な気持ちで縋る子供のように見え、胸の奥に突き刺さる。外套を握りしめる触手を、そっと両手で包んだ。少しでも安心できるように。
* * *
森の奥にひっそりと建てられた家で一人暮らしをし、時折街の魔法薬店に素材を卸しながら生計を立てている。けれどここに住むと決めたのも家を建てたのも曾祖母で、子供の頃に引き取られて以来、そのまま住んでいるだけだった。肝心の曾祖母も、今はもう亡くなってしまっている。
「はぁ、はぁ……重っ……」
黒泥の触手を肩に巻いて背負い、引きずりながら時間をかけて辿り着いた。黒泥はさほど大きくないにも関わらず、重量は明らかにこちらの体重を超えている。黒泥に歩く意思がなかったら、あの花畑に残るしかなかっただろう。
「すぐに寝るとこ準備するから待ってて」
作業部屋に置いていた大きな丸いクッションを取りに行き、寝室へと運び入れる。黒泥を連れて行こうと手を伸ばすと、伸びてきた触手でやんわりと断られた。
黒泥は、ずる……ずる……と、時折休みながらナメクジのように這っていく。元が自立心の強い人だったのか、必要以上には頼りたくないようだった。
やがてクッションまで辿り着くと、のそっとクッションの上へよじ登る。しばらくもごもごと動いたあと、ようやくしっくりくる位置を見つけたのか、黒泥は一息つくように萎んだ。気持ちも緩んだのか、だらりとクッションの端から体が零れ落ちている。
「言葉は通じてる、ってことでいいのかな……あなたは誰かに呪いをかけられたみたい。呪いを解くのには時間がかかるし大変なこともあるけど、一緒に頑張っていこうね」
黒泥の前でしゃがんで声をかけると、しゅるりと触手が伸びる。その先が、床を一度だけペチッと叩いた。
カーテンを開けると、柔らかく月光が差し込む。青白い光を浴びた黒い体の表面が、つるりとそれを照り返している。黒泥はぶるりと体を震わせると、少しだけ縮こまった。
「月光浴をすると、蓄積した穢れを軽くできるんだけど……痛むならやめる?」
日光や月光には、呪いの力を弱める作用がある。日光は特に強烈で、呪いの濃いうちから浴びると全身を炙り焼きにされるような激痛に苛まれるという。それに比べて月光は日光ほどの強い浄化の力はないが、柔らかく優しく内側から癒やす力があった。
それでも呪いが深ければ、痛みは出る。もう少し軽くなってから始めても構わない。伸びたままになっていた触手が、今度はペチペチと二回床を叩いた。
痛みを訴えているのだと思い、カーテンを閉めようと手をかけると、手首に触手が絡みつく。そしてゆっくりと下に引かれて、拒まれた。
「カーテンは開けたままでいいってこと?」
すると触手は手首から離れ、また床をペチッと一度だけ叩いた。どうやら「はい」なら一回、「いいえ」なら二回床を叩いているらしい。
ここまでしっかり意思疎通できるなんて。
この人、体は崩れてるけど意識はかなりハッキリしてるみたい。
呪いは進行すればするほど精神も蝕むと、呪術師だった曾祖母が話していた。体の原型を留めないほどに進行しているにも関わらず、精神が侵されていないことに、内心かなり驚いていた。
「わかった。でも日光はまだすごく痛むと思うから、私が寝るときには閉めるからね」
またペチッと一回床を叩いて答える黒泥に、思わず頬が緩む。こんなことを思うなんて不謹慎だとわかっているが、どうにも健気でかわいらしく見えてしまった。
「私はノルン・フェーリ。声が出るようになったら、ノルンって呼んでね」
名前を名乗ると、黒泥からビクッとトゲトゲが飛び出す。その反応が何かはわからないが、一瞬だけ真っ黒なハリネズミのようだった。
「あなたのことは……うーん、名前がわかるまで『ぷにちゃん』って呼ぼうかな」
そろそろ呼びかけるための名前がほしいと思い提案してみたが、黒泥は不服そうに二回床を叩いた。「ぷにちゃん」はお気に召さないらしい。そのあとも「くろやまちゃん」「ぽよよちゃん」などいろいろ提案したものの、ことごとく却下されてしまった。
「そっか……その姿だとうっかり忘れそうになるけど、人だもんね……ちゃんと『ぷにさん』って呼ぶことにする」
黒泥から伸びる触手は元気をなくし、少しの間の後、ぺた……っと一度だけ力なく床を叩いた。妥協した感がひしひしと伝わってくるが、本名さえわかれば本名で呼ぶつもりでいる。暫定なので許してほしい。
「今日からよろしくね、ぷにさん」
だらりと投げ出された触手を掬い取り、握手代わりに握りしめてみる。ぷにさんも言葉は話せないが、そっと触手に力を入れて「よろしく」と言うように応えてくれていた。
「私は浄化に必要なものを準備するから、ゆっくりしてて」
ぷにさんが、一回だけ床を叩く。それを見届けてから、作業部屋へと向かった。
聖水や薬の仕込み、お香、守り石……浄化の手段は多くある。呪いの段階や種類によって施術は変わってくるが、一にも二にもまずはかけられた呪いがどんなものであるかを解析しなければ始まらない。そして十分な解析を行うには、穢れをある程度は軽減しなければならないのだ。
準備を終えて戻ると、ぷにさんはクッションの上で変わらない体勢で静かに過ごしていた。もう眠っているのか、起きていて静かなだけなのかは、見ただけではわからない。
音をできるだけ立てないようにカーテンを閉め、傍らに水晶でできた守り石を置いた。水晶には穢れを清める効果があり、吸い取って浄化する性質のため、最も体に負荷がないことから採用した。
あ……ちゃんと思考があるなら、何も着てないってのは心許ないよね……
ぷにさんは呪いを受けただけの人間で、とても服を着られる形状ではない。とはいえ、全裸はさすがにつらいだろう。まだ夏の終わり頃とはいえ、体を冷やしてしまう。
急いでクローゼットから外套とブランケットを取り出し、ぷにさんに外套を着せようとして……手を止めた。
待って、顔どこ?
どっちが足で、どこが前……?
丁寧に観察しても全く判別できず、思わず首をひねる。手にした外套は、宙を忙しなく右往左往していた。悩みに悩んだ結果、外套はひとまず諦め、蕩けた体の下側をぐるりと包むようにブランケットで覆うことにした。
とりあえず、上が頭ってことにしたけど……顔塞いでないといいな。
「おやすみ、ぷにさん」
鳥の巣の中にいるような感じで若干埋もれているようにも見えなくはないが、鬱陶しければ自分で除けてくれるだろう。
この人は一体誰に、何を恨まれて、こんな呪いをかけられたんだろう。
呪いと言っても気のせいで済まされるような軽い嫌がらせのようなものから、この黒泥にかけられたような深刻なものまである。黒泥にかけられたものは、紛れもなく人の人生を確実に破滅させるだけの悪質かつ残酷な呪いだった。
それも、この深さ。呪いをかけた者──念者は、恐らく一人ではない。




