第77話 ランキエールの花嫁⑤
母なる石のむこうにヴィヴィエンヌを見たとき、俺は、さまざまなことを思い出した。
──私は一度負けた身です。
彼女が初めてランキエールに来たときに覚えた、あの衝撃から、長いのか短いのか、あまりにも濃密な年月だった気がする。
最初はとんでもない女だと思った。俺の入り込む余地なんてない、完璧な人間というものがいるのかもしれないと思って、でもそれは、案外早く覆されて。
──実は私、めちゃめちゃ運動音痴ですの。
こんな人でも欠点があるんだな、ということを学んだ。けれどもそれは単に欠点と言うにはいささか、彼女という人間を語るには相応しくないものだとも、あとになってわかった。
ヴィヴィエンヌという人の本懐は、自らの欠点や失敗を正面から受け止め、一つの言い訳もなく昇華して乗り越える強さにある。そういう強さこそ、かえって完璧な人間の資質と言うべきものである気もする。
そこまで反駁を乗り越えた完璧さは、あるいは人を退け、人間性を廃するものであるかもしれなかったが、俺にとって今、殊更思い出されるのは、先の王太子の結婚式にて、死に行く敵兵に彼女がかけた言葉だった。
──ごめんなさいね。
そう、彼女はとても、優しい人でもあった。
晴れの舞台で思い出すのが戦場の光景、というのは物騒だけれども、俺たちはともに、そういう試練を手を取り合って突っ切って、ここにいる。
そうしてたどり着いた今に、改めて彼女の姿を見ると、より仔細に、寸分の狂いもなく、彼女は完璧な存在に見えて、ただ、
──ああ、この人は、本当に美人なんだな。
と思う。
ランキエール人の赤毛に映えるように作られた漆黒のドレスは、同じ色である彼女の黒髪と艶やかに溶け合って、刺繡の黄色い絹糸が、金糸よりも輝いて見えた。
向かい合い、共に歩むたびに、首元の瑪瑙のビーズと、重ねられたスカートが、針金雀枝の刺繍と共に静かに揺れる。その姿は巫女のように神々しさを放っていて、彼女の藍色の瞳と合ったときには、射貫かれるような感触すら覚える。
にわかに緊張感は高まり、思い出が今ここに結集しているかのような情動が胸に去来して、それが、彼女の美しさという形の納得に落ち着くような心地がする。
静かに足を進める。あの藍色の目との距離がより近づく。
そしてもっとも近い距離で向き合ったとき、俺はただ、このヴィヴィエンヌという女性の晴れ姿に、見惚れていた。
あとは、母なる石へともに向き直り、誓いの言葉を述べるのみ。
しかし俺は、時間感覚の伸びる中でも、予行演習で行ったのと異なることがあるのがわかった。
このあとは精霊司祭が、新郎新婦前へ、と言ってくれるはずだ。
なのに、いつまでたってもその声がかからない。
──手順が変わったのか?
と精霊司祭のほうに振り向くか否か迷ったそのとき。
ヴィヴィエンヌが俺の前へ一歩進んで、静かに立った。
***
母なる石の前でトリスタンの姿を見たときに私は、照れるだとか顔を隠すだとか、そういう気持ちと体の接続が切れたようで、ただ歩きながら、ぼうっとしていた。
精一杯着飾る花嫁の衣装と違って、ランキエールの花婿の衣装はもっとシンプルだ。黒のビロードのズボンに、胴衣は婚礼用のシャツ、黄色い絹糸の刺繍がされたベストの上から、また黒のビロードのコートでまとまっている。
普段の彼の服装とまるで違うから、その差異と、いつもと同じ彼の格好良さがそれぞれ際立って見える。
あらためて見ると、すごい筋肉をしているなぁ、とか。
信じられないくらい脚が長くて、私の胸元くらいあるんじゃない? とか。
うなじに撫でつけられて横に流れる三つ編みを見て、赤毛って綺麗だなあ、とか。
そして、ちゃんと私が縫ったシャツを着てるなぁ、だなんてのんびり考えて、
──ああ、この人と、結婚するんだ。
なんて、もうしてるのに、思ったり。
なんだか過去を振り返る気分にもなった。
私にとって結婚とは、貴族の娘に生まれた以上の責務であり、超えるべき障害としか映っていなかったから、こうして自分の気持ちを動かして、あまつさえそれを嬉しいものになり得るだなんて想像は、振り返れば人生で一度もしていなかったと思う。
結婚式の不思議な気分というものは、これから大人になるための儀式でもあるのに、心は少女に戻るような気がしてしまう。
私にいじらしい少女のころなんてあったかしら? なんて思うんだけれど、きっとそういうことじゃない。人はみんな、心にそれぞれの少女が住んでいて、大人になっていく自分というものを、ずっと眺めていてくれる。
その少女はいつまでも、願いとか憧れとか、人への素直な気持ちとか、私にとって大事なものを手放さずに持っているんだ。そして人生の節々でこうやって前に出てきて、その大事なものがなんだったかってことを思い出させてくれて、困ってしまうこともあるんだけれど、たまにはそれが勇気になってくれたりもする。
私は心の少女と一緒に、愛する人のところへ歩いていく。そうしたら少女は自然に私と重なって、ああ、これはちゃんと私の心だったんだとわかる。
お互いに向かい合って、一番近づいたころに、彼のすっと通った鋭い目つきに、射貫かれるようになった。
──本当はここで、精霊司祭が、私たちを呼ぶ手筈になっている。
でもそれは、少し待ってもらうように、こっそりお願いしておいた。
トリスタンの瞳の奥が、驚いたのかちょっと揺れていて、申し訳なく思う。
すごくたくさんの来賓に見守られる中で、私は彼のほうに一歩踏み出して、彼にしか聞こえない声で、
「トリスタン。ずっと、言えなくてごめんね」
と始めた。
今なら言える。
「ちゃんと私、自分の気持ちを言います」
恥ずかしがるとか、照れるとか、そういう話じゃない。ただ真心と感謝と、自分の本当の気持ちを籠めて、少しだけ息を吸い、言う。
「私、あなたのこと──」
──ちゃんと、ちゃんとこのときの私は、次に続く言葉を言えたんだと思う。
そのくらい私の気持ちは昂って、このランキエールという土地のみんなに背中を押してもらって、心の中の整理もついて、あとはただ静かに、自分の気持ちを口にするだけだった。
もしもこのまま、正常に式が進んでいたのなら。
私の頬に落ちたそれは、この干ばつという災害の中、どんなに浮かれた儀式にあっても、決して無視できるものじゃなかった。
──ぴちょん。
言葉の続きを言う前に感じたそれは最初、自分の汗が垂れたか、前髪から滴ったものだと思った。どれだけこのたった一言を言うために自分が緊張をしているのかを自嘲して、それすらも勇気に変えて口を動かそうとしていた。
──ぴちょん。
──ぴちょん。
だが二度目、三度目と続いたそれは、もう決して汗でも偶然でもない、自然の現象だと知ってしまった。
私の昂った気持ちは急に止んで、為政者としての警鐘が瞬く間に鳴る。
来賓の反応も見る。私と一緒。突如降ってきたそれがなんであるかを理解して、今このときにそれが降ってきたことに、ただ驚愕と混乱をするばかり。
それの正体は、雨粒だった。
空を見上げる。
急に太陽が、どこからともなく湧くように生まれた黒い雲で翳される。
ほどなくして雨が、降り始めた。





