第10話 大地に恋した空は、一雫を贈った【フォル視点】
秋が深まり、ほんのりと冬の気配を帯び始めた夜。冴えた大きな月の下、フォルティスは泉の水面に映る月を座って眺めながら光を浴びていた。背後で、草を踏む音が聞こえる。ノルンの気配が近づき、背中にふわりと外套をかけられた。
「フォル、直接浴びる方が浄化は早まるけど、そんな薄着だと風邪引くよ? 昼は良くても、夜は冷え冷えなんだから」
「わかってるよ。けど、少しでも、早く呪いを、解きたいから」
もう体の黒い部分は、一番最初に変色した左腕から顔にかけての左半分だけになっている。早く呪いを解き、元の姿を取り戻した状態でノルンに想いを伝えるために、少しだけ無理をしていた。
「そんなに急がなくたって、ちゃんと呪いは解けると思うけどなー」
「呪いは早く、解けた方がいい、はず」
「それは……そうなんだけど……」
ノルンは少し歯切れ悪く言い淀み、ふっと視線を逸らしてフォルティスの隣に腰を下ろした。
「それは期待しても、いいのかな? もう少し……僕と、一緒にいたいって、思ってくれてるって」
ノルンは瞳を満月のように丸くして、目を瞬かせてフォルティスを凝視していた。その反応をどう捉えていいのかわからないが、どうしようもなく今、ノルンに伝えたくなってしまった。
「僕はずっと一緒に、いられたらって、思うように、なった。ノルンが、好きなんだ」
「フォル、私は……」
月が欠けていくようにノルンの瞳は陰り、視線が下へと落ちていく。彼女を困らせてしまった。理由もわからず呪われて、人の形さえ失っていた人間に手を差し伸べてくれるような人なのだから、どうやって傷つけないように断ろうか考えているのかもしれない。
「……聞いてくれて、ありがとう」
言葉が綺麗に話せなくても、最後までじっと耳を傾けて聞いてくれる。どんな醜い姿をしていても、当たり前のように人間として接してくれる。痛みと苦しみに沈む夜も、優しく明るく寄り添ってくれる。名前を呼べば、笑顔を向けてくれる。ノルンの好きなところが泉の水のように湧き上がり、心という器からあふれ出て、零れていた。
「もう少しだけ、ここにいさせて、ほしい。仕事を見つけて、お金が稼げたら、ノルンに必ずお礼をしに、来る。それだけは、受け取って、くれたら嬉しい……」
想いが受け取ってもらえないことは、十分に想像していた。本当の想いを告げる自由……そんな贅沢な自由が、たった一度きりでも許されただけで幸運だと思えた。第一王子フォルティスでは、そんな自由すら認めてもらえないのだから。
「あなたは、何者なの……?」
ノルンの声は、震えていた。こんなにも弱々しくて、探るような声色は初めて聞いた。
ノルンはもしかしたら、こちらの正体をある程度察しているのかもしれない。どの程度の確証を持っているのかはわからないが、フォルティスという本名に対し、フォルなどという安直な略称を名乗ってしまったのだ。そこに関しては、フォルティス自身の落ち度だった。
「僕は、フォル。家も、姓も、仕事も、財産も、何もない……ただの、フォルだ」
もう、全てを捨てる覚悟はした。フォルティスには、何も残っていない。男としての魅力どころか、人間としてすら危うい存在だ。
「もう一つ聞かせて。腰のあたりにある白い痣、あれってさ……いつからあるの?」
ノルンとは一緒に過ごしてきて、体が人の形でない頃は服を着られないときもあった。そのときに偶然見たのだろう。薔薇の花のような形をした変わった痣だったせいか、誰かが言い出した『祝福の証』という認識が定着していた。
「生まれつき、あったもの、だよ」
「生まれつき……か。そっか……」
ノルンは何か腑に落ちたのか、薄く笑って一つ頷いた。そうしてぐっと目を伏せて、開き、まっすぐにこちらを見つめる。瞳には、流れ星のような刹那の光が秘められているように見えた。
「……私も本当は……フォルがいなくなったら、ちょっと寂しいなって思ってた」
ノルンの指先が、心許なくフォルティスの左腕の袖を掴む。真っ黒に染まったままの、左腕の袖を。
きっとそこに、特別な意味はない。無意識に利き手で掴んだだけのこと。けれどその無意識が何よりも、ノルンのフォルティスへの忌避感のなさを表していた。
「一緒にいて……フォル……」
「ノルンが、望んでくれるなら」
ノルンの瞳が、泉の水面の月のように潤んで、煌めいていた。肌色を取り戻した右手で、恐る恐る彼女の頬に触れて、なぞる。ノルンの吐息が零れ、微かに目が細められる。思わず喉が鳴りそうになるのを抑え、そっと唇を寄せた。
ノルンの薄紅色の花のような瞳が、花弁が蕾に戻っていくように静かに閉じられていく。その色を追いかけるようにして、唇が控えめに触れ合う。彼女の方へそっと押し当てると、氷菓子が溶けるようにじわりと柔らかさの中へ沈んだ。
ノルン……僕はフォルとして、君とこれからを生きる。
暗闇に明かりを灯すように熱を結び合って、指を絡めていく。そんな微かなやり取りですら、胸の奥を甘く熱く締めつけた。
想いが通じ合う甘さと幸せを知って初めて、自分がいかにファーヴェルとレジーナにとって残酷な存在であるのかを思い知った。許されない恋に落ちたのは……フォルティスも同じだった。
結んだ糸をほどくように唇を離すと、ノルンの熱っぽく蕩けた視線がフォルティスの視線に絡みついてくる。
「気持ち、悪くなかった?」
「……今更?」
顔の半分は、いまだ真っ黒なまま。それでも、どんなに近づいても、ノルンは怯えも嫌がりもしなかった。ノルンは何事もなかったかのように、ふわりと苦笑した。けれどその眼差しがなぜか寂しそうに見えて、思わず抱き寄せる。
鼓動の音が聞こえてきそうなほど傍で視線を絡めて、もう一度、温かく、柔らかく、彼女の寂しさが溶けるようにと口づけを落とす。ノルンも、フォルティスの体に腕を回して抱きしめ返してくれた。これ以上ないほどに、想いが繋がり合えているような気がした。
──それでも、ノルンの寂しさが溶けることはなかった。
離れた唇から、ノルンの小さく掠れた笑いが隙間風のように漏れ聞こえてくる。瞳には月明かりでできる影のような暗闇が差し、くしゃりと……歪な表情で微笑んでいた。
「……ふふ……フォルティス殿下の、嘘つき」
寂しさの滲む甘い囁きが、透明なガラス片のようにフォルティスの心に突き刺さる。傷口は深く、鈍い痛みがジュクジュクと胸を苛む。流れ出る雫は果汁のように滴り落ちて、赤く、赤く、束の間見た夢を塗り潰していった。
あぁ……ノルンは、全てわかっていたんだ。
僕の愚かさも、弱さも、何もかも。
「ちゃんと、王宮へ帰って。私を理由に逃げないで……迷子の道案内は、私がしてあげるから」




