第53話 晴れの子②
明け方に破水したとの知らせが入って、私もいよいよ屋敷の一階に降りると、そこではいつにも増して大男と大女たちが右往左往し、屋敷の基礎をギシギシと揺らしていた。
「どうしましょうどうしましょう」
ノルウェンを始めとした侍女見習いたちは、私が諫めたにもかかわらず、結局いつも引き締めていたロゼット本人が欠けているせいで落ち着かず、みんなでおろおろしていた。
そして、集まってきたロゼットの親戚の男衆──父親や祖父、妹の夫や甥っ子たちである──も、座ったり立ったりしつつ、
「どうするどうする」
「どうなるどうなる」
というように、みんなしておろおろし、そこらへんを歩き回り、十字を切ったり母なる石の方向に祈ったりしている。たまにロゼットのいる侍女室から年配の女衆が出てきて、あんたらうるさいんだよ! と一喝され、しゅん、としたあと、またすぐみんなしておろおろし始める。
こんなふうに、屋敷の一階の広間は、巨大な人間たちが押し合いへし合いおろおろして行き交う、目も当てられない大騒ぎになっていた。
その様子を受けて、私は隣のトリスタンに呟いた。
「どうしましょうどうしましょう、なにかあったのかしら」
「……君までそんな調子でどうする」
トリスタンは呆れた様子で言って、中指の関節で軽く私の頭を小突いた。
「周囲が落ち着いてないといけないと言ったのは君だろう?」
「そ、そうですわね」
深呼吸をする。
呑まれそうになったけれど、私はおろおろしている人を見れば逆に落ち着いてくる質だ。すべてはちゃんと計画した通りになっている。
ただ、みんながおろおろしているのは、たまたま全員がおっちょこちょいだから、というわけではない。さっきから断続的に、本当に苦しそうな呻き声と、そして、何かが軋んで破壊される音がしていた。並みの神経ならこれが続いていたらそりゃあ心配にもなる。
私はその音を聞いてなお、改めて自分に言い聞かせた。
──大丈夫。今、部屋の中にいるのは、経験豊富な者ばかり。
侍女室にいるのは、私が呼んだ専門の産婆と、ロゼットの母親及び妹たち、そして夫のカイルの方の女衆たちである。
人数が必要なのは、それだけロゼットが強く、とんでもない筋力をしているからだ。彼女が遠慮なしに手を振って、それが当たりでもしたら並みの人間じゃ即座に骨を砕かれる。また、なにかにしがみつこうとも、彼女の制御が効いていなければそれは即座に握り潰されてしまう。
そうならないためには、ロゼットを幼いころから見守ってきた家族が常に見張って、彼女の手を握り続けないといけないのだ。
主人であっても、非力な私にできることは少ない。
ならば私が励ますべきは、もう一人の方だろう。
部屋の前で静かに座って壁にもたれかけている、ランキエールで一番の大男に、声をかけた。
「カイル」
「……嬢ちゃん」
「もう少しって聞いたわ」
「ああ。らしいな」
カイルは私が声をかけたことに後から気づいて、力なく相槌を返してきた。そして静かに息を吸って、ゆっくりと言った。
「……ありがとよ。なにもかも世話してくれて」
「いえ、当然のことよ。普段、世話になっているのは私のほうだから」
ふと、彼が手に十字架を握っていたのが目に入る。
カイルは信心深いほうじゃないはずだ。いつも水と農作物の、量と丈だけをしっかりと見て考えていて、迷信じみたことや祈りなんてものは信じない。
「んにゃ。普段は、なににも祈らねえんだけどよ」
私がそう思ったのを気取って、カイルは続けた。
「いろいろ過る。俺が早く意地を張るのを辞めてりゃ、もっと楽なこともあったかもしれん。逆にちゃんと意地を張り続けていられたら、あいつにこんな無茶をさせずに済んだのかもしれん、ともな」
彼にしては珍しく──もっとも仕方のないタイミングなのだけれど──弱気な物言いだった。
私はいつものように言葉を尽くして励まそうとする。でも、それはかえって不誠実で的外れな気がして、途中でやめた。そういう妻と夫だけの苦しみや迷いに、私のような小娘が口を出すべきではないからだ。
だから私はただ、腕を伸ばして、うなだれるカイルの肩に手を置いた。
カイルは私の目を見下ろす。私は頷いて、二人で一緒に、ロゼットが頑張っている部屋の扉を見た。
しばらく経つと、女の精霊司祭──この場合は精霊司祭と言う──が到着した。ランキエール流の安産の祈祷と、無事に生まれたときの祝福を授ける係だ。
残る人間で唯一部屋に入れるのは、その精霊司祭だけ。彼女は中の者と二、三やり取りをし、部屋の中に入っていった。トリスタン曰く、そうなったらいよいよ佳境だそうだ。
その瞬間が迫ってきて、みんなもうおろおろしている暇さえなくなって、ただ宙に向かって祈るようになるのみだ。
そして、太陽が昇って屋敷の中にうっすらと日光が差すころ。
屋敷全体に轟くほどの、大きな産声が響いた。
*
しばらく経って来た報告によって、待っていた家族たちはにわかに沸き立った。
「男の子です!」
最初に大きく喜んだのは、カイルの父親である。
カイルは農場の一人息子だったから、彼にちゃんと息子ができるかは切実な問題としてあったようだ。
最初の処置が終わったあと、カイルが呼ばれた。精霊司祭と共に、祝福に立ち会うらしい。
小一時間経つと、母子ともに健康で、最初の授乳も終わり、ロゼットも話せる状態だという報告が入った。それから無理のない範囲で代わる代わる親戚が行って、それぞれごく短い時間、赤ん坊への初めての挨拶と祝福を済ませた。
その間ずっと、温かで静かな、笑い声だけが聞こえてくる。
私たちの番がやってきて、私とトリスタンも部屋に入れてもらえることになった。
たった一日ぶりだけれど、見えたロゼットはベッドの上でぐったりとやつれていて、でも大仕事を終え、母になって我が子を抱くその姿には、ある種の勇ましさが見えたというか。それがこう、妙に久しぶりにすら感じたというか。
「お疲れさま、ロゼット」
私は彼女に、静かに声をかけた。
「おかげさまで、元気に生まれました」
「なにをおっしゃい。頑張ったのはあなたと、その子じゃない」
ロゼットは照れくさそうに笑って、我が子に目を落とす。そして言う。
「奥さまも、この子を抱いてあげてくれませんか?」
そう言われることを予想できていなくて、私はたじろいた。
「で、でも、私、赤子の持ち方というのも……」
「ちゃんとお婆さまが手伝ってくださいますから」
あれよあれよと、赤ん坊はロゼットの祖母に抱き上げられて、その祖母は子の頭だけはちゃんと支えつつ、正面から私に半分だけ体重を預けさせる格好で、その子を抱かせてくれた。
……しかし、その赤ん坊の大きさというのが、ロゼットの腕を離れたあたりで縮尺が妙だと思っていたのだが、ちょっと私には不適正なくらいで。
なんと、私が腕全体を使っても、とても抱えきれず、頭が零れてしまうほどだった。
「お、おっきく、ない……?」
トリスタンに確認する。
「ランキエールでも規格外の赤子だ。加えて男ときた」
彼はうんうんと頷いて続けた。
「大仕事の、大手柄だ。一族みんな誇らしかろう」
ロゼットと、隣に控えるカイルは心底安心したように微笑む。
それから赤子がロゼットの腕の中に戻ったとき、私はカイルに尋ねた。
「名前は、もう決めたの?」
「……ああ。二人で前から話しててな。男の子なら、名前はクレール。ランキエールじゃ昔から晴天を願うときに祈ってきた、偉い人の名だ」
彼は微笑む妻の腕の中に目を落とす。
「おうクレール。己の倅よ。ちいとばかし、乾いちゃあいるけどよ。お前が生まれたのはなぁ──」
そして部屋の中に間接的に差した陽光の中で、大きな口の端を優しく緩ませた。
「──みんなが笑顔の、晴れの日だ」
それに答えたのか、そういうわけでもないのか、クレールは「ふぇ」と小さな声を返す。カイルとロゼットは優しくふふっと笑う。
私とトリスタンは、親子三人の様子を見てきっと同じことを思い、目を合わせる。
──この笑顔を、守らねばならない。
私たちはともに、そう誓った。





