第60話 やさぐれ聖女④
聖女ミレイユは顔を腕に埋めたあと、しばらく経って、開き直ったように喚き出した。
「な、なにを今更! あたしはアドリアンを愛してるに決まってるじゃない! そもそもあんたのせいで無理やり夫と引き離されたのに恋しくないわけないし。あたし教会の象徴よ? 聖教で離婚は許されてないしー。あー我が夫が恋しいわーアドリアンだぁい好き」
当たり前のことですがなにか? と言わんばかりである。
私はそれに応じず、
「そういうことを言ったんじゃありません」
と返し、格子の向こうの彼女に言ってやる。
「制御できないほど恋しいのか、と聞いています」
それが聞こえた瞬間、聖女ミレイユは血相を変えて私の前に駆けつけ、格子の隙間から手を出し、私の胸倉に手を伸ばしてきた。
私はそれをあえて避けず、掴ませるままにした。
彼女は精一杯に腹から声を出し、凄んでくる。
「訂正しなさい」
「煙草臭いわよ、聖女さま」
「黙りなさい。光の聖女は愛の化身なの。愛に振り回されることなんてあってはならない」
私は彼女の目を見返した。
濁りきっていた瑠璃色の目に、意思の籠った怒りの光が見える。
私は握られた胸元の、か細い手首に手を添え、言った。
「手に力が入っておりませんことよ?」
もともと食器より重い物を持たない生活を送っていて、不健康な牢獄生活に、酒と煙草に蝕まれきった体。こんな握力、脅威でもなんでもない。
私の襟の締まりはすぐに緩くなった。聖女ミレイユはもう自身の力では掴み続けることもままならないと知って、結局しゅんとして、大人しく牢獄の床にへたりこんだ。
「歴戦の娼婦であるあなたが誘惑をやめた、と聞いていたんですが、そういうことですか。今まで呼吸のように男を誘惑していたけれど、本当に好きな人ができたらそれができなくなったと。まあなんといじらしい」
「お、おこちゃまね! これも娼婦の手練手管。女が『恋した日から他の男が目に入らなくなったの』って言ったら、案外男は真に受けるのよ? ビッチが清純になったら清純より清純なの」
「それを牢獄の中でやってなにがいいの、という言葉は呑み込みますが……」
聞いていて可笑しくなるくらいへなへなとした反論である。
「本当にそうなら、別に実行せずとも、いつか会えた日に言葉だけそう言えばいいじゃない。あなた自身に罪悪感が芽生えて、気持ちを守りたいと思ったのは本当でしょう」
「こ、こ、言葉をろーしないで! なに言ってるかわかんない!」
「とっくに語るに落ちていますねぇ……」
いい加減不利を認めたのか、聖女ミレイユはもう口答えすらしなくなった。
「……うー」
彼女は顔を真っ赤にしながら、ただ床を見て唸る。
「……うー」
また、唸る。
「もう一度、会いたくないの? アドリアンさまに」
「……うー」
「野暮な告げ口をするつもりはないわ。そのために人払いをしたの。でも、ここで私に希望を言ってくれたら、然るべきときに気を利かせるということができるようになります」
「……ほんとに言いふらさない? 大事なことなんだけど」
「言いふらしませんとも」
「……うー」
しばらく経って、彼女はぽつりと零した。
「会いたい、かも……」
「よろしい」
素直に答えたことに免じ、言えることを思案したあと、私は喉をこほんと整えて、言った。
「アドリアンさまは現在、身分を隠し、他の囚人と共に労役に就かれているわ。はっきり言うと、かなり危険な堤防の建設をしています」
それを言うと一瞬、聖女ミレイユの顔が曇る。
「しかしこれは、国王陛下による教育的な措置も含まれていることです。十年、下手をすれば何十年かかるかわかりませんが、刑期を終えたのち、然るべき成長をなさっていたのなら、なにか世のために奉仕する仕事を、表で行うことが許されるかもしれません」
たぶん、これが伝えられるギリギリだ。
ここまで言えば、このポンコツトンチキ聖女でも、言いたいことは伝わるだろう。
聖女ミレイユはうん、と頷いたあと、こう返してきた。
「それってつまりどういうこと?」
……伝わっていなかったみたいだ。
「簡単にはいきませんが、アドリアンさまは遠い未来に、制限付きで釈放されるかもしれません。だからあなたも変に荒れたりせず、悔い改めて社会に奉仕するなら、望んだ再会にいつか至れるかもしれない、と言いました。あなたが真面目に聴取に応じる限りは、私もその手助けをいたしましょう」
彼女はゆっくりと私の言ったことを咀嚼して、認めたくないことを認めた歯がゆさと、もしかすると叶うかもしれない希望の間で行き来し、しばしの間、あー、とか、うー、とか言って、縮こまる。
そのあと、顔を上げて見えた彼女の瞳は、もちろん不健康な生活で濁りきっているのは変わらないものの、一筋の光にも似た渦巻きが見えた。
おそらく、納得はしてくれたようだ。
この話の流れなら、ちょっとした聴取の続きはできそうだと思い、私は、
「ちなみに、アドリアン殿下に惹かれたというのは、あなただけの意思なの? それともあなたの中にいるらしい、歴代の光の聖女も同じ?」
と尋ねてみた。
聖女ミレイユは、さっきの勢いが残っていたのか、一度反抗しようとした雰囲気があったけれど、すぐに思い直して、まあいいか、と肩を落とす。
「……えー、ちょっと待って。あんま区別とかしてなくて」
彼女はそのままの姿勢で、両手の人差し指を側頭部に当てて、目を瞑った。
──今、彼女は“区別”と言った?
これは報告書にもなかった要素だ。
思わず問い詰めそうになったけれど、止まる。まずは思うように話させてみたい。
聖女ミレイユは目を開け、頬をまた染めながら、勇気を振り絞るように、
「……みんな、好きって言ってると思う。たぶん」
と言った。
「みんな、ですか?」
「うん。けっこう満場一致。あれは“アリ”だったって」
まるで、複数の人格と会話を終えたかのような言い方だ。
「いやね? そりゃ、私たち、モテてたのよ? いろんな人の心を奪ってきたし、あんな……その、甘ちゃんのお金持ちなんていっぱい、誑かしてきたし。命を懸けさせたりなんかも、したし。神殿での話だって知った上で私を愛そう、みたいな男もいたんだけど。なんつーか、その、こう。それはちょっと騎士ごっこ入ってたっていうか、私に夢見てたっていうか。そういうのって結局死に際に恨んでくるみたいなこともあったし。だからわりと私たち結局グレてたっていうか、男ってそんなんよね、みたいな感じだったっていうか」
滔々と語る彼女の瞳は、あちらこちらにやりながら、気まずそうだったり、かと思えば懐かしそうだったり、何百年分の記憶を掘り返しているようでもある。けれど総じて、混濁しているような危うい印象はない。統一された意思の下で話しているように見える。
「アドリアンについてはその、顔は好みなんだけど、器ちっちゃいところもありつつ。いやこう、そういう器デカいとか頭いい系男子がいいとかなら、そういうのは今までいくらでもいたんだけどさ、こう。大事なのはシチュっていうか、そのときにどういう態度取れたかが全部、みたいなところが本当というか、その」
そこで聖女ミレイユはいったん、言葉を切った。
彼女は逡巡したあと、言うか言うまいかして、周囲に目を遣り、もうどうにもならない、と言うかのように、また近くの小樽を両手で掴んで酒を一口煽ってしまった。
私はそれも、あえて見守る。
聖女ミレイユは会話を放棄したわけではないようだった。今飲んだ酒の酒精が回って勢いがついたと言わんばかりに口火を切り直してくれた。
「なにもかも全部なくなって、全部知って、別に誰にマウント取れるわけでも縋るわけでもなく、覚悟? とかでもないな。えー、うーん、うー……」
彼女がどの場面を思い出しているのか、私にもわかった。
私がこの聖女と王太子アドリアンを断罪したあの日、あの時。
──俺にはもはや、何もないんです。
なにもかもを曝露され、ただ泣き叫んで裁きを待つしかない哀れな女の背中に手を置き、彼は優しく言ったのだ。
──だから、彼女を愛したという過去までも、捨てたくはない。
そして聖女ミレイユは、本当に恥ずかしそうにしゅんとして、消え入るように、
「……たぶん、ガチだったの。あれ」
と呟いた。
ここまで話させておいてなんだけれど、私は少し、訝しんでもいた。
このしゅんとした様も含めて、光の聖女の“蠱惑”なのではないかと疑ったからだ。
そもそも光の聖女の持つ“蠱惑”とは、一概に言ってしまえばそもそも本人にとっても制御不能なもの。だから意図せず被害が甚大になるし、被害の大きさに聖女本人は無自覚だし、その隙の多さことが“蠱惑”たりえる一要素でもある。
しかし、光の聖女に愛の化身という自覚があり、相応の誇りがあるのなら、彼女たちなりに自身の“蠱惑”を思い通りにしてきたつもりだった、という見方もできた。そんな中でも本人がアドリアンさまへの気持ちの発露に否を唱え、隠そうとしたことは、ある程度有意味にも思える。
絆されるつもりはない。警戒は続ける。
ただ、私を前にして、もはや可愛い子ぶるでもなく、醜く拗ねて喚いた挙句、言ってしまえば「男に惚れた」という事実を知られただけのことを、まるで世界の秘密が握られたかのようにふるまう姿は、蠱惑と言うには真心じみている。
聖女ミレイユはふと、思い出すような目から今に戻り、
「あんた。その、もっかい、確認なんだけど」
と始めて、恐る恐る言ってくる。
「……誰にも言わないわよね? その、アドリアンのことは」
この幼い真剣さまで疑ってかかるのは、さすがに野暮に思えた。





