第52話 晴れの子①
「うーん、やっぱり、決まりませんねぇ」
いつもの執務室で、私は壁に張り出されたリスヴァロン王国の地図を前に腕を組み、じっと見つめて思案に耽っていた。
視線を遣るのは王国東部。各地の母なる石と主要教会・聖人の墓にピンを差し、どの順番で回れば一番効率的か、そして、効率を重視するせいで各所の意向に背くことにならないかを、順列組み合わせで慎重に検討する。
なにを考えているかというと、来るべき巡礼祭の順路だ。
巡礼祭。
それはかつてランキエールを含む王国東部地域で行われていた、土着の巨石信仰と聖教が合体した巡礼の祭りのことである。
ランキエール公爵領の威信を示すなら、万一にもこの順番を間違ってはいけないのだが──
「──うーん」
どうにも、まとまらない。
両腕を組み、右手の人差し指で左の二の腕をとんとん、と叩く。
「うーん」
私があんまりにも唸るので、トリスタンがそろそろ心配になって椅子を立つか立たないかする。
「うーん」
「……落ち着かんか?」
「えー、うーん。そうですわね、うーん」
私はまた唸って応える。
しかし、もう認めざるを得ないので認める。
「……ええ。正直に言うと、少しドキドキしています」
今や私は公爵家の息子夫婦にしてこの屋敷の奥さま。決して暇ではなく、現在は大絶賛仕事に邁進中のはずなのだけれど、今日だけはどうにも様子が違う。
実はそれは、巡礼祭とは関係がない。極々個人的な心配事というか、個人的といっても私のことではないのだけれど。
「やっぱり、ロゼットが気がかりですわ」
「……俺もだ。まあ、待つしかないのだが」
なにかというと、今、ロゼットが屋敷の侍女室でお産に励んでいる。
印しがあって、ロゼットが屋敷の侍女室に運び込まれたのが昨日のこと。もういつ破水してもおかしくない状況だ。
実は彼女の出産については、前々から準備をしていた。初産にしては比較的高齢であることと、なにより、カイルとロゼットというランキエール一の大男と巨女の子であるからして、もしも難産だったときの不安が大きかった。
そこで私は、産婆の確保はもちろん、王都からも医者と医療魔法を使える者を予め呼んでおいて、いざとなったら屋敷で安全に産めるよう準備をしていたのである。すでにロゼットとカイルの家族も呼んでいて、到着した女衆は産婆と共にお産の介助の準備をしていて、男衆は部屋の外で祈る係だ。
主としてはやれることはすべてやり、あとは本人と産婆、医者、ロゼットの親族と、なにより運にかかっている。
だから私はどっしりと構え、ランキエール全体を見て仕事に邁進するのがいいわけで、であるからして、一生懸命仕事の続きをしようとしたのだが。
やはりどうにも、身が入らない。
そのとき、執務室の扉が叩かれた。背がビクッと震える。
「奥さま。トリスタンさま。お紅茶をお持ちしました」
破水の知らせかと思ったら、来たのは侍女見習いのノルウェンだった。
「あら、ありがとう」
「前のカップをいただきますね」
彼女はそう言って、盆の上からティーポットと私が飲んだあとのカップを取り換える。そして貴い家の侍女らしく、優雅に湯をポットに注いでいく……
はずが、彼女の手はブルブルブルブルと震えていた。
「落ち着きなさいな」
「だって奥さま、ロゼットさまのお産ですよ!? いつもロゼットさまが一番落ち着いてくださってるかたで、その、その」
あわあわするノルウェンを窘める。
「だから落ち着きなさいな」
「それに、カイルさんとロゼットさまのお子です! きっととても大きくて、健康ならいいんですけど、頭が引っかかってしまったら!」
「あのねぇ……」
私はあくまで冷静に努めて言った。
「そのときはそのときです。いつ何時も、夫がどうであろうが、女にとって出産は命懸け。もしものときの医者は呼んでいます。私たちが産むわけでも、子を取り上げられるわけでもないんですから、ただどっしりと構えてなさい。万一ロゼットに私たちの不安が伝わってしまったら、それこそ良くない影響がありますわよ?」
「そう……ですね」
「とはいえ、自分ごとのように案じてくれる部下がいることは、決して悪いことではないはずです。夫のカイルが部屋に入れない以上は、ロゼットの家族とあなたたちが、交代でそばにいてあげるんですよ」
「は、はい! 失礼いたしました!」
ノルウェンはそう言って、今度は落ち着いて紅茶を入れてくれる。
それからお盆を胸に抱いて頭を下げ、執務室を出て行った。
──まったく、落ち着きがないったらないわ、もう。
私は静かにティーカップを持ち上げ、入れてくれた紅茶を飲もうとする。
しかし、あれ?
カツン、と音がした。
なんと私とあろうものが、ティーカップの飲み口に歯を当ててしまったのだ。しかも目の前の紅茶の水面が波打っている。
というか手がブルブル震えている。
私はなんとか紅茶を零さないようにしながら、トリスタンに小さく言った。
「……どうしましょう、トリスタン」
「君が一番落ち着いてないなぁ」
彼は身を乗り出して、受け皿ごとカップを押さえ、なんとか私の手と一緒に紅茶をテーブルの上へ軟着陸させてくれた。
「だって一番頼っていた侍女頭のお産ですのよ!?」
「……不安なのはわかるけどな」
「カイルとロゼットの子ですよ!? きっととっても大きくて、健やかならいいんでしょうけど、えっと、頭が引っかかっちゃったらどうしますの!?」
「ノルウェンと同じ不安を抑え込んでいたんだな。偉いぞヴィヴィエンヌ」
そりゃあもう、不安で不安で仕方がない。
ロゼットのお産も、これから先に私たちが彼女に用意できる未来も。
いくらランキエールの経済が上り調子だからといって、今私たちは干ばつに直面している真っただ中だ。水も、干ばつにしては潤沢にあるけれど、使用制限はかかっているし、小麦の生産を控えるなどして、食習慣ごと変えて対策している側面もある。豊かさは保っているけれど、非常事態には変わりない。
そんな中で出産に踏み切ろうという夫婦は、ランキエールにあっても多くない。ロゼットは遅い結婚だったから、干ばつが終わるのを待っていたら機を逃してしまうかもしれないという事情も含めて、今回のお産に至っている。
赤の他人である私でもこんなに不安なのに、当人のロゼットの心境など、もはや測りようがない。
それでも主人が不安定なのは良くないから、私は深く息を吐き、改めて受け皿ごとティーカップを持ち上げて、優雅に紅茶を飲もうとする。
が、また飲み口が歯に当たる。今度は複数回。前歯の右側と左側。というか受け皿ごとカチャカチャ鳴って、もう起き上がり小法師みたいにカップは左右に揺れ、受け皿の中にとめどなく紅茶が零れていく。
「あ、ああ! あああああ」
「だから落ち着けと言ったろうに!」
またトリスタンが書斎から身を乗り出し、今度は私の手から、カップを受け皿ごと上に取り上げた。





