第70話 夫婦の決断③
何事も深く考えないくせに(だからこそかもしれないけど)やたらいい嗅覚を発揮し、さっきまで濁りに濁っていた聖女ミレイユの目は急に爛々と輝きを放ち始める。
「おっと~?」
まるで、この退屈な牢獄生活の中で、突然新しいおもちゃと手に入れたと言わんばかりだ。
「え、なに。あんたたち、エグいプレイとかしてるの?」
「そんなことはしておりません!」
「まあ真面目ちゃんだもんねぇ。どうせ生ぬるいちゅっちゅを二人でぇ。あーはずかし」
「ああもう!」
私の背筋からは冷や汗が滝のように流れている。
──まずい。
これはまずい。私にはこの女に弄られても仕方がない、心当たりがある。
悪いことに、彼女は私にそういう弱みがあるとすでに看破してしまったらしい。
次にはもう、冗談めかした言い方ではなく、
「……じゃあ、どうなのよ」
と、私の目から頭の裏までを突き刺すような目で言ってきた。
「だから、どう、とは」
「いい旦那なんでしょ? あんたにしてはありえないくらい信頼してるみたいだし」
「……それはまあ、はい」
「ん~?」
彼女はんん~? と私の顔を舐めるように眺めてくる。
「あんたもしかしてまだ、相当初心な感じ? まだ生娘だったらぶん殴るけど、えー、さすがにそれはないか。んーやることはやって……ちょっとギリわかんないってか……ん? これはもしかして」
とめどなく流れる汗をぬぐって気取られないようにしつつ、私は扉の方に翻る。
「ちゃんと仲睦まじい夫婦ですよ、私たちは。では失礼、元王太子妃殿下。これからも誠実に聴取に向き合うよう」
「待ちなさいよ。散々人の恋路イジってくれたんだから」
──節度は弁えてたでしょうが!
と反論しそうになったが、明らかに旗色が悪いので留まる。
聖女ミレイユはますます楽しそうな顔をし、思案したあと、素朴に、まるで診断をするように言ってきた。
「ちゃんと愛情表現はしてるの? 毎日好きくらい言わないと」
「あのねぇ。あなた、そういうことをわざわざ他人に言うものではないでしょう。それこそ恥ずかしいくらいにやっていますよ」
「えー、ほんとに?」
「……ちゃんと毎日、言ってくれていますよ。トリスタンは」
「トリスタンは?」
まずい。変に誠実さが出た。
「あんたからは、どうなの?」
ここが勘所か、と言わんばかりに聖女ミレイユは突っ込んできた。
私が黙り込むや否や、彼女は嬉々として畳みかけてくる。
「最後にあんたから好きって言ったのはいつ?」
……う。
「いや、それは、その……」
問われてなお、私はさらに口籠る。
事の次第を理解した聖女ミレイユはもう心底、意外に思う以前に呆れ果てたように、
「……は?」
と呟いた。
そうである。
我ながら非常に情けなく、なんの弁解もできない話だ。
──私は実はまだ一度も、トリスタンに「好き」と言ったことがない。
自分でも、そういった本心の発露が苦手であるという自覚はあるので、何度も何度も挑戦したことがある。また、トリスタンはそういう私の特性をわかってくれたうえで、むこうから何度も、たとえばその、私から打ち返すだけで良い、みたいな状況に持ち込んで言ってくれたことすら多々ある。
だがそのたびに、どうにも頬が紅潮して、彼の目を見ていられなくなり、自分の顔を隠さずにはいられなくなるというか。
というか最近はもう顔を隠すための扇子がないとトリスタンに相対することができなくなっている。仕事で背筋を立てているときと、プライヴェートな感情はもう乗り越えようとするたびにかえって距離が開くばかり。
すべては私に、ほんのちょっと、一言を言うだけで解決することを乗り越える小さな勇気がないがばかりの、馬鹿みたいな話だ。
聖女ミレイユは、深い、深いため息をつき、「ないわー」と言い、また、深い深いため息をつき、それからまた「ないわー」と言ったあと、私の方を向いて続けた。
「あんたそんなんであたしの話を人質にしようとしてたの?」
「……必要なことだったので、はい。仕事にプライヴェートは持ち込むべきでないと考え、恥を忍んで、はい」
「ごめん、ちょっと。今、あたしめっちゃ非難しそうになったんだけど。ってかそもそも、もうちょっとエグい話に突っ込んでやろうかと思ってたのに」
「……非難されたら、甘んじて受け入れるところでした。はい」
「まあ、そうね。うん。逆に心配になっちゃった」
かつての怨敵に、こんなことで心配されてしまった。
こんな生温い見逃され方をし、あまつさえ安堵している自分がもうあまりに情けなく、これならまだ堂々と非難された方がまだマシなくらいだ。
「仲は、良いんでしょ?」
「……はい」
「あんたはあの男のこと、好きなんでしょ?」
「それは、まあ……その、なんですか」
「好きなのかって聞いてんだけど」
「否定は、しませんが。その、言葉にせずとも、伝わっている、ものかと」
聖女ミレイユはもう途中から、諭すような口調だった。
「ちっ! 想像よりもおこちゃまだったわー、けっ、つまんねー。まあそういうふうにうだうだできるのも特権っちゃ特権よねー」
彼女は改めて煙草に火を付け、大きく吸って、牢獄の壁の向こうを見通すほど遠い目をしたあとに、私に言うわけでもなく、ぽつりと零した。
「でも真面目な話、ちゃんと言っとかないといつか後悔する日が来るわよ。貴族の恋って、儚いとこあるからさ」
それについて私は、なんの反論する材料も張れる意地も残っておらず、ただ素直に呑み込んだ。
「……肝に銘じておきます」
少なくとも、聖女ミレイユが己を『愛の化身』、と言うことについて、それを私が自称と言い換えるような権利は、まったくないように思われた。





