第25話 初めての夜
婚礼のパレードのあと、親交のある国の王族や使節、国内の貴族向けに、エイルのお披露目を兼ねた舞踏会が開かれた。エイルは追われるように婚礼用の純白のドレスを脱ぎ、季節に合わせて誂えた紫陽花のような淡い青のドレスに着替える。初めて公の場でダンスを披露するのが、国中の貴族だけでなく他国の国賓までいる場であることにガチガチに緊張していた。
けれどそれも、フォルの手が触れた瞬間に柔らかく霧が晴れるように消えていった。導かれるままに足を運ぶうちに、失敗なく一曲を終えることができた。その後もひたすら祝いの言葉や挨拶に追われ、宴も終わりに近づいた頃、一足先に下がることになった。
これでようやく一日の……王太子妃としての公務の全てが終わった。そう思ってホッと一息つこうとしたエイルを、息つく暇もなく侍女たちは浴室へと追い立てていった。
あ、あれ……?
婚礼の儀は終わったはずでは?
エイルは王宮へ来てからの三か月、毎日毎日侍女たちによって髪の先から爪の先に至るまで、隈なく手入れされてきた。誰かに体を手入れされる習慣のないエイルにとって、それはそれは凄まじい羞恥とある種の屈辱のような感情をもたらした。
しかしこれも婚礼の儀のため、と内心歯を食いしばって我慢してきた。してきたというのに、なぜ平然と続いているのか。
まさか……王太子妃にとっては日課だとでも……!?
今更なことに気づいてしまい、エイルは無言で、うつ伏せでされるがままに、花の香りのするオイルっぽいもので全身を揉みほぐされながら衝撃を受けていた。正直なところ一連の作業の中で、このマッサージだけは悪くないと思っている。
「今日は大切な初夜でございますね、エイル様」
「初夜……ぁ、初夜……?」
そうだ、初夜だ。
忘れてた……多忙すぎるあまりに。
エイルは再び今更なことに気づき、再び無言で衝撃を受けていた。婚礼の儀が終われば、その日の夜は当然初夜となる。王太子妃にとっては、とても重要な任務であり半分……いや、下手したら大半は公務みたいなものだ。
「髪とか、体はもういいから、このくたびれた顔を……とにかくなんとかして……くださ……」
「もちろんです! さぁ力を抜いて、ゆっくり体を休めてくださいませ」
侍女たちも今日は婚礼の儀のために朝早くから支度を手伝い、何度も化粧直しやら衣装変えやらと働いてくれている。にも関わらず、疲れの色すら見せず、張り切ってくれている。さすが王家に仕える手練れだ。極まり方が違う。
何するかくらいは知ってるけど、どうなるんだろ……
寝室も今日からはフォルと同じ部屋になる。これからはずっと二人で一つの寝台を共にしていく関係だ。
とても大切な変化を迎えようとしている。それはわかっている。けれど考えようとして、考えられないほどに疲れていた。考えても変に緊張してしまいそうで、思考を手放す。そうしていつの間にか、眠りに落ちていた。
──そして次に侍女に起こされたとき、エイルは完璧に磨き上げられたあとだった。何気なく見た爪が鏡のように光を反射しそうなほど艶々で、自分の体の秘められた可能性に震える。もう少ししたら発光するかもしれない。
「では、失礼いたします」
寝室の前まで送ってくれた侍女たちが、どこか期待に胸を弾ませるような表情で微笑みながら去っていった。
子を成せという圧ッ……!!
しかしそれも仕方のないことだ。国王の血を引く子はもう事実上フォルしかいない。エイルが子を成せなければ断絶となり、傍系へと移ることになるのだから。
いいよ……ここまでやってくれたんならやってやる、ってやつだよね。
寝ている間に全てが終わり、何一つ心構えもないままに放り出されたが、そんなことで尻込みしていてはエイル・フェーリの名が廃るというものだ。とにかく寝室に入り、詳しいことはフォルを待ちながら考えればいい。そう思いながらエイルは扉を開け、寝室へと入ろうとして……固まった。
なっ、もういる……!?
扉の向こう、寝台に腰掛けていたフォルが視界に飛び込んでくる。完全に不意打ちされ、先手を奪われていた。
こちらに気づいたのか、彼は読んでいた本を閉じてサイドテーブルへと置き、エイルへと視線を向ける。互いにじっと無言で見つめ合ったまま膠着状態が続き、先にしかけてきたのはフォルの方だった。
「どうしたの、そんなとこに立ったままで。こっちにおいで」
不思議そうに小さく首を傾げ、柔らかく微笑む。その気を張らない自然体な声色と姿に、臨戦態勢だったエイルの心がスッと警戒を解いた。
「あ、うん……」
フォルがぽんぽんと自身の横を叩き、エイルはそこへ腰を下ろした。夜着の生地が少し薄いせいだろうか、隣にいるフォルの気配と体温がじわりと空気から伝わってくるような気がした。
「やっと二人になれたね」
「そう、だね」
「ドレス姿も本当に綺麗だったけど、夜着の君にも見惚れてしまうね」
「ありがとう……えと、フォルも……その……あれ?」
同じようにフォルの夜着を褒めようとして、気づく。別に特別見慣れない姿ではなく、森に住んでいた頃、彼に買った数着の服とあまり変わらないことに。重ね着一枚減らした感じの、白い緩めのシャツと黒いズボンというシンプルさだ。
「……その感じ、私が買ってあげたのに似てるね。王族でも夜着代わりにそういう、格好、も……?」
シャツが気になって袖に触れてみると、明らかに高級なことが手触りから伝わってくる。よくよく見れば金糸で細く繊細な刺繍が袖や裾に施され、ボタンは木製ではなく貝殻製だ。
「作りが、全然違う……同列扱いしてごめん……」
フォルのシャツをすべすべと撫でていると、クスッと彼の笑う声が耳の傍を吐息の熱と共に掠める。
「エイルから触れてきてくれるなんてね。僕が想像してたよりずっと、君は大胆みたいだ」
近くで聞こえた声に顔を上げると、想像していたよりも近い距離で視線と視線が絡み合う。鼓動が一つ大きく跳ねて、彼に触れている指先までが一瞬で熱く火照った。
「ご、ごめ……大胆とかじゃなくて、つい気になって」
「そう? 僕は嬉しかったんだけどな」
フォルは距離を取ることなく、むしろこちらへと手を伸ばす。頬の近くに伸び、反射的に身を固くした。けれどフォルは頬には触れず、緩く髪をまとめていたリボンに手をかける。そのままそっとリボンをほどかれ、まとめていた髪を解きほぐすように優しく指先で梳かれた。
「髪を下ろしてる君を見るのは初めてじゃないけど……いつか、こうやって僕の手でほどいてみたいって思ってた」
今まで言われたことないような言葉に、ぎゅうっと全身が強張る。頭を撫でられても、キスをしてもこんなふうに変に身構えることはなかった。けれど今は、『初夜』を意識してしまっているせいか、何気ないフォルの言葉や触れ方に特別な意味を感じてしまって、いつも通りでいられなくなっていた。
「怖い?」
フォルはエイルの髪を一房口元に寄せ、口づけを落とす。そのあとで窺い見るように、視線を上向かせた。
怖い……わけじゃない。
けど、なんでなのかは、わからない。
「心配しないで。嫌なことはしないし、怖いならやめる。上手くいかなくても焦らなくていい。君の立場は僕が守るって、約束したのは覚えてるね?」
「うん……」
フォルはエイルを安心させようと、ぽんぽんと頭を撫でた。森にいたときにエイルがフォルを労うときにしていたように。
「今日だけでも、慣れない公務を本当によく頑張ってくれてたからね。無理だけはさせたくないし、まだ夫婦になったばかりなんだからゆっくり慣れていけばいいよ」
今日成功できるかは、フォルとエイルの立場的にはかなり重要な話だ。それはきっとエイル以上に、フォルの方が理解しているはずだ。それでもフォルは……「無理」と言えば、本当にする気なんてないのだろう。その優しさが危うくて、だからこそ愛おしくもなってしまう。
私のわがままで、フォルを困らせたくない。
それに、別に嫌とか無理とか思ってるわけじゃない。
私だって、フォルに──
「フォル」
エイルは思い切ってフォルへと抱きつく。勢いに押されたフォルは片手でエイルを受けながら、もう片方の手を寝台の上についた。
「私はフォルが好きだから、大丈夫。嫌じゃないし、怖くもない。ゆっくり慣れていけば良いって言ってくれるなら、今、少しずつ……触れてみて」
フォルはハッと小さく吐息を零し、ゴクリと喉を鳴らす。抱きしめたフォルの体が、少しだけ熱くなったような気がした。




